11.「だれ」
約束はロシェルの次の休みの日に果たされることとなった。朝からよく冷え込んでおり、風邪を引かないよう、コートを着込んで首には肩掛けを巻いて防寒する。ネルが手袋を持っていたのでそれを彼女に借りて、寮を出た。王都に別邸がある生徒は、休日はそちらへ身を寄せることもあるが、多くの生徒のほとんどは休日も寮で寝起きをしている。ロシェルとネルもその内の一人だった。
そう距離がある訳でもないが、学校から王都の中心街へは、乗り合い馬車が運行している。寄宿学校の生徒が中心街へ向かうために利用しているのだが、幸い今日の乗客は少なかった。急に寒くなったから、出かける人も少ないのだろう。ロシェルは窮屈な思いをせずに馬車で過ごすことができた。
ロシェルは事前に王都について、ネルに教えてもらったことを思い出す。王都の中心には広場が設けられており、そこに噴水がある。それを囲うように花屋や軽食屋といった、いろんな屋台が出ているらしい。その屋台を覗くだけでも楽しく、時間が過ぎるだろう、と言っていた。他にも、国で一番大きいとされる王立図書館、王都を一望できる時計台などがあるらしい。
ロシェルも王都の地理に詳しくないので迷いながらになるだろうが、なんとかなるだろう。コゼットは領地から一緒にやってきた従者を連れているらしく、治安という意味でも安心だと思うのだが、ネルは念のため町を巡回している警邏隊の詰所を教えてくれた。何かあればすぐに助けを呼ぶように、と二人を気にかけてくれたのだ。
王都は、国王陛下のお膝元であり、他の町よりは随分安全で、貴族の娘でも安心して歩けるところではあるらしいのだが、それでも何が起こるかは分からない。半ば脅すようにそうネルに教えられ、ロシェルは必死になって警邏隊の詰所の場所を覚えた。
「ロシェルさん」
乗合馬車を降りたところで、先に来て待ってくれていたらしいコゼットに声を掛けられる。彼女も防寒としてしっかりと着込んでいた。その頭には毛糸で作られた帽子が載せられていて、可愛いな、とロシェルが眺めていれば、コゼットは苦笑して口を開いた。
「この国では、どうしても私の容姿だと目立ってしまうようなのです。悪目立ちしたくないので、これで少しは誤魔化せないかな、と」
彼女の言うようにコゼットは、この国では随分目立つ容姿をしていた。目元は切れ長のすっきりとした一重で、鼻は低く、小さな子どものような幼さがあった。面長気味で唇は少し厚い。この国の人間とは正反対の特徴を持っている。ロシェルとイルマの間でしか通じないだろうが、まるで前世を生きた日本という国の人間たちのようだった。
まじまじと彼女の横顔を眺めていれば、視線に気づいたのか、コゼットが顔を上げてロシェルを見返す。しかし、彼女は特別視線の理由を追及することはなかった。スペンサー領から共に王都を訪れた、というコゼットの護衛兼従者の男性を紹介されてから、ロシェルはずっと気になっていたことを尋ねる。
「イルマ先生は、やはりご同行は無理そうだったの?」
コゼットの王都観光に、イルマ先生も誘ってみては? と提案したのはロシェルだった。彼も忙しいからとロシェルに道案内を頼んだとは聞いていたが、相談もしていなかったようなので、声だけは掛けてみてはどうかと思ったのだ。正直に言えば、彼とも一緒に出掛けたい、という発想からその提案を閃いたのだが、そうでなくともロシェルは道に詳しくないため、誰か同行できないか、と考えていた。人見知りをするというコゼットも兄であれば安心だろう。
ロシェルの提案に、家で相談してみる、とコゼットは言っていたのだが、ここにイルマの姿が見えない。ということはやはり都合が付かなかったのだろう。ロシェルも学校で顔を合わせられれば聞いてみよう、と思っていたのだが、あの日から今日まで、他の教員に保健室のことを頼み、イルマは学校へ出勤していなかった。どうやら、本業である医者としての仕事が立て込んでいるらしい。
「そうなのです。お願いはしてみたのですが、どうも忙しいようで」
コゼットは肩を竦めて見せた。残念だが、仕方がない。ロシェルは気持ちを切り替えて、コゼットに楽しんでもらうべく、気合いを入れる。彼女の腕を取って歩きだせば、コゼットは目を見開いてロシェルの顔と掴まれる腕に目を向けた。
「じゃあ、まずは広場に案内するわね!」
