02.「妬いたの?」
寄宿学校は十五となる年の春に入学する、二年制の学校だ。強制ではないが、紳士淑女として申し分ない教養と振る舞いを身につけるため、ほとんどの貴族の子女令息がこぞって入学する。
全寮制であり、寮長など、一部の生徒は一人部屋を与えられているが、ほとんどの生徒は二人で一部屋となっている。
そんな中、ロシェルと同室となったのはネル・オルニスだった。少し垂れ気味の目尻に色香を感じさせる、美しい少女である。
面立ちは非常に整っており、赤い唇がどうにも彼女に大人びた魅力を与える。夕暮れの色をした髪は人目を惹くに相応しいもので、同性であるロシェルにも、時折ドキリとしてしまうような顔を見せることがあった。
「適度に遊んでみれば良いのではなくて? 男性はスペンサー先生しかいない、という訳でもないのだから」
その絶妙な雰囲気の通り、ネルは少々奔放なところのある少女だった。多くの男性に目を向ける彼女は極端な部類だが、その発想は何も特異なことではない。
貴族にとって家のための結婚をすることは最早義務だ。好きな相手と添い遂げることも無いとは言わないが、好きになった相手と身分の釣り合いが取れ、家同士の利害が一致するなどの条件を満たせなければ、極端に少ない例となる。そのため、結婚は家の決めた相手として恋愛は学生の内に楽しむ、という考え方が一般化していた。
学院内で恋人を作り、卒業と共に別れるなど、よくある話だった。
「いい? ネル。私は恋人が欲しい訳ではないの。先生のことを愛しているの」
奔放なネルに対し、ロシェルには猪突猛進のきらいがあったが、今のところ大きな問題もなく、よい友人となっている。今のように意見が合わないことは多々あるが、お互いを尊重し合うことで確かな信頼関係を築けていた。
すでに食事を終えたネルは、ロシェルの意見にふうん、と吐息のように相槌を打った。ここは食堂であり、男女共同校舎の一階から、渡り廊下を抜けた所に独立して建っている。現在は昼休みで、食堂内は多くの生徒と一部の教師で大いに賑わっていた。
「でも先生は頷いてはくれないんでしょう? それでは運命とは言えないんじゃないかしら?」
ネルの忌憚ない意見に、ロシェルはぐぬぬ、と歯噛みする。
彼女を信頼しているからこそ、ロシェルはイルマへの恋心を明かし、何かと相談に乗ってもらっている。しかし、さすがに前世云々については頭の状態を心配されそうなので、彼女以外にも、誰にも明かしたことはなかった。何より、ロシェルが二人だけの『特別な秘密』に甘美さを覚え、望んで秘密にしているのもある。
しかし、秘密だからこそ運命である、という根拠を話せなくて口惜しい。ロシェルは不満を隠さずに唇をへの字に曲げた。
「もう。そんな顔しないの。笑った方が可愛いわ」
くすくす、と笑いながらネルの指先がロシェルの金髪を撫でる。ネルは自分とは違って真っ直ぐな彼女の髪が大層お気に入りらしい。そういう褒め言葉をサラッと口にしてしまうから、ロシェルはもう憎まれ口を叩くこともできなかった。
「わたくしも、あなたのその気持ちを否定したい訳ではないのよ。むしろ、そうであればとても運命的で素敵だと思うわ。でもそれで苦しむようなら、他に運命がいるんじゃないかしら、って思っただけ」
ロシェルの前世の記憶は今もあやふやだ。けれど、その世界に生きる人間としての感覚はすぐに思い出せる。その心でどう捉えていたとしも、愛や恋や運命などと言ったものは、日常的に口にするものではなかった。そうした日本のことを思えば、ネルの発想は柔らかで輝かしい。運命と口にするロシェルを笑うことなく、当たり前のように受け入れてくれるのだ。前世と比べれば情報を取り入れる手段も少なく、皆が皆、箱入りのお嬢様だからだろう、とロシェルは考えている。
「恋をできる時間は、有限なんだから」
その一方で、とても現実的で、厳しい。夢は覚めるものだと理解し、その前提で運命を、恋を求める。それが今のロシェルには少し、もどかしかった。
「わたくしも早く、運命の人を見つけなくちゃ」
「ネルの場合は少し、奔放すぎる気がするわ」
