かくて舞台は幕を上げる
――5月16日(月) 午後16時17分 神宮寺高校・演劇部部室――
「――というわけで、今回の劇の配役はこんな感じに……」
「どうして!!」
配役の説明をしていた千早の声を、藤真先輩が遮った。
彼女、藤真美奈は、今回の配役、特に主役に対して並々ならぬ執着を見せていた。
結局、土曜・日曜と休みを丸々費やして、台本の完成と配役にまで漕ぎ着けることができた。
しかしながら、それを部員に発表する段になって、やはり彼女の糾弾は避けられなかった。
3年生の彼女は、今回が最後の舞台となる。
その最後の舞台で、主役を2年生の後輩に奪われたとあっては、到底納得することなどできないのであろう。
「どうして、とは?」
千早が冷静に答える。
「主役の姫騎士!」
「姫が何か?」
「彼女のイメージに一番近いのは私でしょう!? どうして秋良が主役なの!?」
美奈は部員の目を憚ることなく、感情をそのままに千早にぶつける。
「これは秋良にも話したことですが、私はずっと、台本の中では秋良をイメージして姫騎士を動かしてきました」
「……ッ!! 秋良のどこが姫騎士なのよ!! むしろ冷静な戦術長の方がお似合いじゃない! どうしてよりによってあたしが戦術長なの!?」
戦では鬼神の如き奮戦を見せる、猛々しき姫騎士。
一方の戦術長は、冷静にして寡黙。
役の説明が一頻りなされた後だからこそ、美奈はこの配役にいよいよ納得がいかないようだった。
「確かに、人物像をぱっと見ると、秋良は戦術長、藤真さんは姫騎士。それが適役に見えます」
「だったらッ……!!」
美奈が千早に食ってかかろうと、言葉を構える。
「でも」
だが、今度は美奈の言葉を千早が遮った。
「今回の舞台で私が演出したいことの一つは『意外性』なんです」
「意外性??」
「そうです。意外性」
「……千早。あんた、あたしのこと馬鹿にしてるの?」
美奈は千早の意図を理解し、静かだが確実に怒りを含んだ声を上げた。
「奇を衒っただけのキャスティングで、一体誰が感動するって言うのよ!!」
確かに、意外性や話題性を意識した配役は珍しくない。
だが、役と演者のギャップが大きければ大きい程、その演技難易度は上がり、お粗末なものになり易い。
舞台を長く経験してきた美奈だからこそ、この演出の効果とデメリットを良く知っていた。
「仰る通り。一昨年の公演は正にそれを体現したような、本当に残念な舞台でした」
「それが分かっているならどうして……!」
美奈は苦虫を噛み潰したような憎々しい表情を湛え、千早に視線を送っている。
しかし、千早は美奈の怒号を聞いてなお、退くことをしなかった。
「例えば姫騎士。彼女は騎士としての側面が強く、戦いの描写が多くあります。戦のシーンでは藤真さんの得意な、大胆で勢いのある演技が求められるでしょう」
「そう! 私のほうが秋良より上手く演じられる! 私のほうが……!!」
美奈は確固たる自信を持って、千早に訴える。
だが。
「ただしそれも、『前半だけ』なんですよ」
「え?」
美奈が激情を吐き出す一方で、千早はしかし冷静であった。
「姫騎士が戦うのは劇の前半、四分の一程度。後半はむしろ、心の中の葛藤を前面に出していく演技が求められるんです」
「それは……」
美奈は、勢いのある演技に絶対の自信を持っている。
反面、心理描写であったり、細やかな仕草で表現するような、静の演技は苦手である。
そのことを、他ならぬ美奈自身が痛いほど自覚していた。