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結論から言って、王都観光は楽しかった。楽しかったのだが、ロシェルの方がよほどはしゃいでしまって、あちこちに意識を奪われる彼女をコゼットが必死に宥めていた。
第一印象の通りコゼットは落ち着いた性格をしているようで、どんなに美しい花を見ても、可愛らしい小物や大道芸を見ても、大げさにはしゃぐことはなく、静かに微笑んでいるのが常だった。
貴族の子女はきちんと席に着いて、マナー通りの食事をすることが実家でも学校でも求められる。そのため、広場の屋台で買い食いなど普段ならばありえないことなのだが、コゼットはそれさえもいっそ慣れているのではと思える手つきであっさりとこなして見せた。初めてのことさえすぐに対応できる、随分器用な人なのだろう。肉を焼いてパンで挟んだものだったのだが、パンの滓などをぽろぽろ零しながら食べてしまうロシェルの世話を焼いてくれたほどである。
これではどちらが年上か分からない。
「ごめんね。手間をかけて」
「いいえ。大してことではないので、気になさらないでください」
図書館ではさすがに静かにしていたが、時計台でも広場のときと同じようにはしゃいでしまい、地上に戻って冷静になったロシェルは途端に恥ずかしくなった。
けれどそのくらい、高い塔になっている時計台からの眺望は素晴らしかった。ロシェルの体力がないために、休み休み上ることとなり、ここでもコゼットには面倒を掛けた。申し訳ない気持ちもあって、もう二度と上るものかと思っていたが、それも外の景色を視界に入れた途端に吹き飛んでいった。
経験したことのない高さに怯えつつも、果てが見えないほど遠くまで見渡せることに、ロシェルは感動と喜びを覚えた。ほとんどの時間を家の中で過ごし、体調が落ち着いてきた今もそうそう遠出をすることがないロシェルは、初めて世界がああも広く、途方もないことを知ったのだ。思わず歓声を上げて見惚れてしまった。
「なんだか、私の方が楽しんじゃったわね」
「いえ、私もロシェルさんに案内していただけてとても楽しかったので。ロシェルさんにお願いしてよかったです。ありがとうございます」
そんな風に言われれば、悪い気はしない。むしろ、とても嬉しくなってしまう。ロシェルはそれを素直に笑顔で示して、次の提案を行った。後ろを振り返れば、コゼットと目が合う。
「この後はどうしよう? 日暮れにはもう少し余裕があるし、また広場に戻るのもいいかしら。さっきとは違う、別の大道芸をしているかもしれないし」
時計台を出て、とりあえず広場の方へ向かって足を進める。狭い路地は人通りも少なく、多少はしゃぎながら歩いても、誰かに迷惑をかけることもない。
「そうですね。そうしましょうか」
彼女の従者を従えて、後ろを歩くコゼットはロシェルと目を合わせて笑う。目を薄っすらと細め、唇の両端を釣り上げて笑う顔には、先程とは違う印象を受けた。
「ねえ、冬美さん」
え。
ほとんど後ろ向きに歩いていた足の力が抜けそうになる。転びそうになって、ロシェルは慌てて足に力を入れた。聞き間違いだと思った。けれどどう思い返してみても、確かに先程コゼットは『冬美』とそう呼んだ気がする。
足を止めたロシェルは、そのまま呆然と立ち尽くした。目の前のコゼットには先程までの微笑みはすでになく、感情を包み隠したような無表情でじっと彼女を見返している。
「ど、どうして、その名前を、あなたが……」
それは、ロシェルとイルマしか知るはずのない名前だ。前世のロシェルの名前。かつて明久だったイルマの、妻だったときの名前。
呆然としたロシェルの呟きを耳にしたコゼットは、一瞬目を見開くとすぐに顔を顰めて怒りの感情を露わにした。
「やっぱり! そうだと思ったの! 彼が気にかけてるって聞いて、そうに違いないって。しかも、その様子だときっちり覚えているようね。それなら私も遠慮はいらないでしょう? はっきりと言うわ」
コゼットは厳しい表情のままロシェルに詰め寄る。そこには後輩らしい穏やかな微笑みはなく、彼女に対する嫌悪感すら滲んでいるように見えた。
「彼にもう近寄らないで」
「か、彼って……」
「明久よ! 分かるでしょう!?」
コゼットはそう言うが、ロシェルには何が何だか分からない。冬美だけではなく、明久の名前まで出てきた。その上で、コゼットは彼女を責め立てている。イルマが、妹に前世の話をしたのだろうか。親しくはしていないと言っていたのに? 仮に彼が話していたのだとしても、一体何故、こうして彼に近づくなと言われてしまうのか。
