01.「納得いかないわ!」
ハロー。
私ロシェルさん。
今先生の腕の中にいるの。
混乱と喜びの感情の中、黄緑色の瞳を震わせるロシェル・カーライルの頭には、思わずそんな言葉が浮かんだ。この夏で十五歳となる彼女は今、十四歳年上の主治医に強く抱きしめられている。
場所は王都にあるカーライル家の別邸。生まれつき身体が弱いロシェルは、高名な医師である彼の診療を受ける為に領地を離れ、この別邸で育ってきた。
主治医である彼、イルマ・スペンサーとの関係は良好と言って差し支えない。面倒見よく、診療に限らず何かとロシェルを気にかけてくれる彼に、彼女は当然の如くよく懐いた。
否、懐いた、という表現は適切ではないだろう。
理知的で端正な面差しは、少女が好感を抱くに十分な効力を発揮した。心優しく、身体の不調から解放し、慈しむように接してくれるイルマはロシェルの憧れだった。そう、彼女はその憧れからイルマに恋心を抱いていたのである。
幼い子どもの初恋だった。本来ならば憧れで終わるべきものだったのかもしれない。少なくとも、周囲の大人はそう思っていたことだろう。
けれど、ロシェルにとってはそうではない。彼女は真剣に恋をしていた。大人から見れば浅はかなものだったとしても、今の彼女にとっては一生に一度の恋だった。
ロシェルは良く言えばひたむき、悪く言えば思い込みが激しく、身体は弱いが積極的な性格をしていた。彼女の好意は言葉にこそしないものの、態度によって非常に分かりやすいものである。しかし、イルマはそれをいつもとぼけたふりをしてかわしていた。
「あぁ……っ」
そんなイルマが、まるで縋るようにロシェルを強く抱きしめる。その腕は震えていてぎこちなく、けれどけして離しはしない、とでも言うように力が込められている。擦り寄るようにイルマの頬が寄せられ、彼女の髪を撫でた。彼の亜麻色の髪の感触がくすぐったい。
「やっぱり、君が……君、が」
イルマが、彼女ではない、彼女の名を呼ぶ。
「君が、冬美だったんだ……」
彼が確信を口にして、ロシェルも同じく確信した。先程頭の中に流れてきた映像は、結婚式で幸せそうにはにかんでいたあの男性は、やはり間違いない。
「明久さん…?」
ウエディングドレスを着る『彼女』の隣でタキシードを着ていた『彼』は、ロシェルの前世の夫だった。
****
イルマに抱きしめられるきっかけとなったのは、実に些細なことである。ロシェルは毎朝のように診察に来ていたイルマと少々揉めた。理由はロシェルの寄宿学校への入学である。彼女は前述の通り、生まれつき身体が弱い。今でこそ多少体力も付き、問題なく生活を送っているが、ちょっとしたことですぐに体調を崩してしまう。
彼女の体調を案じたイルマは、家を出て寄宿学校の寮に入ることを反対したのだ。学校に通うとなれば、当然心身に負担が掛かる。彼はそれを懸念したのだろう。
けれど、ロシェルは当然引かなかった。この国では、貴族の子女令息は十五になる春から寄宿学校に通うのが一般的である。これまで体調を案じて家に閉じこもることの多かった彼女は、人一倍学校に興味があった。
イルマのことを、娘の命を救ってくれた救世主のように思っている両親は、きっと彼が反対すれば、ロシェルの寄宿学校への入学を取りやめてしまうだろう。だからこそ、ロシェルは必死になってイルマを説得したのだが、まるで聞く耳を持ってくれないことに腹を立て、部屋を飛び出そうとしたのだ。
そのとき、診察のためにベッドの中で上体だけを起こしていたロシェルは、急いでベッドから降りようとしてシーツに足を取られ、床に向かって頭から転げ落ちた。イルマは顔を青ざめていたが、幸い小さなたんこぶが一つできた程度で、大事には至らなかった。なんともまあ単純なことに、たんこぶ一つを代償として、唐突にも前世のことを思い出したのである。
と言っても、思い出したことは数少ない。前世、彼女は冬美という名前で日本という国に住んでいたこと。タキシードを着て隣に立つ『明久』という男性と結婚したこと。日本という国のぼんやりとした情景。あとは愛する人を想う、切なくも甘やかな感情だけ。
けれど、ロシェルにとってはそれだけで十分だった。魂の記憶とでも言うべきか、彼女にはイルマが前世の夫であると、一目で察することができたのだ。最早これを運命と言わずになんと言う!
