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初夏千秋  作者: 鳴海 千織
6/16

想い、乱れて

――5月17日(火) 午後18時32分 秋良宅・風呂場――


(「秋良」)


(「ごめんなさいね」)


 頭の中で何度も、何度も、先ほどの光景を思い起こした。

 そして、それと同じ数だけ、微笑む千早に「ごめんなさいね」と謝られた。


 それは、何に対しての「ごめんなさい」だったのか。

 

 裏切って、ごめんなさい。

 見られちゃって、ごめんなさい。

 あなたじゃない女とこんなことしてて、ごめんなさい。


 考えれば考えるほど、秋良の中の千早は意地悪くなっていく。

 大好きな千早の微笑む顔が、その笑みが、イメージの中ではいびつな嘲笑に変わっていく。

 

(違う!)


 ばしゃん!!

 

 と、そんな想像を掻き消すように、自分の顔をお湯に叩き付ける秋良。

 揺蕩たゆたう温湯の柔らかな感触が、鬱屈うっくつとした気持ちを洗い流してくれるように感じて、秋良はしばらく顔を浸していた。


「ぷはー……!」


 やがて息が続かなくなると、水面から顔を上げて深い呼吸をした。

 呼吸が落ち着くと、顔にかかる暖かな湯気の感触に心地よさを覚えた。

 部室でのことが無ければ、心からリラックスできたに違いない。


=======================================


 結局、千早の「ごめんなさいね」を聞いたあと、その場に居た堪れなくなった秋良は、一目散に部室を飛び出した。

 千早も美奈も、それを黙って見送った。

 美奈は何か言いかけたような気もしたが、秋良にはそれを気に止める余裕はなかった。


 部室から飛び出すと、神宮寺高校の新館と、演劇部がある旧校舎を結ぶ長い渡り廊下を、自己最高記録で駆け抜ける。

 千早も美奈も追いかけて来てなどいないというのに、秋良は酷い焦燥感と恐怖感に襲われていた。

 学校前の長い坂を転びそうになりながら駆け下りると、河川敷の沿道を息もたえだえに走ってきた。


「はっ……!はっ……!うっ……!はぁ……!はっ……!」


 普段なら何ともないような距離だというのに、呼吸が乱れる。

 息が上手くできない。


「あっ!!」

 

 ふいに、足がもつれて派手に転んだ。

 咄嗟に、地面に手を着く秋良。

 しかし勢いは殺しきれず、道端の小石が手の平に食い込んで、いくつかの傷を付けた。


っ……!」


 手の平にじくじくとした鈍い痛みが広がる。

 皮膚が切れたのか、ところどころ血がにじんでいた。


 ゆっくりと立ち上がると、秋良は再び走り出した。

 頭の中では、千早と美奈のキスシーンが何度も、何度も、幾度となく繰り返し上演されている。

 それを少しでも振り払いたくて、秋良は只管ひたすらに走った。


 手の平に、じわりじわりと血が浮かぶ。

 秋良は走り続けながら、いつしか泣いていた。

 声を上げて泣かなかったのは、秋良なりの最後の抵抗のつもりだったのだろう。


 しかし、溢れる涙を誤魔化すことはできず、止めたいとも思わなかったので、秋良は流れ出る血も涙もそのままに、ただただ家路を急いだ。


=======================================


「はぁ……」

 湯船に浸かりながら、秋良は柄にもなく大きな溜息をつく。

 それは風呂場に反響し、耳障りなエコーを作ると、やがて消えていった。

 耳に残る長く大きい溜息が、秋良の今の気持ちを代弁していた。


 ふいに手の平を見やる。

 いくつかの真新しい傷跡が、皮膚の下から深紅の血肉を覗かせていた。

 拍動に合わせてじわじわと湧いてくる鈍い痛みは、この傷のためか、それとも秋良の心に刻み込まれた先ほどの光景のためか。


 そんなことを考えているうち、秋良は頭に血が昇ったようなくらくらとした感覚を覚えた。


(……もう上がろう)


 心なしか重くなったように感じる腰を上げ、水の抵抗からくるものとは違う倦怠感を振り払うように、秋良は一気に立ち上がると、湯船を後にした。


 そうして脱衣所に立つと、柔らかなバスタオルで身体についた雫を拭った。


(こうやって触ってると、ボクってやっぱり女なんだなぁ)

