想い、乱れて
――5月17日(火) 午後18時32分 秋良宅・風呂場――
(「秋良」)
(「ごめんなさいね」)
頭の中で何度も、何度も、先ほどの光景を思い起こした。
そして、それと同じ数だけ、微笑む千早に「ごめんなさいね」と謝られた。
それは、何に対しての「ごめんなさい」だったのか。
裏切って、ごめんなさい。
見られちゃって、ごめんなさい。
あなたじゃない女とこんなことしてて、ごめんなさい。
考えれば考えるほど、秋良の中の千早は意地悪くなっていく。
大好きな千早の微笑む顔が、その笑みが、イメージの中では歪な嘲笑に変わっていく。
(違う!)
ばしゃん!!
と、そんな想像を掻き消すように、自分の顔をお湯に叩き付ける秋良。
揺蕩う温湯の柔らかな感触が、鬱屈とした気持ちを洗い流してくれるように感じて、秋良はしばらく顔を浸していた。
「ぷはー……!」
やがて息が続かなくなると、水面から顔を上げて深い呼吸をした。
呼吸が落ち着くと、顔にかかる暖かな湯気の感触に心地よさを覚えた。
部室でのことが無ければ、心からリラックスできたに違いない。
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結局、千早の「ごめんなさいね」を聞いたあと、その場に居た堪れなくなった秋良は、一目散に部室を飛び出した。
千早も美奈も、それを黙って見送った。
美奈は何か言いかけたような気もしたが、秋良にはそれを気に止める余裕はなかった。
部室から飛び出すと、神宮寺高校の新館と、演劇部がある旧校舎を結ぶ長い渡り廊下を、自己最高記録で駆け抜ける。
千早も美奈も追いかけて来てなどいないというのに、秋良は酷い焦燥感と恐怖感に襲われていた。
学校前の長い坂を転びそうになりながら駆け下りると、河川敷の沿道を息もたえだえに走ってきた。
「はっ……!はっ……!うっ……!はぁ……!はっ……!」
普段なら何ともないような距離だというのに、呼吸が乱れる。
息が上手くできない。
「あっ!!」
ふいに、足が縺れて派手に転んだ。
咄嗟に、地面に手を着く秋良。
しかし勢いは殺しきれず、道端の小石が手の平に食い込んで、いくつかの傷を付けた。
「痛っ……!」
手の平にじくじくとした鈍い痛みが広がる。
皮膚が切れたのか、ところどころ血が滲んでいた。
ゆっくりと立ち上がると、秋良は再び走り出した。
頭の中では、千早と美奈のキスシーンが何度も、何度も、幾度となく繰り返し上演されている。
それを少しでも振り払いたくて、秋良は只管に走った。
手の平に、じわりじわりと血が浮かぶ。
秋良は走り続けながら、いつしか泣いていた。
声を上げて泣かなかったのは、秋良なりの最後の抵抗のつもりだったのだろう。
しかし、溢れる涙を誤魔化すことはできず、止めたいとも思わなかったので、秋良は流れ出る血も涙もそのままに、ただただ家路を急いだ。
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「はぁ……」
湯船に浸かりながら、秋良は柄にもなく大きな溜息をつく。
それは風呂場に反響し、耳障りなエコーを作ると、やがて消えていった。
耳に残る長く大きい溜息が、秋良の今の気持ちを代弁していた。
ふいに手の平を見やる。
いくつかの真新しい傷跡が、皮膚の下から深紅の血肉を覗かせていた。
拍動に合わせてじわじわと湧いてくる鈍い痛みは、この傷のためか、それとも秋良の心に刻み込まれた先ほどの光景のためか。
そんなことを考えているうち、秋良は頭に血が昇ったようなくらくらとした感覚を覚えた。
(……もう上がろう)
心なしか重くなったように感じる腰を上げ、水の抵抗からくるものとは違う倦怠感を振り払うように、秋良は一気に立ち上がると、湯船を後にした。
そうして脱衣所に立つと、柔らかなバスタオルで身体についた雫を拭った。
(こうやって触ってると、ボクってやっぱり女なんだなぁ)
何の気無しにぼうっと、そんな事を考える。
(女としての自分を好きになって欲しいと、そう思いを込めてボクに姫の役を与えてくれた千早。
姫を演じ切れたご褒美に、と首筋にキスをくれた千早。
あの柔らかな感触と、優しい声。)
それが、もう自分の元にはない。
自分の物では、ない。