「あら、わたくしはできるだけ早く、運命の人に出会いたいだけよ」
そのためには自分から動かなくてはね、と笑う彼女のその行動的なところは、ロシェルの好むところである。しかし、声を掛けられれば、誰とでも一度は手紙を交わして共に出掛ける、というのはやはり、少々積極的過ぎる気がする。普段しっかりしているネルの、危うげで心配になる部分ではあった。
「あのね、ネル。私だってただがむしゃらという訳ではないのよ」
溜息交じりにそう口にする。ほとんど悔し紛れの言い訳のようなものだったが、まるきり根拠がないわけでもない。
更に言い募ろうとしたところで、あの、と呼び掛けられ、二人してそちらを振り返る。
緊張した面持ちの男子生徒がそこに立っていた。男子生徒はネクタイ、女子生徒はリボンの色でその学年を判別することができる。顔立ちにはあまり見覚えはないが、赤色のそれを身につける彼は、同じ一年であることが察せられた。
「あ、あの、カーライル嬢に用がありまして」
「あら、ではわたくしはお邪魔かしら」
おそらくロシェルと同じく、ネルも彼の用事に察しが付いているのだろう。彼女はおどけるように笑った。今この状況で、こうも緊張して話しかける用事となると大方想像がついた。
「いえ! いえ! すぐに済みますので」
可哀想なくらい緊張した様子の彼は、早口で要件を口にする。
「もし、先約がなければ、次のダンスの授業で私とペアを組んで欲しいのですが……」
彼の言葉は、ロシェルの想像通りのものだった。社交の場でダンスを踊るときのため、寄宿学校では授業の時間が設けられているのだ。ダンスの授業は数少ない男女合同の授業であり、始業までにパートナーを探す必要がある。その相手としてロシェルは彼のお眼鏡に適ったようだ。
今のところロシェルには他に相手がいない。そのため、彼の申し出は願ったり叶ったりだ。パートナーがいない状況で授業に参加するのは中々に居心地が悪い。特に女子生徒にとって、ペアがいないことはどうしようもなく惨めなこととされているのだ。彼女らの学年では女子生徒の方が四人、人数が少ない。あぶれることはありえなかった。
「カーライル」
ロシェルが了承の返事をしようとしたところで、常の柔らかさを持たない声に家名を呼ばれた。彼も食事をしに来ていたのだろう。後ろを振り返れば、人を安心させる微笑みを浮かべたイルマが、いつの間にかすぐそばに立っていた。
「朝から気分が優れないと言っていたでしょう。丈夫になったとはいえ、油断はできない。診察するので、保健室に来なさい」
イルマはロシェルの顔を覗き込み、医者らしい言葉と心配そうな顔でそう言うと、先導するように歩き始める。ネルはあらあら、と目を丸くして、ロシェルは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい。授業に参加できたとしても途中参加になると思いますので、今回は辞退させていただきます」
それだけ男子生徒に告げ、ネルに断りを入れてからロシェルはイルマの後を追う。
ロシェルががむしゃらと言えるほど盲目的にイルマを求めるのは、こういうときだ。ただ、子どもだとあしらわれるだけならば、また別の態度、考え方を持てたことだろう。
けれどこういうときの彼の態度が、仕草が、ロシェルからそうした殊勝さを奪う。
ロシェルが男子生徒と関わる姿を見るときの、イルマの目。
その目は彼女からすればあからさまなほど、嫉妬の炎に揺れているのだ。
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イルマはこれまで通り医師として活躍すると共に、今年から校医として寄宿学校に籍を置いている。診療の依頼があればそちらを優先するが、それ以外の時間では保健室に常駐できるようにしたらしい。彼が保健室にいない時間は、応急処置など、手当ての心得のある教員は他にもいるので、代わりの教員が保健室を預かるそうだ。
