17.「ずっとそう言っているでしょう?」
ノックをしても返事は得られなかった。ロシェルの背中を押したファーガスはすでにその場を去り、生徒の多くが寮へ戻ったこの時間、共同校舎に人の姿は見られず、廊下は静まり返っている。
ロシェルはしばらく躊躇したが、何度か繰り返し深呼吸をし、意を決して保健室の扉を開けた。
先程彼は保健室を閉めると言っていた。そのために、荷物の整理でもしているだろうと思っていたのだが、イルマは扉のすぐそばで彼女に背を向け、何故だか右手で顔を覆っている。
「先生?」
頭を抱えるようにするイルマを不思議がって呼べば、彼は大げさに肩を揺らした。もしかしてロシェルの来訪に気付いていなかったのだろうか。しかし、彼女はノックをし、けして音に気を付けることもなくいつも通り扉を開けた。室内にいる人物に気付かれないほど、息を潜めて入室した覚えはない。
「先生……?」
なんと声を掛けるべきか分からず、一歩分だけ保健室に入って扉を閉める。もう一度声を掛ければ、今度は肩を震わせこそしなかったが、やはりイルマが返事をくれることもない。
彼が何を考えているのかが分からなくて、ロシェルは身動きが取れなかった。先程、保健室の前で接したイルマの態度は冷たかった。拒絶されたようにロシェルは感じた。けれど、何が彼にそうした態度を取らせたのかが分からない。自身の何かが悪かったのだとしても、その『何か』を理解しなければ謝りようもなかった。
「……ロシェル」
「なっ、なに?」
声が裏返りそうになる。落ち込んでいるのではないかと心配になるイルマの低い声は、覇気がなくて暗い。彼はロシェルを呼んだものの振り返ることはなく、絞り出すように言葉を続けた。
「どうして戻ってきたんだ」
イルマの問いかけに、ロシェルは心臓が冷えるような心地になった。やはり勘違いではなく、彼はあのとき彼女を拒絶していたのだ。それなのに、こうして近寄ることは、イルマにとってひどく迷惑なことだったのかもしれない。
彼の気持ちが自身ではなく、冬美だけに向いているのだと気付いて以来、ロシェルはすっかり臆病になっていた。それまでは彼に好かれているのだと、今となっては全くもって根拠のない自信が彼女を支えていたが、そんなものはとうに瓦解してしまっている。
「先生、お、怒っていたみたいだったから。お話したくて」
そう言えば、イルマはしばらくの沈黙のあと、大きな溜息を吐いた。その溜息は何に向けられたものだろう。ロシェルはいっそ怯えるような心境だったが、君には何の非もない、と告げられる。そこでようやく手のひらから顔を上げたイルマが彼女を振り返った。けれど視線を合わせられることはなく、眉間には悩まし気な皺が刻まれている。
「僕の問題だ。怖がらせたなら悪かった」
相変わらず彼は難しい顔をしていたが、とりあえず怒っている訳ではないのだと理解して、安堵したロシェルは無意識に入っていた肩の力を抜いた。
一瞬の躊躇いの後、緊張しながらもそばに歩み寄れば、そこでようやくイルマは彼女と目を合わせる。
「どうしたの……?」
「…………」
しかし、問い掛けても返事はなかった。見上げたイルマの気難しそうな表情が緩むこともない。それ以上掛ける言葉も見つけられず、じっと沈黙に耐えていれば、やがて彼の方からゆっくりと言葉が紡がれた。
「君は僕のことを好きだと言う」
「そうよ。ずっとそう言っているでしょう? 先生が好きよ」
イルマはきっとロシェルが本気だと分かった上で、そう受け止めてはくれないけれど。彼はどう足掻いても、ロシェルの感情を子どもの幻想として収めたいらしい。彼女の気持ちを信じることができないのではなく、信じたくないのだろう、とロシェルは思っている。
「……冬美は明久を恨んでいたんだ」
「うん、それは思い出したわ」
「明久はそれを当然だと思っていたし、僕もそう思っている」
「そうかもしれない。私は、冬美がもっと自分の気持ちを伝えるべきだったとも思うけど」
優しい両親のお陰で自由にさせてもらっているけれど、ロシェルとて貴族の娘であるならば、家のために好きでもない男に嫁ぐことの悲劇は分かっている。望まない結婚は、それだけで女性の心を苦しめるだろう。
それでも思うのだ。愛する人と引き離された苦しみは消えなくとも、せめて本心で話し合うことができていたなら、もう少し納得のできる生き方ができたのではないか、と。冬美からすれば同じ状況に陥っていないロシェルには分からない、と思うだろうが、ロシェルからすれば何も語らずに一方的に恨みをぶつけると言うのも、それはそれで卑怯な気がした。語れない状況もあるだろうが、少なくとも明久ならば、彼女の言葉ならどんなことでも耳を傾けてくれたはずである。
冬美は『いい子』の皮を被ることに慣れすぎていて、人に心からの言葉を伝えようという意識がなかった。だから、心惹かれたのだろう。彼女の深く沈めた心を掬い上げて、それでも穏やかに笑ってくれる『彼』に。
