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初夏千秋  作者: 鳴海 千織
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初夏の頃、あの坂道で

 ――5月14日(土) 午前6時46分 神宮寺高校前の坂道――


 初夏という言葉に収めるには、この頃の陽光は自己主張が激しく、空気の熱感と温度は夏本番のそれに近いものがあった。

 じりじりと照りつける太陽光に身を(さら)しながら、学校へと続くなだらかな坂道を、ゆっくりと登っていく。


 時刻は7時前。

 だというのに、勤勉な太陽は既に煌々と輝いている。

 額にはうっすら汗が滲み、頬から首筋へじわりじわりと流れて、襟元(えりもと)に小さなシミを作っていた。

 白いシャツの上には薄手のベストを重ねて来たが、全くもって余計だったようだ。


「……あっつい」


 直視すれば目眩がするような日差しを、新緑を湛えた枝葉の隙間に仰ぎ見る。

 夏の刺すような光が、緑のカーテンの向こうに揺らいでいる。

 生(ぬる)い風が枝を撫で、葉の緑を揺らすと、ともすれば暴力的とも取れる日差しが瞳に飛び込んできた。


「勘弁してよ、もう……」と、誰にともなく呟く。

(暑いのは嫌いだ)

(夏はもっと嫌いだ)

 心の中で毒づいても、太陽はさして気にする風でもなく、ボクの体に光を注ぎ続ける。


「よし、一気に行くか」

 ふう、と一つ息を吐くと、正門までの残り100メートルを走り抜けるべく呼吸を整える。

(位置について、用意……)走り出そうとした次の瞬間。


秋良(あきら)?」と、ふいに背後から呼び止められた。

「お?」よく知っている声に振り返ると、そこには。

千早ちはや

 肩までの黒髪を揺らし、柔和な笑みを浮かべる千早の姿があった。


「秋良、朝からマラソンですか?」

「んにゃ、あんまり暑いから、体が溶ける前に学校入っちゃおうかとね」

「日傘、入ります?」


 この暑い中、千早はなんでもないような涼しい顔をして、日傘の左半分を差し出してくる。

「それじゃちょっくら失礼して」


 右手で傘を受け取ると、その半分に自分の体をねじ込んだ。

 薄布一枚隔てただけだというのに、太陽の光が遮断された途端、右半身の熱がさーっと引いていく。


「あー……涼しい」


 首元の汗が乾くと、先程まで不快でしかなかった生温い風が、妙に心地よく感じられる。


「汗、ちゃんと拭かないと風邪ひきますよ。向こう向いてください」

 と、千早が空いた左手でタオルハンカチを差し出してくる。


 街路樹の方に向き直ると、ややあって首筋を柔らかな織物の感触がくすぐった。

 後ろではボクより少し背の低い千早が、少し背伸びしながらタオルを動かしていることだろう。


「ん」


 むず痒い。

 くすぐったい。

(でも、嫌じゃない)


「ありがと」

 千早にお礼を言うと、顔の向きを戻すべく首を振ろうとする。


「まだ駄目、ですよ」


「おっと」

 千早はそっと、だが確かな力を込めて、ボクの頭を押しとどめる。


「なに?」

 頭は未だ街路樹の方を向いたまま、声だけで千早に問いかける。


「秋良がすっきりしたら、今度は私の番です」


 千早は静かな、それでいて楽しそうな、いたずらを考えている子どもの様な声でボクに答える。

「部員とか、そろそろ登校し始める時間じゃない?」 

(……って言っても聞かないんだろうなあ)


「そうですね」

 指先を口元に当て、少し考え込む様な素振りを見せた後に。


「ですから、今は手早く済ませましょう」


 はたして千早は、やる気満々であった。


「秋良、肩借りますね」

 そういうと千早はボクの肩に手をやり、少し背伸びすると、むき出しの首筋にそっと口づけた。

 汗を拭いた後の敏感になった首元に、千早の柔らかな唇が触れる。


 一口目は優しく。

 二口目は慈しむように。

 三口目からは貪るように。


「千早さん」

「ふぁい」

 ボクの首の皮に吸い付きながら、行儀悪く返事をする千早。


「痕残るから」

「駄目、ですか?」

 ちゅぽん、と首筋から顔を離すと、少し悲しそうな声音で後ろから問いかけられる。


「駄目じゃないけど、今は駄目」

 ボクは千早に振り返ると、その唇に人差し指を立てた。


「次の台本書き終わったら好きなだけしていいから」

「むー」


 頬を膨らませて抗議の意を示す千早。

 明らかに物足りない様子だが、このままここでこんなことをしていては他の生徒に見つかりかねない。

 とは言え、台本の執筆が残っているこの状態で、千早が機嫌を損ねたままというのは避けたい。

(……あと少しなら大丈夫かな)


「千早」


「……なんですか?」

 千早はむくれながらボクに振り返る。


 千早がこちらに向き直った、その瞬間。

 千早の唇に、ボクの唇を重ねた。

「んっ……!?」


 千早が驚いたような表情を浮かべたのは、その一瞬。

 次の瞬間には、千早の顔は悦と楽を湛えていた。


「……はっ……あ、あきらぁ……」

 千早はすぐに今の状況を理解すると、ボクの頭をその両手に抱いて更に求める。


(……っと)

 その行動に体勢を崩しそうになりながらも、ボクは日傘を下げて二人の顔を隠した。

 日傘が深い影を作る。


 初夏の、それも朝方にはおよそ似つかわしくない黒の中で、ボク達はお互いの熱を感じていた。

 先程まではあんなに涼しげに見えた千早の頬が、今は紅をさしたように紅潮している。


 洗髪料か、それとも千早自身の匂いなのか、柔らかな花のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 千早は普段の穏やかな様子からは想像もできないくらい、ただただボクを求める。


(千早は可愛いな)


 息が止まりそうな長い口づけの中で、ふとそんな事を考えていた。

 くちゅっと、口元から零れた水音が耳に響く。

(もうそろそろ止めないと。いい加減人に見られてもおかしくない頃合だし)


「……ん、はい、ここまで」


「……え?」


 ふいに離れた唇に、千早は困惑した様子でボクを見上げる。

「どうして?」と言わんばかりの物憂げな表情を向ける千早。


「続きは台本、終わらせてからね」

「……はぁい」


「そんな顔しない」

 千早の頭をくしゃくしゃと撫で、乱れた髪を整える。


「……ん」

「さ、学校行くよ」


 千早はまだ物足りない様子だったが、先ほどより幾分かは機嫌が良さそうだった。

 ボク達は日傘の下で、寄り添うというよりも最早密着しながら。


 あと少しだけ続く坂道を、ゆっくりと歩いて行った。


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