加えて思わず『明久さん』と呼んだロシェルに、イルマは藍色の目を見開き、涙を流した。大人の男性が泣く姿など見たことがなく、動揺するロシェルが咄嗟に謝ろうとするよりも早く、イルマは『冬美』と呟いて彼女を抱きしめた。彼の方もまた、前世を覚えていたようである。
「信じられない、まさか、本当に……」
抱きしめられるロシェルの肩口がじんわりと濡れる。イルマの涙が耳に、首筋に、肩に滲んだ。
「冬美、冬美、冬美。ずっと君を想ってきた。君が冬美だと、初めて会った日に思って、だからずっと、そうだと、冬美だと信じて」
ロシェルにとって、イルマは余裕のある大人の男性だった。いつも優しくロシェルを思いやってくれていた。体調を崩して苦しいときも、彼が慰めてくれるから寂しくなかった。そんな、大人であるはずの彼が、子どもみたいにつたなく、彼女のかつての名前を呼ぶ。彼をそうさせるのが自分自身だと思うと、ロシェルは愛しくて仕方なかった。
「ああ、これで――――僕の二十八年が報われる」
万感の思いを込めるかのように、イルマは彼女を抱きしめる腕の力を強くした。彼の背に腕を回して、それに応えるようにロシェルもまた、強くしがみつく。
その言葉で察せられた。彼はずっと、ずっとずっと待ってくれていたのだ。ロシェルが冬美だと、なんの根拠もない直感を信じて、ずっとそばにいてくれた。
前世、彼とどんな風に過ごし、愛し合っていたのか。残念なことに未だロシェルは詳しいことを思いだせない。けれどこれは、運命だ。今生でこんなにも恋焦がれている彼が、前世の夫だったのだ。これを運命と呼ばずになんと言う。
ああ、こんなにも愛しい。
これからも愛していこう。彼だけを思い続けよう。彼が一人で生きた二十八年の孤独を埋めるように、そばに居続けよう。それはきっと、自身の役目だ。否、他の者になどけして譲ることはできない。
だってロシェルは、イルマを愛しているのだから。
なーんて思っていたのに、その決意をイルマ自身によって否定されるなど、このときのロシェルは夢にも思っていないであった。
ちゃんちゃん。
****
「納得いかないわ!」
前世を思い出したあの日から数日が経つ今日も、窓から差し込む朝日のような金髪を振り乱して、ロシェルは大きな声で不満を露わにした。イルマが診察に来てくれている内は、家に仕えるメイドは彼女の部屋を出て、それ以外の仕事をする。そのため、ロシェルの部屋では彼と二人きりであり、誰に憚ることもなく話をすることができた。
「体温も平熱だな。昨晩からまた冷え込んだから心配していたが、問題なさそうで安心した」
「そんなことはどうでもいいの!」
のん気に自身の体調の話をするイルマに痺れを切らし、ロシェルは再び声を上げる。しかし、落ち着きなさい、と医師の顔で少々厳しく諭されれば、頭を冷やさざるを得なかった。気持ちを落ち着けたロシェルは黄緑色の瞳を細めて、改めてイルマを睨み据える。
「どうして私と結婚してくれないの?」
「あのな、ロシェル。君は今年で十五で、僕は二十八だ。年が離れすぎている」
ロシェルの不満はそれだった。元々イルマに恋をしていた彼女は、前世の記憶を思い出したことで、当然のように今生でも夫婦となれるのだろう、と思い込んでいた。実際にそのつもりで会話をしていたのだが、イルマからあっさりと否定の言葉を投げかけられたのだ。
『それは前世の話だろう。君は今の君に相応しい人を見つけなさい』
それはいかにも分別のある『大人』らしい言葉だった。だからこそ、余計にロシェルは気に入らなかった。自身に相応しい人は、心から求めている人は、イルマ以外にいないのに。