そして、美奈と三年間舞台を共にしてきた千早もまた、そのことを良く知っていた。
美奈が言い淀んでいるのを尻目に、千早は続ける。
「今まで戦いに明け暮れていた自分には、こんな綺麗なドレスは似合わない。綺麗に着飾って晩餐会で踊るなんて出来っこない。自分は、華麗さや華やかさを求めてはいけない」
「あ……」
千早の語りを聞いているうちに、ボクはなぜ、千早がボクにこの役を任せたのか、その理由に気付き始めていた。
「そんな心の内の葛藤は、秋良にしか表現できない。そう考えました」
「……千早……先輩」
知らず、呟く。
ほんの僅かな間。
おそらく、部員の誰も気付かないほんの一瞬の刹那。
千早がボクの方を向いて、柔らかく微笑んだように見えた。
「秋良は、可愛いこと、綺麗であることに抵抗があります。それは演技ではなく、現実でも同じこと」
そう。
そうなのだ。
ボクは。
いや、私、『秋良美月』は。
『女である』ということに、強烈な違和感を感じている。
だから、女らしさとか、女性らしくあるということに、強い罪悪感と拒絶を抱くのだ。
千早は、そのことをずっと気にしてくれていた。
だからこそ、今回の劇で私に主役を与えたのだ。
私が自分自身を好きになれるように。
『女としての私を、好きな私』で良いと、そう教えてくれるために。
「だから、姫騎士は秋良が演じるべきだと思うんです。姫の気持ちに一番近いところにいるのは、きっと秋良だから」
千早は、私が千早の思いに気づいたことには気づかない振りをして、そう締め括った。
「……そうね。確かに、秋良が姫騎士に近いところにいるのは分かった」
美奈は、先程までの怒りの色を弱めた、とても静かな声音で、千早の語りに理解を示した。
「藤真先輩……」
私は、美奈が千早の考えを分かってくれたのだと、そう思った。
「けど」
と、冷たいトーンで美奈が口を開いた。
「その理屈でいくと、私が戦術長の役になったのにも理由があるのよね。まさか余りの貧乏くじを引かされた、なんてことはないんでしょうけど」
「もちろんです」
千早は、今までと変わらない声で、静かに、だが堂々と美奈に向き合う。
「戦術長は、劇の全編を通して寡黙で静かな役です。感情の起伏もあまり無いですし、一見すると、藤真さんが得意とする演技からは一番遠い所にある役であると思われます」
「否定はしないわ」
二人は静かに語り合う。
「けれど、劇の終盤。前半で成立した和平交渉を反故にして、隣国が攻め込んでくるシーン」
「……」
美奈は黙って、だがしっかりと千早を見据えて話を聞いている。
「この時、真っ先に怒りの声を上げるのが他でもない、戦術長なんです。それまで寡黙で、戦術立案の時くらいしかまともに話さない彼女が、隣国の襲撃に対して怒り狂う様、その激情……。私は、藤真さん以外にこの役を演じられる人はいないと思っています。台本の中で、秋良を想定して姫騎士を動かしたように、戦術長は藤真さんを想定して動かしていましたから」
千早は淀みなく続け、その間、美奈は黙って聞いていた。
「秋良」
ふいに、美奈が私の名を呼んだ。
「あなたはどう思う」
その声、その眼差しは、怒りや妬みを込めたものでは、すでになかった。
これは、ボクの『覚悟』を試す問いだ。
「ボクは……」
上擦りそうになる声を、必死に押さえ込む。
手が震える。
心臓の鼓動が直接聞こえてくるくらい、強く、早く高鳴っている。
(……呑まれるな!)
