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15.「お、怒ってた?」

 冬にも終わりが見え始めた。大地を覆う雪を割って、春を告げる花が顔を出した。まだまだ風は冷たいが、一週間前に比べれば幾分か和らいだ気もする。あと、ほんの少し。冬の寒さを耐え凌げば、ゆっくりと温かい春が訪れることだろう。


「お、怒ってた?」


 だからと言って、まだ十分に冬と言える気候だ。その割には薄着の格好で、恐る恐るロシェルに尋ねるのはどことなく顔色の悪いヘリックだった。彼はそわそわと落ち着かず、視線を右往左往させている。放課後の廊下を歩くロシェルを必死で追いかけてくる姿は、申し訳ないけれど情けなくてちょっと面白い。

 ヘリックは些細な喧嘩でネルを怒らせてしまったらしい。それでわざわざ女子生徒用の校舎まで来て、ロシェルを通して彼女の機嫌を伺っているのだ。当のネルはまだ怒りが冷めやらないのか、貼り付けたような微笑みを浮かべて、今日は先に寮へ戻るわね、と一言ロシェルに言い添えると早々に教室を出て行った。

 ファーガスは剣の授業で合格点をもらえず、居残りで補修を受けているらしい。彼はどうにも身体を動かすことが苦手なようだ。可哀想な顔をしていた、とはヘリックの言である。


「あまりおどおどしないでよ。私がヘリックに意地悪をしているみたいだわ」

「う、うん。そうだな」


 苦笑しながらのロシェルの言葉に、ヘリックは慌てて背筋を伸ばす。けれど、ちらりとロシェルに向けられた視線はやはり眉の下がった情けないもので、彼がほとほと困り果てているのが窺えた。


「拗ねているだけだと思うけど。明日きちんと謝ったら、きっと仲直りできるわ」

「そ、うだと、いんだけど……」


 仲違いしていた期間が長かっただけに、余計に不安になっているらしい。

 ロシェルの目から見て、ネルは今も憤慨している様子ではなかった。ただ、納得して受け入れて、彼を許し、自分の否を認めるには、少しばかり時間が必要なのだ。


「私、ネルは怒ったりしないと思ってたわ」

「…………ネルは怒ると結構怖いぞ」


 そういうことを口に出すから余計にネルに怒られるのではないだろうか、と思ったがロシェルは口に出さなかった。何もこの場で彼女を怒らせた、と落ち込んでいるヘリックに追い打ちをかけることはない。それに、そういうある意味正直なところは、彼の美徳だと思っている。


「ネルは大人だから、怒ったり嫌だと思ったことを、顔に出したりしないと思ってたの。実際に私の知ってるネルは、嫌な気持ちを隠して笑える人だったわ。でも、ヘリックに対してはすごく……そうね、子どもみたい」


 ロシェルが何を伝えたいのか、分からないのだろう。ヘリックはますます眉を下げて、自身よりずっと小柄なロシェルを見下ろす。


「ヘリックにはそういう一面も見せることができるのね。それができるのは、きっとあなたのことを信頼しているからよ」


 素直な印象だった。ヘリックに対するネルは、時々子どもみたいに我儘を言い、拗ね、そして笑うのだ。甘えを見せるのは、彼へ向ける信頼が成せることだろう。

 ロシェルの言葉に、ヘリックは灰色の目をまん丸にさせると、それから顔を赤らめ、大きな手のひらで口元を隠した。


「……そ、そうか」


 どうやら十分な励ましになったらしい。明日には、また仲良く笑い合う二人に会えることだろう。

 気恥ずかし気なヘリックから礼を言われ、帰寮する彼と玄関で別れの挨拶をする。ロシェルはこのあと、イルマに会うために保健室へ向かうつもりだった。彼は校医として寄宿学校に籍を置いているが、こちらが本職ではなく、保健室を空けることはままある。そのため、彼が不在の日も少なくはないのだが、今日は午後から保健室にいると聞いていた。


「ロシェル!」


 ヘリックに背を向けて歩きだしたところで、彼から呼び止められる。


「俺から見てもネルは嫌なこととか、人に見せないんだ。それが分かるってことは、ロシェルがよく見てくれてて、ネルが君を信頼しているからで。だから、あの、えっと……俺が言うのも変かもしれないけど、ありがとう!」