もしも、イルマが既婚者であるとか、恋人がいるとか、二人の身分があまりにもかけ離れているというのならばまだ分かる。しかし、イルマには周囲に嘆かれるほど、これまで全く浮いた話がない。加えて、身分もお互いに貴族であり、何の障害もないはずだ。
十年ほど前に、当時不治の病と言われていた病気から国王陛下を救ったイルマは、国一番の医師として誉れ高く、王からの信頼も篤い。また、スペンサー家自体が代々王家の侍医を務める家で現在も重用されており、彼と結婚する、となればロシェルの父も賛同してくれることだろう。
ロシェルの生家であるカーライル家も古くから王家に仕える家柄で、カーライル家とスペンサー家は懇意にしている。イルマの父もまた、彼とロシェルの結婚の打診をすれば、けして頭ごなしに否定はしないはずだ。
「年齢なんて関係ないわ。十四歳程度の年の差、この世界では珍しいことでもないでしょう?」
「生憎、僕は日本での記憶が色濃い。君をそういう目で見るには罪悪感が刺激されるな」
愛があれば年齢なんて!
ロシェルはそう叫びたかったが、口を噤んだのはひとえにその言葉が彼に届かないだろう、と思ったからに他ならない。いつも、どんな話にも真摯に耳を傾けてくれていたイルマだが、このことだけは頑固で融通が利かなかった。
「せっかく学校に行くんだから、ちょうどいいじゃないか。同じ年頃の、君に相応しい相手を探すといい」
「私は先生がいいの!」
他の人を探せなど、ロシェルにとってはひどい侮辱だった。簡単に揺らぐような女だと思っているのだろうか。自身の愛が、まるでその程度のように。
ロシェルはめでたく、十日後に寄宿学校へ入学することが決定した。イルマがちょうど寄宿学校の校医になるということもあり、毎日保健室へ診察にくることを条件に、渋々イルマはロシェルの入学を受け入れてくれたのだ。けれど、そのことによって他の男性に目を向けるようにと言われるのなら、学校になんて行きたがらなければよかった、と今更に後悔が押し寄せる。
「ロシェル」
名を呼ぶイルマの手が、彼女の手に重なる。その下にあるシーツに少し皺が寄った。
「いいかい、前世と今は違うんだ。混同してはいけないし、今の僕と君が夫婦である必要もない」
「夫婦になっちゃダメ、という理由にもならないでしょう?」
唇を尖らせながらロシェルがそう言えば、イルマは悲しそうに眉尻を下げた。どこか頼りないその顔に、ロシェルは途端にとても悪いことをしてしまったような気持ちになる。
「先生はじゃあ、どんな人となら結婚したいと思うの?」
「僕は結婚するつもりはないな。幸い兄がいるから跡継ぎの心配もない。僕は前世の彼とは違うから、そういうの、向いてないんだ」
悲しい顔を引っ込めて、肩を竦めたイルマはおどけるように笑った。そうやって彼は、いつも前世と距離を置く。それが割り切るということで、大人のすべき態度なのかもしれない。それが出来ないということは、やはりロシェルは先生に相応しくない子どもなのだろうか。彼女はどうしてもそれが分からなくて、分かりたくないと思った。
「なんて言われても私、先生が好きだわ」
「ありがとう。でもそれは、幼い憧れだろう。いつまでも引きずっては、君があとで恥ずかしい思いをする」
イルマは苦笑してそう言う。いかにも大人らしい、子どもの真剣さを全く考慮しない物言いに、腹を立てたロシェルはとうとうそっぽを向いてシーツの中に潜り込んだ。