千早がボクに姫騎士を与えたのは、哀れみからではない。
ボクが演じる姫騎士を、その演技を、信じてくれたからこそ託したのだ。
(だったら……)
「……ボクは、藤真先輩みたいに躍動感のある演技はできません。どっちかといえば、戦術長の方が似合ってるんだと思います。」
それは正直な思いだ。
動の演技で美奈の右に出るものは、この部の中にはいないだろう。
それでも。
否、だからこそ。
「でも……!!」
自分を鼓舞するように、一際大きく声を張る。
「千早先輩が信じてくれたボクを、ボクも信じてみたいんです! 藤真先輩のような大胆な姫騎士はできないかもしれないけれど、きっと……きっとボクにしかできない姫騎士を演じきってみせます! だから!!」
全身の毛穴が全て開いていくような興奮。
高鳴り続ける鼓動と脈動、その余韻が引かぬ間に。
すう、と大きく息を吸い込む。
「私の姫を、感じてください!!」
ボクは、叫んでいた。
「ヘレナ戦術長! 剣を取れ!! 我がレヴィリアの城壁、越えるに易くないことを賊共に知らしめるのだ!!」
発声した自分自身も震えるような、喉ではなく全身から絞り出した叫び。
それはこの小さな箱の中で反響し、周囲にほんの僅かな間の静寂を招いた。
「ふっ」と口角を上げ、何か悟ったような表情を見せる美奈。
そして。
「……ルナリィ様、この魂尽きるまで、我が身は貴女の剣で在りましょう」
寡黙な戦術長は姫のもとにそっと傅くと、静かな、しかし力強い声でそう誓いを立てた。
その瞬間、この決して広くない部屋の中に、レヴィリアの戦場が確かに具現化した。
全身を刺すような強烈な余韻と感動は、しかし私だけが感じていたものではなかったのだろう。
部員全員がその場に立ち尽くし、ただただ打ち拉がれていた。
「どうでしょうか、藤真さん」
切り出したのは、千早だった。
「……そうね」
美奈は考え込む素振りを見せながら、その実、心は既に決まっていたのだろう。
「この姫様になら、仕えてあげてもいいかもね」
美奈は照れたように目を背けると、少し紅くなった頬を隠しながら、そう呟いた。
かくして、波乱の配役発表は、千早の演説と私達の即興の演技により、ほぼ満場一致で決定となった。
元々、主役以外の役どころはキャストの執着も薄く、流れるように配役が決まっていった。
美奈の主演を楽しみにしていた一年生などは、あの後涙目に千早に訴えていたが、美奈自身がそれを嗜めるように声をかけると、肩を落として教室から去っていった。
そして。
「さて、ここからがまた大変大変」
配役発表が終わり、部員のほとんどが帰途についた部室の中は、先ほどの熱が嘘のように静まり返っていた。
その中にあって、美奈とあれほどの戦いを見せた後だというのに、千早はどこか満足感さえ感じさせる微笑を浮かべている。
普段の年季の入ったソファが、この時だけは千早の玉座に見えた。
「大変なのは演者もだけどね」
ボクは千早の向かいのソファに腰を下ろし、嘆息を上げる。
そう、これからは各々役作りに一層励まなければならない。
特にボクの場合は。
美奈と部員の前であれだけの啖呵をきったのだ。
これでやる気のない演技など見せようものなら、帰り道で美奈に刺されたとて文句は言えまい。
千早は「うーん!」とひとつ、大きく背伸びして見せると。
「秋良、明日からはもっと可愛らしい姫様の演技、練習しましょうね♪」
ボクにそう笑いかけた。
「そうだね。でも千早」
「はい?」
「えっと、その前に……」
そう。
その前に。
「その前に?」
千早は、ボクが皆まで言わずとも、何が言いたいのか分かっていたに違いない。
それでいて、嫌味にならない程度のニヤニヤとした笑いを浮かべて、意地悪くボクに問いかけるのだ。
「何ですか?」
と、いつの間に後ろに回ったのか、ソファ越しにボクを抱きしめながら、やはり意地悪く続ける。
背後に千早の熱と息遣いを感じる。
これでは余計に言い出しにくい。
「……むー」
ボクは困ったように声を上げる。
「なーあーにー?あーきーらー?」
妙に間延びした、からかうような声が背後から響く。
「ねぇ……私、頑張ったよ?」
「うん」
千早は、茶化すことなく静かに聞いている。
「だから……」
「だから?」
そう、だから。
「ね、ご褒美ちょうだい?」
照れくさいので、千早には向き直らず、正面に言葉を投げた。
背後の千早は、きっとボクの言葉を引き出せたことに満足し、笑みを浮かべていることだろう。
すると。
「仰せのままに。姫様」
手癖の、もとい女癖の悪い従者は、背後からそっと姫を抱きしめると、その首筋に柔らかく口づけた。
「がんばったね。美月」
千早の柔らかくて、優しい声。
その声が背中越しに聞こえてくるのが心地よくて、ボクはそっと目を閉じた。
ああ。
季節が、動き出した気がした。