 そう言ってヘリックはロシェルに向かって手を振り、すぐに背を向けて校舎を後にした。

 ロシェルはネルのことを信頼している。いつも大人で面倒見のいい彼女に甘えて、頼りきりになってしまっていると思っていた。けれどもし、ヘリックの言うように、彼女の方からも信頼してもらえているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。


 浮足立つ気持ちに逆らわずに歩けば、自然と早足になった。一つの喜びでこんなにも身体が軽くなる自身の単純さが、とても楽しくて好きだった。




  ****




 午前中は学外の仕事へ出かけ、午後から保健室に戻ったイルマは、ロシェルの話に耳を傾けながら、彼女の体調を確認する。一頻り診察が終わると、彼は安堵したかのようにゆっくりと息を吐いた。

 ロシェルが幼いころから、イルマは診察が終わると今のように息を吐くことが多かった。彼女の体調に敏感だからこそ、見られる反応だった。それが分かっているから、ロシェルはその溜息を聞くたびに、少しだけ自惚れそうになってしまう。

 今も、慌ててその気持ちを自制した。


「そんなに心配してくれなくても大丈夫よ。前よりは、体調を崩しても治るのが早くなったし」

「そうした油断が怖いんだ。頼むから気を付けてくれ」

「分かっているわ」


 だから、あまり心配するようなことを言わないで。期待したくなってしまう。

 そんな気持ちを隠して、ロシェルは努めて微笑んだ。もう自惚れて幻滅するのは沢山だ。自惚れた分だけ、それが自惚れであったと悟るときの傷は深い。

 大丈夫、大丈夫、とロシェルは自分自身に言い聞かせる。彼女はもう自惚れはしないし、そうしようとする感情さえおくびにも出すものか。そうして笑って見せる。ロシェルはもう、子どものままでいるつもりはないのだ。


「それじゃあ、寮に戻るわ。先生、今日も診察してくれてありがとう」


 不要に長居したりもしない。もう変に甘えたりはしない。ロシェルは彼に対等に見てほしいのだ。甘えたな子どもではなくて、一人の人間として見てほしい。もちろん、冬美としてではなく。

 ロシェルが退室を示唆すると、イルマの空気が固くなるように感じた。何度も繰り返したことだ。何を言われるか分かっている彼は、身構えたのだろう。


「今日も先生が好きよ。明日も好きだから、覚えておいてね」


 感情的にならないように、けれど微笑んでロシェルは口にした。イルマはそれにすぐに口を開くことはない。彼はしばらくしてから、彼女と視線を合わせることなく、ぶっきらぼうに言葉を放つ。


「直に春も訪れるが、まだしばらくは寒い日が続く。身体を冷やさないよう、気を付けなさい」

「ええ、分かったわ」


 まるで、先程のロシェルの言葉など何もなかったかのような返事だった。しかし、ロシェルはそれに反発することなく、素直に返事をした。彼の、返事ともいえない脈絡ない話題転換にも、慣れたものだった。

 保健室を出たロシェルは、廊下を歩いて校舎を出て、寮に向かいながら空を見上げる。ほんの少し前までなら、今の時間であればもっと暗くなっていただろう。陽は長くなり、着実に春が迫ろうとしている。


 それでも、やっぱり。ロシェルは未だ、イルマのことが好きなままだった。




  ****




 彼は、夢を見ていた。ずっとずっと一つの夢を見ていた。勝手な願望で、随分と根拠のない妄想だった。

 もしも彼女を救えたら、迫りくる死を遠ざけることができたなら、そのときは。

 どうか一目だけでも笑ってくれないかと。そんな虚妄が彼を支えた。


 結論から言えば、彼女は笑ってくれた。けれどそれは彼に向けたものではなく、最早生と死の狭間で揺蕩うことしかできなくなった彼女の、思い出に向けられたものだった。


『……も…る……』


 けして彼とは似通うこともない名前。春の字を持つその音は、いつまでも彼の耳に残った。

 彼女は優しい人だから、温かい人だから、陽だまりのような人だから、だから春のような人を愛したのだろうか、とそう思った。




  ****




 イルマ・スペンサーは物覚えの悪い子どもだった。幼少期の彼と接した者で、一体誰が後に高名な医者になると思っただろう。

 まず、彼は言葉を話すようになるまで、随分と時間がかかった。あまり表情の変わらない子どもで、どこかぼんやりとしていることが常だった。彼の両親、兄、使用人はそんな彼をよく案じていたが、彼はそれさえもよく分かっていない様子で、身振り手振りのみで周囲と関わっていた。