 何の気無しにぼうっと、そんな事を考える。


(女としての自分を好きになって欲しいと、そう思いを込めてボクに姫の役を与えてくれた千早。

 姫を演じ切れたご褒美に、と首筋にキスをくれた千早。

 あの柔らかな感触と、優しい声。)


 それが、もう自分の元にはない。

 自分の物では、ない。


 そう思った瞬間、秋良は自分の中の何かが、その熱が、静かに冷たくなっていくのを感じた。


=======================================


「美月? お風呂上がったの?」

 リビングに戻ると、台所から母親の声が聞こえた。


「うん、出たよ」

 気のない返事を一つ返すと、リビングに面した階段を登り始める。


「もうご飯になるよー?」

 階段を上がる音に気づいた母親が、秋良を呼び止める。


「ごめん母さん。今日お腹空いてないんだ。このまま寝るよ」

 階上から早口にそれだけ言うと、秋良は足早に自分の部屋に向かった。


=======================================


 部屋に戻ると、秋良はすぐさまベッドになだれ込んだ。

 柔らかなマットレスの弾力と、タオルケットのふわふわとした感触が心地良い。

 寝具に身体を沈めると、秋良はようやく人心地ついた。


(……疲れた)


 一旦心を落ち着けると、今日一日の様々なことが自然と蘇ってきた。


 美奈と演技の掛け合いをしたこと。

 今までにないくらい大きな声で、役を演じたこと。


(もう少し練習したら、きっといい役になるだろうな)


 そう思うと、少しだけ心に元気が湧いてきた。


 しかし。

 次の瞬間には、あの資料室での二人のキスが顔を覗かせるのだ。

 あれから二時間足らずの間に、数十回は繰り返し再生されたであろうあの光景。


 それが、脳裏に鮮明に浮かぶ度、秋良はやり場のない怒りと、言い知れぬ恐怖を感じるのであった。


「千早、どうして……?」

 思いが溢れ、言葉として紡ぎだされる。


 すると。

「ごめんなさいね」


 と、千早のあの言葉が幻聴のように聞こえてくるのだ。

 そうして、無意味な問いかけをすることに疲れた頃、携帯電話がメールの着信を告げた。


(誰だろう……?)

 

 ベッドサイドに置かれた携帯電話を拾い上げ、二つ折りの本体を手馴れた動作で開く。


 画面が点灯し、メール画面が浮かび上がる。



――――――――――――――――――――――――――――――

Date:2009/05/17 18:49

――――――――――――――――――――――――――――――

From:麻実 莉奈 

――――――――――――――――――――――――――――――

Subject:大丈夫?

――――――――――――――――――――――――――――――

 みーちゃん、こんばんは。

 さっき学校から飛び出してくのが見えたんだけど、何かあった?

 私でよければ相談のるよ!

 あ、言いにくいことだったらスルーしてね(汗


             -END-

――――――――――――――――――――――――――――――



「……莉奈か」

 彼女、麻実あさみ莉奈りなは、先日の配役戦争の際、美奈の主演を最後まで訴えていた一年生その人である。

 莉奈は美奈と特に仲がよく、千早とも交流があったため、一年生の立場で直訴することができたのだ。


 秋良、千早、美奈、莉奈は小学生の頃から同じ学校に通っており、所謂いわゆる幼馴染である。

 だから、それぞれ学年に差はあっても、互いに対しての遠慮はほとんどない。

 美奈が千早の配役や秋良の演技に対して深く言及したのも、その関係があってのことだ。

 秋良と千早にしても年は千早の方が上だが、千早は秋良に敬語で話すのに対して秋良はタメ口である。

 

 ただし、それぞれに相性はある。

 千早と美奈は昔から、互いに仲が良いながら牽制し合っている節があるし、莉奈は美奈について回る妹のような立場からか、美奈とぶつかることの多い千早に対して少し敬遠がちであった。

 秋良は特に苦手な相手はいなかったが、澄まし顔でありながら千早に対しての独占欲は強かった。


 そんな四人の関係が大きく変わろうとしているのを、秋良は感じていた。

 いや、もしかしたら、もうずっと前から変わってしまっていたのかもしれない。

 自分がそうと気づかなかっただけで、千早はずっと、自分ではなく美奈を見ていたのかもしれない。


「……ち、はや……」


 そんなことを考え始めると、又候またぞろ秋良の頬に涙が流れ始めた。

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