彼がそうして寄宿学校に勤めるようになったのは、彼女の自惚れでなければ、ロシェルを案じてのことだと思っている。ロシェルは男女の仲としては拒否されているものの、ただの医師と患者ではくくれないほど彼に大切にされている自覚はあった。
「体温も平熱の範囲か。気分は?」
「平気」
元より体調が悪かったという感覚はない。ついでに言えば、ロシェルは今朝、気分が優れないと彼に言ってもいなかった。つまり、イルマは嘘を吐いたのだ。あの場で嘘を吐いて彼女をここまで連れ出した事実に、邪推するなという方が無理がある。
机を挟んで向かいの席に座り、執拗なほど問診を繰り返すのは、やましい思いのあるイルマの自己満足とも言えた。
「成長と共に丈夫にはなったが、あまり無茶はしないようにしなさい」
「無茶なんてしないわ。ダンスの授業程度で倒れたりもしないし」
保健室は突き当りが大きな窓になっている。木製で出来ている窓は内側から外に両開きできるようになっており、今はそれが開放されていた。開け放たれた窓から届く薫りは、春と共に初夏の気配も感じさせる。この世界にも四季があり、日本と同じく春夏秋冬の順で巡っているのだ。前世の記憶を思い起こしても、文化以外の部分はあまり変わりがないらしい。
「ねえ、先生。私、気分が悪いなんて言ってなかったはずだけど?」
「今朝見かけたとき、顔色が悪かったからな。ロシェルは無理をするときがあるから、そうでも言わないとここに来ないかと思って」
嘘吐き、と心の中で唱えて、彼女は口には出さなかった。だってイルマは知っているはずなのだ。彼に呼ばれたのであれば、どんな用件でさえロシェルは喜んでついていくことを。
「妬いたの?」
ロシェルは自分でも自覚ができるほどニマニマと笑い、立ち上がったイルマにそう問い掛けた。確信を伴った問い掛けに、彼はロシェルの後ろにある薬品棚の整理を始めながら、意外なことにあっさりそうだな、と頷いた。
「ロシェルのことをずっと見てきたから、君が大人になることを少し寂しく感じている。そういう意味では、君に近付く男に妬いたのかもしれないな」
しかし、イルマの返答は全くもって彼女の期待したものではなかった。
「もう! そうじゃなくて!」
「ロシェル、前世でいくら夫婦であったからと言って、今世でも結婚する必要はないんだ」
イルマはいつもそう。過去に目を輝かせるロシェルを前にして、過去を否定する。ロシェルはそれが悔しくて、悲しくて、寂しい。だって運命だと思ったのだ。彼を好きになったのは必然で、そうあることこそが自然なのだと。
ロシェルは不安に黄緑色の瞳を揺らして、じっとイルマの後ろ姿を見上げた。
「先生は……結婚をしたけど、本当は冬美のこと、好きじゃなかったの?」
それはずっと思っていたことだった。そして、ずっとそんなはずはない、と言い聞かせてきた。ロシェルのただの願望でしかないのかもしれないが、彼女が記憶を取り戻したときに見せたイルマの涙は、けして嘘とは思えなかった。
「いいや、愛していた。冬美だけが僕の宝物だった」
春の輝くような日差しの下で語られるに相応しい、綺麗な言葉だった。彼女の問いを、嘘でも肯定できなかったのだろう。それなのに、彼の声音はどこか苦しげで何かに堪えるようだった。失ったそれを追い求めて、最早存在しないことに絶望しているように、ロシェルには聞こえた。
私は、ここにいるのに。
「…………先生は頑固で、分からず屋だわ」
「僕は普通だ。ロシェルはまだ子どもなんだ。そんな君に恋をする方がおかしい」
肩を竦めるように、あくまで軽い調子でイルマが言う。ロシェルは泣いてしまいたいような気持ちになって、けれどそんな風に感じることが悔しく、わざと膨れっ面をして立ち上がると、大股で彼の元へ歩み寄る。目の前に立って見上げると、目線だけを後ろにやって見下ろすイルマと目が合った。
たまらず、ロシェルはその背に突進するように彼に抱きつく。
「いつか先生の方から『僕と結婚して下さい』って言わせてみせるから、覚悟してちょうだい」
それから、突き飛ばすようにして距離を取ると、早足で保健室から退室する。
ああ悔しい! 憤慨しながら、ロシェルはまだ終業までには間に合うであろう、授業に向かった。