****
ロシェルの主治医であるイルマ・スペンサーは、スペンサー領を治める家の二番目の子どもとしてこの世に生を受けた。二つ年上の兄と、年の離れた腹違いの妹が一人。
スペンサー家は領地の管理とともに、王家の侍医として代々仕えている。彼の兄は医療に興味を示さなかったが、次期スペンサー領主として領内のことに目を配り、次男であるイルマが医療の道へと進んだ。
そして七年前、ロシェルはイルマと出会った。生まれながらに体の弱い娘を案じた両親が、王の命を救ったと名高い彼に、診療を依頼したのだ。
初めて彼が訪れた日のことを、ロシェルはよく覚えている。その日も彼女は熱を出して寝込んでいて、ぼんやりと目を開けた向こうに知らない男の人の姿を見付けた。
『だあれ?』
問いかけてすぐに気付いた。そういえば昨夜、新しい先生が来ると父から聞いていたことを思い出したのだ。眠る前に部屋を訪れた兄も、先生に痛いことをされたらすぐに言うんだよ、と心配してくれていた。
『はじめまして、僕は医師のイルマ・スペンサー。今日から君の主治医になる』
声をだすのも、起き上がるのも辛かったロシェルは、確か少しだけ頷いたと思う。彼女はじっとイルマの顔を見つめ、それからあれ? と疑問に思ったことを問いかけた。
『せんせ……』
『うん?』
初めて会う人に対し、緊張しない訳ではなかったが、優しく響いた彼の声に安心して言葉を続けた。
『どうして、泣きそうなの? かなしいことが、あったの?』
それは幼さ故の直感のようなもので、ロシェルは初めて会った何も知らないはずの彼の笑顔を見て、何故だかそう思った。
彼は藍色の瞳を見開き、それから柔らかく細めた。彼女の頬へ手を伸ばすと、余計にその瞳に涙が溜まっていくように、ロシェルには見えた。
『違うよ。いいことがあったんだ。もう二度と会うことはないと思っていたのに。また、会えたんだ』
イルマがあんまり慎重に口にするから、ロシェルは幼いながらに余程大切な人に会えたのだろうな、と思った。だから彼女は、熱のある気怠い身体で笑った。
『よかったねぇ』
心からそう思った。彼の気持ちが痛いほど伝わってきて、思わずそう口にしていた。
あとになって思えば、イルマの探していた大切なものとは、ロシェルのことだったのだろう。彼女が記憶を思い出したときの、彼の尋常ならざる様子を思えば、そう考えることも彼女の自惚れではないはずだ。
だからこそ、ロシェルは納得がいかない。彼女はイルマのことが好きだ。大好きだ。初めての恋で、一生に一度の恋だと思っている。それなのに彼は、その気持ちを幼さ故の過ちのように口にする。再び彼女に愛されることを喜んではくれないのだ。
幸いなのは今も彼に恋人や婚約者がいないこと。彼との結婚を望めば、過保護な兄は顔を顰めるかもしれないが、その場合は父を味方に付ければいい。お互いの実家の立場も、ほどほど釣り合いが取れている。そして、ロシェルのためにと距離を置こうとするイルマも、けして彼女を突き放したりはしていない。
そうなれば、ロシェルに引くという選択肢はなかった。イルマに結婚をせがんで、ねだって、前世のように夫婦として永遠の愛を誓うのだ。
幸い彼はロシェルに甘い。彼の優しさに付け込んで、元の鞘に収まらない手はないだろう。
大丈夫、と彼女は自身に言い聞かせる。
だって私と先生は、運命で繋がっているのだから! と。
読んでいただき、ありがとうございます。
異世界での前世ものです。すでに書きあがっておりますので、不備さえなければ毎日更新を計画しております。
頑張って書きましたので、楽しんでいただけると嬉しいです。