「確かに、明久のやり方は卑怯で最低だったと思うわ。けれどあなたにも選択権があった。その上であなたが選んだことでしょう? あなたを救えなかったのだって明久の責任ではないわ。あなたもあなたで、今の幸せを探せばいいじゃない。今の明久を縛り付けて苦しめたところで、あなただって幸せになんてならないわ」
そこまで一気に言い切り、コゼットはゆっくりと深呼吸をした。昂った感情を鎮め、その目でまっすぐにロシェルを睨み据えて口を開いた。
「ねえ、冬美さん。あなたに同情したわ。彼に愛されて、さぞ迷惑したことでしょう。けれどあなたはもう、冬美さんではない。だから私は同情しない。明久はもう、私の兄なの。彼に何かあれば、私も迷惑するの。私自身の平和のためなら、私は喜んであなたを踏みにじるわ」
ロシェルはもう、訳が分からなかった。分からなくて、怖くて、彼女の言葉を全部拒絶して、その場で頭を抱えてうずくまってしまいたかった。
訳の分からないことで責め立てられるというのは、恐怖でしかない。だって、ロシェルは知らない。コゼットの言っていることが何一つ理解できない。ロシェルにとっての冬美の記憶は、人を愛する感情ばかりの、とても幸福なものだったのだから。
『それでも君を、』
不意に脳裏に声が浮かぶ。男の人の声だ。男の人なのに、か細く震えているようにも聞こえた。心細くて、頼りない。その声以外の全ての音がロシェルの中から消える。
『君を愛しているんだ。例え、君に嫌われ、憎まれたとしても』
湧き上がるのは激情。胸の内にマグマを飼い、それがグラグラと煮えたぎっているようだ。かと思えば。細かな針で突かれるような痛みと不愉快さがある。ああ、そうだ。
ずっと嫌いだった。ずっと憎かった。憎くて憎くて堪らなかった。愛されていることは知っていたから、一欠片だって心を砕いてやるものかと思っていた。同情を誘うような、憐れがましい顔が、更に腹を立たせた。
「ロシェル!」
何故か、突然現れた『彼』が慌ててその場に駆け寄る。頭の中に聞こえる声に意識を奪われていたロシェルは、いつの間にか蹲っていたらしく、『彼』にその背を支えられた。
「どうしてあなたがここにいるの」
「仕事が早くに終わって帰れば、君がいなかったからだろう。使用人に聞けば寄宿学校の先輩に王都を案内してもらっていると言うし、嫌な予感がすれば案の定か」
「私はあなたの代わりに引導を渡しただけ。恨み言ならいくらでも聞くけれど、謝らないわよ」
それだけ告げたコゼットは『彼』と睨み合うと従者に一声掛け、その場で背を向けて立ち去って行った。ロシェルは『彼』に支えてもらって何とか立ち上がったが、足に力が入らず、ほとんど『彼』にもたれ掛かるようになってしまう。
「君の家に行こう。顔色も悪いし、一度休んだ方がいい」
今から馬車に乗って寮に帰るよりも、この場から徒歩の範囲であるカーライル家所有の別邸に向かう方が近い。カーライル家の人間が家を空けているときも、少数の使用人が家の維持管理をしてくれているので、今から家に向かってもすぐに部屋の用意をしてくれる。それを考えて『彼』は行き先の提案をしたのだろう。
ロシェルは呆然と『彼』を見つめ、ふとその両手を伸ばした。体重を預けていたので、余計にもたれかかるようになる。ロシェルの、冷え込んだ手のひらが『彼』の頬を包み込む。そう言えば、せっかくネルに手袋を借りたのに、時計台を出るときに嵌めるのを忘れてしまっていた。
「だれ」
口をついて出た。それが疑問か何なのか、それすらもよく分からない。だれ、だれ、だれ。その後、ロシェルは三度同じ言葉を繰り返した。『彼』の眉間にしわが寄り、けれど怒っているというよりは悲しんでいるように見える顔だった。
「だれ、あなた、だれ。しっ、しらない! わたし、しらない」
彼女の記憶にあるのは、どれも温かいものだ。隣にいる誰かを、深く愛する感情。隣にいるだけで満たされて、まるでシーツの中で微睡んでいるような幸福を与えてくれる人。温かくて、優しくて、希望とか夢とかそういうものを全部詰め込んで、人間にしたような人。
『ほら、見てよ。ね? 冬美にすっごくよく似合うよ。可愛いね』
陽だまりみたいな笑顔、そう感じた心は思い出せるのに、その顔自体を思い出せない。こんなにもこんなにも恋しいのに。こんなにもこんなにも求めているのに。誰だか分からない。けれど、
少なくとも、憎たらしい目の前の男ではないことだけは、確かだった。