言の葉にのせて
――5月17日(火) 午後16時23分 神宮寺高校・演劇部部室――
「お前! いい加減にしろ!!」
部室の中に秋良の怒号が響き渡る。
怒りと憎しみと、深い悲壮感を湛えた声。
その標的となっているのは、昨日の配役戦争で千早の軍門に下った美奈だった。
二人は部室の中心で、お互いに1メートル程の距離を置いて対峙している。
「貴女こそ、いい加減にして頂きたい」
秋良の怒声に対し、美奈もまた、冷たく静かな、けれども有無を言わさぬ迫力を持った声で応じる。
「お前では役不足だと言ったのだ!」
秋良が激情の槌を振り下ろせば。
「貴女に何ができるというのです」
美奈は冷静な氷の刃を突き立てる。
二人の攻防は激しさを増すばかりで、周囲の部員達も固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
ただ一人、その様子を冷静に見守る千早を除いては。
「はい、一旦休憩しましょう」
千早がぱんぱん、と両手を叩く。
「はぁ……」
「ふぅ……」
するとほぼ同時に、秋良と美奈が息を吐いた。
美奈はその場に倒れこみ、秋良は千早の横のパイプ椅子に座り込む。
「慣れない演技って疲れるわね……」
床に転がったまま天井を仰ぎ、美奈がぼやく。
「ボクも、声張りすぎて喉が痛い……」
パイプ椅子の背もたれに抱きつくように座った秋良も、美奈に続く。
「仕方がないんですよ? 二人には苦手なところ、どんどん練習してもらわないといけないんですから」
千早は柔らかな笑みを浮かべてはいるが、その目には真剣な炎が宿っている。
神宮寺高校演劇部は、今日から本格的に舞台稽古を開始した。
とは言え、昨日配役が決まったばかりの現状では、台詞の読み合わせと簡単な演技合わせが主となる。
これから舞台に立つまでには、膨大な台詞の暗記や役作り、キャストとの演技合わせなど、越えなければならない壁がいくつもあるのだ。
例年、といっても千早が演出・監督を手がけるようになってからであるが、配役から一ヶ月程度は、これらの基礎稽古を毎日みっちりと行う期間となる。
練習初日となる今日は、各部員に台詞の暗記を宿題とし、残りは美奈と秋良の台詞合わせの時間とした。
「秋良」
ふいに、美奈が秋良に問いかける。
「何ですか?」
「ここの演技なんだけど、静かに堪える感じと怒りに戦慄きながら全身を震わせるように耐える感じ、どっちがいいかな?」
「ここは必死に怒りを抑える感じが良いと思います。こんな風に」
言うが早いか、秋良は戦術長の役に憑依する。
両脇に下げた手を固く握り、小刻みに震わすと、歯が折れるのではないかというくらい食いしばった。
目には強い怒りを宿して、しかし決してそれを相手方に悟られないよう、自身を抑えている。
そんな想像をさせるに難くない、絶妙な演技であった。
「あー、なるほど。確かにこっちのほうが自然ね」
美奈は納得したように頷くと、自分でも同様の演技を試みた。
「……!」
「藤真先輩、それだと怒ってるのがバレバレ」
同じ演技でも、演者が変われば印象が変わる。
美奈のそれは、秋良と比べると迫力こそあるものの、相手に対する怒りが表面化しすぎていた。
「えー?ちゃんと隠してるつもりなんだけどなぁ」
美奈は頭を掻きながら、自分の演技を省みる。
「目と口元に力を入れすぎなんです。むしろ目は大きく開いて、こんな風に……」
秋良が手本を示す。
「そう、そっか。……こう?」
秋良に向かってガンを飛ばす美奈。
「……藤真先輩、怖いです」
「そ、そう?」
かれこれ、そんなやりとりが一時間ほど続いていた。
美奈が相談し、秋良が手本を示し、千早が指導をする。
そんな台詞合わせを、美奈と秋良が立場を入れ替えながら行っている。
前日話題になった通り、課題となったのは二人の不得手な演技についてだった。
美奈は静の演技、秋良は動の演技。
互いが得意とするところは相手にとって苦手であり、それぞれの苦手な部分は相手の十八番であった。
秋良は静から動に移り変わる部分、特に急激な気持ちの切り替えが苦手であった。
それは美奈曰く、
「気持ちが足りない。自分が本当に怒りを感じていれば、役も自然と怒るものよ」
演技の先達から得たアドバイスは、しかし秋良の、
「感情論は嫌いです」
の一言で一蹴された。
一方の美奈はといえば、自分の感情を抑えることが難しく、台詞合わせでさえ大仰な動作が入ってしまう始末。
これには秋良も、
「もう少し頭で考えてください。理屈で動くんです。感情は仕舞ってください」
と、辛口の意見でもって評した。
後輩からの進言は、しかし美奈の気持ちを逆撫でし、
「人間なんだから感情くらい込もるっつーの!! 理屈理屈って、機械か何かっていうのよ!!」
と、正に感情のこもった一撃を引き出した。
が、互いに言い争っているばかりかといえばそうではない。
千早が二人の意見をまとめ、噛み砕き、互いに分かりやすいように通訳した上で伝達しているのだ。
二人だけなら喧嘩した挙句に解散といった流れが妥当だろうが、千早という翻訳者が存在することで、凸凹ながらも台詞合わせの体を成していた。
「とりあえず」
と千早が切り出す。
「台詞合わせ、一旦終わりにしましょう。お疲れ様でした♪」
と、唐突に台詞合わせの打ち切りを宣言した。
「は?」
「え?」
美奈と秋良は、ほぼ同時に同じようなリアクションを示した。
「千早、まだ練習時間あるよ」
秋良が時計を指して指摘する。
「そうよ! 折角演技のコツが掴めてきたところだっていうのに!」
美奈が秋良に続く。
「まあまあ。誰も練習が終わりなんて言ってないじゃないですか」
千早は片手を振りながら、意味深に微笑む。
「??」
二人の頭に疑問符が浮かぶ。
「つまりですね、台詞合わせは終わりにして、ここからは演技指導のお時間にしようと思います」
「演技指導……?」
「藤真さん、ちょっと」
千早は指先を軽く曲げると、美奈を指名した。
「秋良は少し待っていてくださいね」
そう言い残すと、千早は美奈を伴い、隣室の暗がりの中へと消えていった。