そう思った瞬間、秋良は自分の中の何かが、その熱が、静かに冷たくなっていくのを感じた。
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「美月? お風呂上がったの?」
リビングに戻ると、台所から母親の声が聞こえた。
「うん、出たよ」
気のない返事を一つ返すと、リビングに面した階段を登り始める。
「もうご飯になるよー?」
階段を上がる音に気づいた母親が、秋良を呼び止める。
「ごめん母さん。今日お腹空いてないんだ。このまま寝るよ」
階上から早口にそれだけ言うと、秋良は足早に自分の部屋に向かった。
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部屋に戻ると、秋良はすぐさまベッドになだれ込んだ。
柔らかなマットレスの弾力と、タオルケットのふわふわとした感触が心地良い。
寝具に身体を沈めると、秋良はようやく人心地ついた。
(……疲れた)
一旦心を落ち着けると、今日一日の様々なことが自然と蘇ってきた。
美奈と演技の掛け合いをしたこと。
今までにないくらい大きな声で、役を演じたこと。
(もう少し練習したら、きっといい役になるだろうな)
そう思うと、少しだけ心に元気が湧いてきた。
しかし。
次の瞬間には、あの資料室での二人のキスが顔を覗かせるのだ。
あれから二時間足らずの間に、数十回は繰り返し再生されたであろうあの光景。
それが、脳裏に鮮明に浮かぶ度、秋良はやり場のない怒りと、言い知れぬ恐怖を感じるのであった。
「千早、どうして……?」
思いが溢れ、言葉として紡ぎだされる。
すると。
「ごめんなさいね」
と、千早のあの言葉が幻聴のように聞こえてくるのだ。
そうして、無意味な問いかけをすることに疲れた頃、携帯電話がメールの着信を告げた。
(誰だろう……?)
ベッドサイドに置かれた携帯電話を拾い上げ、二つ折りの本体を手馴れた動作で開く。
画面が点灯し、メール画面が浮かび上がる。
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Date:2009/05/17 18:49
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From:麻実 莉奈
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Subject:大丈夫?
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みーちゃん、こんばんは。
さっき学校から飛び出してくのが見えたんだけど、何かあった?
私でよければ相談のるよ!
あ、言いにくいことだったらスルーしてね(汗
-END-
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「……莉奈か」
彼女、麻実莉奈は、先日の配役戦争の際、美奈の主演を最後まで訴えていた一年生その人である。
莉奈は美奈と特に仲がよく、千早とも交流があったため、一年生の立場で直訴することができたのだ。
秋良、千早、美奈、莉奈は小学生の頃から同じ学校に通っており、所謂幼馴染である。
だから、それぞれ学年に差はあっても、互いに対しての遠慮はほとんどない。
美奈が千早の配役や秋良の演技に対して深く言及したのも、その関係があってのことだ。
秋良と千早にしても年は千早の方が上だが、千早は秋良に敬語で話すのに対して秋良はタメ口である。
ただし、それぞれに相性はある。
千早と美奈は昔から、互いに仲が良いながら牽制し合っている節があるし、莉奈は美奈について回る妹のような立場からか、美奈とぶつかることの多い千早に対して少し敬遠がちであった。
秋良は特に苦手な相手はいなかったが、澄まし顔でありながら千早に対しての独占欲は強かった。
そんな四人の関係が大きく変わろうとしているのを、秋良は感じていた。
いや、もしかしたら、もうずっと前から変わってしまっていたのかもしれない。
自分がそうと気づかなかっただけで、千早はずっと、自分ではなく美奈を見ていたのかもしれない。
「……ち、はや……」
そんなことを考え始めると、又候秋良の頬に涙が流れ始めた。