 言葉だけではない。文字を書くにもマナーを覚えるにも、人一倍時間が掛かった。けれど、時間さえかければ実に器用な子どもで、覚えたことで失敗することはほとんどなかった。

 幸い彼の周囲には、その物覚えの悪さを責めるような人間はいなかった。時折しか会わない親戚の年の近い子どもにからかわれることこそあったが、それも周囲の大人がすぐに咎め、拳骨一つで収まるようなものだった。


 そんな、何に対しても物覚えの悪い子どもだったイルマだが、一つだけ、異常なほど理解が早かったものがある。それが人体の構造だった。

 彼はまるで教える前から全てを理解していたのではないか、というほどの早さで知恵をつけ、見識を広げていった。医師の家系故に早くから医療に関わる蔵書に触れていたからか、と周囲は納得していたが、実際は『教える前からすべて理解していた』こちらこそが正解だったのである。


 イルマ・スペンサーには物心つく頃からある記憶があった。彼の夢や妄想でなければ前世の記憶であり、彼は前世、日本という国で生まれ育ち、生涯を終えた『明久』という名前の男性だった。

 その日本での記憶が邪魔し、言語や文字の異なるこの世界での常識的なことを覚えるまで、余計な時間がかかってしまっていたのだ。その点、人体の構造は日本でもこちらの世界でも相違なかった。かつて医師であった彼が、人体の構造のみを初めから理解できていたのは、ただそれだけの理由に過ぎない。


 自身のことを、彼は寄生虫のようだと思っていた。イルマ・スペンサーという存在に対して、である。

 彼は『明久』としての意識の方が強かった。自我が芽生え始める頃に成人した男性の記憶を得たのだ。幼子の意識など、すぐにどこかに追いやられてしまった。彼はイルマ・スペンサーという人間が、何を好み、何を見て笑い、何を嫌って、何に怒り、泣くのか。そんなことも分からない。彼は本来存在するイルマ・スペンサーという人間を内側から食い破り、その皮を被って生活しているのだ。


 スペンサー家の人々は、彼のことをいたく大切にしてくれた。子どもらしい振る舞いをしてみせることもできない彼は、非常に扱いにくかったことだろう。それでもいつも親身に接してくれる。その中身が『明久』であることに時折名状しがたい罪悪感を覚えたが、だからと言って自我を消し、本来のイルマ・スペンサーを取り戻す方法など分かるはずがない。もしも叶うならば、本来のイルマ・スペンサーにいつ取って代わられても構わなかった。彼はあまり執着のない性格をしていた。大事なものは昔から、一つだけしか持たなかったからだ。


『つまらない人』


 そんな彼をそう評した人間がいた。彼は端的且つ、なんて的確な表現だろう、と思った。彼には何もなかった。ただ、与えられるそこで息をしているだけだ。再び医師となったのも、たまたまそういう家に生まれ、救える命を見捨てるほど非情ではなかっただけのことに過ぎない。この世界よりは随分と医療に関する研究が進んだ世界の知識を持つ彼が、高名な医師となることはある意味必然とも言えた。


 歳の離れた妹の異変に気付いても、彼は口に出すことをしなかった。ある程度大きくなってから前世を思い出した妹の変調に気付き、おそらくは妹の方も彼への違和感に気付いた様子だったが、お互いにそれに触れることはしなかった。彼は誰かと前世の記憶を共有したいなどと思ったことはなかったし、妹とそれを申し合わせることは、今ある家族に対し、悪戯に傷を付けるようなものだと思ったからだ。


