夢。
「どうして?」
「“どうして?”君が誰か見つめているように、僕もずっと君を見つめてきたんだよ。」
でっぷりとした、無精髭の男が言う。お世辞にも、こぎれいとか、賢そうという形容のできない風貌だ。ただ気味が悪いのだ。
「私は、あなたを知らない。」
「怖がられたくないから、ずっとなりを潜めてきたからね。」
「悪いようにはしない。ただ、一度だけでいい。その美しい唇を僕のものにさせて欲しい。」
恐怖で体がこわばる。そりゃそうだろう。彼女にとって初対面のその男に唇を許すなんて。
「絶対に、それ以上のことはしないから。」
美奈子が後ずさりする。男はじりじりと接近している。
…きっとこの男だ。夜中の無言電話や、背後での気配の主。時々、郵便物が開封されていたのも、きっとこの男の仕業だろう。
「やめて。」
声にならない声で絞り出すように言う。
「そんなに怖い顔をしないで。悲しいよ。僕の犬にはあんなに優しい顔を見せるのに…。本当は僕の花嫁にするつもりだったのに。君は、他の男と…。」
「犬…?」
「ポインターの、ジョージのことさ。」
「ジョージ?あなたの犬なの?」
「そうだよ。君がジョージに話しかけるのを、いつも部屋の中から見ていたのさ。後をつけて、君の家の前まで行ったこともあるよ。」
「君のすべてを知っている。愛してるよ、美奈子。」
手が迫ってくる。食虫植物の触手のようだ。
「助けて!」
強い力が腕を掴む。
「おい!大丈夫か!」
夫である智の声に目を覚ましてハッとする。美奈子は自身の荒い息に夢だったとわかってホッとする。と同時に、またあの夢を見たことに嫌悪感を覚える。
「また、あの夢を見たの?」
黙って頷いて、智の胸に顔をうずめる。
また、あの夢を見てしまった。あの男が現れた時の夢を。
その時は、当時付き合っていた年下の彼のおかげで無事だった。家の近くまで送ってもらって、一人になった直後に現れたのだ。彼は嫌な予感がして、「大丈夫だから!」と言う美奈子のあとをそっとつけていた。おかげで美奈子は助かったのだが、彼は殴られた上に手に傷を負った。もう別れてしまったが、そのことには、今でも感謝しているし、申し訳無かったと思っている。
当時の美奈子は、身の廻りで起こることに不信感を持っていたが、心当たりもなく、困惑していた。
ある時、叔母から急に「よその犬に声をかけないようにしなさい。」ときつい口調で注意を受けた。叔母の家の近所のかわいい犬にフェンス越しに話しかけた程度のことだが、なぜそんなことで、そんなに怒っているのかサッパリわからなかった。
あの時、あの家の犬の飼い主が、この男だと初めて知った。
「カウンセリング、受ける?付き添うよ。」
「嫌だ。」
美奈子はしゃくりあげながら首を振る。結婚して半年。夢にうなされるたびにこのやりとりをしている。相手の男は、その場で逮捕され、服役した。もう刑期を終えているらしいが、美奈子の叔母の手前、地元にいられなくなり、一家で遠方へ引っ越したらしいとのことなので、もう現れることはない。美奈子の中に恐怖感だけが居座っている。
美奈子をしつこくつけ回す男が、他にもいなかったわけではない。そのたびに美奈子はきっぱりと振って、それ以上のことはないようにしてきた。しかしこれは例外だった。
どうして今また怯えているのか?美奈子の両親によると先日、「あのお嬢さんは堅気の男性と一緒になりなさったんで、諦めるようによく言っておきましたのでご安心ください。」とあの男の父親が叔母に連絡してきたというのだ。これを智に話すべきか、思い悩んでいるのだ。美奈子にしてみたら、わざわざ叔母にそんなことを言ってくることが却って気味が悪い。