「ロシェルの気持ちも、前世を思い出せば消えると思っていた。君はそれでも僕を好きだと言ったけど、それでもやはり、いずれは目が覚めると思っていた。これは運命ではないと、遠からず気付いて」
「何を言ってるの?」
困り果てたように語るイルマに、いっそ呆れたような声を上げてしまう。察してはいたのだが、やはりイルマの考えは見当違いにもほどがある。
「私が運命だと喜んでいたのは、運命が欲しかったからじゃないわ。先生が好きだから、それが運命だったら先生を好きな気持ちを後押ししてもらえるような気がして、だから運命だと信じたかっただけ。順番が違うの。先生が好きだから運命が欲しかったの。先生を好きでいられない運命なら、そんなもの私はいらないわ」
運命であるならばこの恋は必ず叶うと、そう思えたからこそ、ロシェルは『運命』という言葉を繰り返してきた。ただそれだけのことだ。だからロシェルは今も運命ではなく、イルマを追い続けている。
イルマはわずかに目を見開いて、それから苦しそうに顔を顰めた。口を開いては躊躇うように閉じて、を何度か繰り返す。
「僕は、明久だったんだ。今もそうだと思っていた」
ようやく口にした言葉を、イルマはゆっくりと続けた。
「冬美に関する申し訳ない気持ちは忘れられない。彼女に救われた、あの強烈な心地を今でも思い出せる。それでも僕はイルマ・スペンサーなんだ。そんな当たり前のことに恥ずかしいが、今頃気付いた」
ロシェルにとって冬美は、他人の記憶である。その感情すらまるで我がことのように感じられるが、あくまでそれも他人の感情だった。だからこそロシェルは彼女の話をするとき、一人称で口にすることはほとんどなかった。
けれど、イルマは違う。彼は明久と冬美のことを語るとき『僕』と自分のこととして語った。彼にとって前世のことは他人の過去ではなく、今の自分のものだったのだ。
「それに気付けていなかったから、君の言葉を『ロシェル』の言葉として受け取らなかった。『冬美』が口にする何かの間違いだと感じていたんだ。君の言葉を、君の気持ちを……ロシェルを蔑ろにして、すまなかった」
彼の言葉に、ロシェルは咄嗟に手を伸ばした。イルマの服の裾を掴んで握りしめても、彼がそれを振り払うことも、避けることもなかった。
「わ、私、先生が好きよ。分かってくれる?」
「……ああ、本当にすまない」
あ……と思わず意味のない音が、ロシェルから漏れた。それから、彼女はすぐに破顔する。自身の想いをまやかしだと断定されて否定されることほど、悲しいことはない。だからこそ、それが本物であると認められたことが、堪らなく嬉しかった。湧き上がる感情を抑えられずに、涙腺がじわりと反応する。
「ロシェル、それで、相談なんだが」
喜ぶロシェルに反し、イルマは神妙な顔つきのままだった。重々しく口にされた言葉に、ロシェルも慎重に頷いて返す。イルマはずっと彼女の口にする『好き』という言葉を、まともに取り合ってはくれなかった。はぐらかして、なかったことにしようとしていた。そんな、彼が今、ロシェルと向き合おうとしてくれている。彼女は彼の語る言葉を、ただの一つも聞き漏らすことがないよう、必死に耳を傾けた。
「僕はすぐに冬美のことを割り切れない。今君が口にする言葉を信じても、それがこの先も続くものだとは信用できない。そういうのは慣れていないんだ。きっとまた君の気持ちを疑って傷つけるだろう」
続けられたのは後ろ向きな言葉。それにイルマは、だけど、と付け足した。
「君が笑うと嬉しい。君が泣くと悲しい。君が男と話していると、その……なんだ。口惜しく思う。僕は女々しくて嫉妬深くて狭量なんだ。君からすればおじさんだし、いい歳して本当に申し訳ないんだが、それでも、」
イルマは再び自身の手のひらでその顔を覆う。大きな手のひらは彼の顔を大方覆い隠してはいたが、それでも、その顔色の変化を隠すには、些か面積が足りない。
「それでも、君を好きになってもいいだろうか」
イルマは王家からの信頼の篤いスペンサー家の生まれで、その医師としての手腕は誰もが認めるところである。細身で少々痩せぎすだが、理知的な整った面立ちをしている。けれど彼は徹底的に自分に自信がない。人から見れば羨むようなものを持っていても、彼は自身の人間性に信を置けないために、どうしようもなく自己評価が低かった。
だから、彼には分からないだろう。今のイルマの言葉が、ロシェルにとってどれほど嬉しいか、なんて。
「好きになってくれなきゃ、嫌よ」
震える声でそう言って、感情のままにロシェルはイルマに抱き着く。子ども扱いしていたときは涼しい顔をしていたくせに、今の彼は見ていられないくらい顔を赤くしていた。両手を持ち上げた状態でしばし迷ったイルマは、それからようやく彼女の背に自身の腕を回す。
すまない、と申し訳なさそうに口にするイルマの言葉があまりに見当違いで、ロシェルはたまらず声を上げて笑った。