 彼の前世である『明久』は、自身の妻を心から愛していた。彼女だけがすべてという人生を歩み、今世でも彼女のことだけを想っている。それでも彼は彼なりに、自身を温かく受け入れてくれる今の家族を、心より大切に思っていたのである。


 そんな彼の生活が一変したのは、二十二歳のときのことだった。


 一目で、思った。熱に魘されながら眠る幼い顔を見て、直感的に思った。彼女だ、冬美だ。『明久』が生涯唯一愛した女性がそこにいた。

 容姿は似ても似つかない。日本人らしい容姿をしていた冬美に対し、その少女は金糸の長い髪をして、薄っすらと開いた瞳は黄緑色だった。面立ちも日本でいう西洋人形のようで、熱で赤く染まった肌も、本来ならば白磁の色をしているのだと察せられた。


 それでも、彼女だと思った。根拠などない。本能が叫んでいた。あれほどに求めた彼女が目の前に横たわっている。

 彼は思わず涙ぐみそうになりながら、それでも必死にそれを押さえて笑みを浮かべた。いる訳がないと自身に言い聞かせながら、それでも無意識に視線を巡らせては懐かしい横顔を求めていた。自分でもうんざりするほどの執着で、彼女のことを探していたのだ。


 今度こそ、彼女を生かそう。今度こそ彼女が幸せになる姿を見届けよう。自身が足枷を付けることがないよう、病などが彼女を蝕むことがないよう、そのためだけに生きよう。

 彼はそう、自分自身に誓いを立てた。もう二度と、彼女に何かを望むことがないよう、もう二度と彼女に何かを求めないよう、注意深く自身を戒めた。

 目の前の幼い少女が、きっと冬美であるという、針の穴ほどの小さな希望に縋って。例え、自身の妄想でもいいと思いながら。それでも少女が冬美である確信がほしいと注意深く観察して。


 だからこそ、少女が冬美である、という確信を持てたときは感極まってしまった。ずっとその確証を求めていた。少女が冬美であったならば、彼がイルマ・スペンサーとして生まれてきたことにも、意味を見いだせる。

 きっと、今度こそ、彼女の命を救うために生まれてきたのだ。


『どうして結婚してくれないの!』


 そんな風に考えていた彼にとって、少女に想いを寄せられることは全くの誤算であった。彼にとって、彼女に嫌われることは道理だった。だからこそ、そういった意味で少女に好かれることは、彼にとってあり得ないことだったのだ。

 しかし、少女は彼が辟易するほどにその好意を隠そうとはしなかった。愛らしい面差しで屈託なく笑い、全身で好きだと訴える少女には、確かに心惹かれるものがあった。けれどそれも、前世の綺麗な部分しか思い出せていないからであり、全てを思い出したときに泣きを見るのは彼女だ。


 彼の贔屓目も多分に含まれているだろうが、少女は随分と魅力的だった。可愛らしい容姿に、何よりくるくると変わる表情は人の心を惹きつける。寄宿学校に入学してからは友人もでき、少女のことを気に掛ける男子生徒を見掛けることも少なくなかった。


 彼は少女を引き離さなければ、と思っていた。けれど同時に、少女が他の異性の手を振り切り、自身の下へ駆けてくることに、どうしようもなく安堵していた。自身に向ける笑顔が、特別なものであることは分かっていた。それを向けられると、心のどこかが潤うような心地だった。

 口では他の男性を見つけないさい、と言いながら、我ながら酷い矛盾だと、彼は自嘲した。

 真実を語ることはできなかった。少女と距離を取らねばと思いつつも、嫌われることは恐ろしかった。そうして結局はなあなあのまま、少女のそばに居続けたのである。


『放して!』


 そんなぬるま湯のような日々に慣れてしまったからだろう。そう叫んでこの手を振り払い、見慣れない顔の男子生徒に駆け出す後姿を見送って、まるで傷ついたような気持ちになってしまったのは、全くの不覚だった。

 きっとその男子生徒なのだろう、と思った。彼が少女を見つけたように、少女もまた、魂が求める相手を見つけたのだ。ようやく少女の捻じれてしまった感情の方向が、正しい方へと向かおうとしている。


 これでいいのだと、思った。

 これでいいのだと、思わなければならなかった。






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