最初の一歩
「荷物をまとめるって、どういう意味だよ?」
木崎康一は、部屋に戻ってくるなり幼馴染が言い放った言葉の意味が分からず、そう聞き返す。夏生は少し寂しげな顔で言った。
「そのまんまの意味だよ。ここを出て行く準備をしておいて、ってこと。」
「だけどお前、ここで頑張って行こうって話だっただろうが。確かにさっきは話し合いが上手く行かなかったけど、そんなすぐに…」
言い募る康一の言葉を遮って、夏生は落ち着いた声で言う。
「すぐに出て行くわけじゃないよ。僕もまだ諦めたわけじゃないし、努力は続けるつもり。でも、あの会長も頑固そうだし、僕らが言うとますます意固地になっちゃうかもしれない。どっちにしても、準備だけはしておいてってこと。僕は…」
そこで一旦言葉を切ってから、夏生は穏やかな、けれどはっきりとした声で言った。
「僕は、ちゃんと最善の判断をしたい。僕自身とコウちゃんの命にかけて、責任を果たしたいんだ。これからも、これまでと同じようにね。」
その微かに震えた、けれど何よりも力強い決意を秘めたような声を聞いて、僅かな間の後、分かったと言って康一は頷いた。
世の中には、自分とは比べものにならぬほど強い決断力、判断力を持った者がいる。それが、これまでの人生で康一が学んだことの一つだった。そういう人々は、常人が様々なしがらみや常識に囚われて出来ないような、あっと驚くような決断を、いとも簡単にやってのける。得てしてそういう決断は、正しいのだ。そして、彼の幼馴染は、彼の見るところ、そういう決断が出来る人間の一人であるように思われた。
そんなわけで、来栖佳那が部屋を訪れた時、康一は荷造りを始めようとしたところだった。だから、彼女の口から、会長が話したいことがあるらしいから来て欲しいという言葉が出た時、康一は急転直下の話に驚きつつ頷いたけれども、夏生の顔に浮かんだ微かな、しかし確かな安堵と喜びを見逃すことは無かった。
「良かったな。ひとまず、荷造りは必要ないみたいだ。」
来栖が一旦出て行ってからそう言うと、夏生はとぼけたような口調で嘯いた。
「分かんないよ?僕達に目障りだから出てけって話かもしれないし。」
その言葉が本気ではないことは考えるまでもなく分かったので、適当に頷いてから、一緒に部屋を出た。途中で、やはり来栖に呼ばれたらしい藤堂正樹と鉢合わせして、三人で会長のもとに向かった。藤堂はここでは会長とは一番長い付き合いで、高校時代からの関係らしく、会長というのも彼が言い始めたらしかった。
会長室に着くと、会長と来栖が何事か話し合っていたが、その様子は、以前の礼儀正しいがどこかよそよそしい雰囲気から、よりくだけた、打ち解けたものになっているように、康一には感じられた。二人は、三人の来客の顔を見ると話を止めて向き直り、自然なしぐさで席を勧めた。
「こんな時間に申し訳ありません。ですが、早く話を進めたかったものですから。」
あくまで丁重な言葉遣いで会長はそう切り出したが、その丁重さが康一と夏生に向けられたものであることは明らかだった。二人は部外者で来客だし、何より年上の社会人だ。だが、その表明的な礼儀正しさが却って息苦しく感じて、康一は片手を上げてから言った。
「あー、ちょっとすみません。会長、俺達には気を使わないで、いつも通り話して下さい。その方が、こっちもやりやすいですから。」
その言葉を聞いても、会長はまだ迷ったような表情を見せていたが、それでいいというように夏生が頷くと、ようやく決められたようだった。学生らしい、熱気と不遜と未熟が混じったような声で会長は話し始めた。
「では、そういうことで。こんな時間に集まってもらったのは、俺達が直面する最大の問題に対処するためだ。」
そこで一旦言葉を切り、会長が夏生の方を見た。僅かな間の後、夏生が慎重な口調で短く言う。
「燃料ですか。」
「そうです。みんな気付いてると思うが、随分前に補給が途絶え、発電用の燃料は減る一方だ。この際はっきり言おう、例え節電に努めても、あと一月持てば奇跡だ。しかも、もうじき本格的な冬になる。言わなくても分かってるだろうが…」
その言葉を聞いて、全員が神妙な面持ちで頷く。北の大地の冬は、東京の人間が想像するような、ただ暖かく着込めば済むようなものではない。除雪の必要があるのはもちろん、生きていくためにエネルギーが不可欠なのだ。それは凍傷を予防するといった肉体的な面でもそうだし、水道管が凍結して破裂するのを防ぐといった、インフラを維持するためにもそうだった。
「何か案があるの?」
来栖の問いに、会長は頷きながら地図を広げた。スマートフォンやタブレットが普及して、GPSを利用した便利な地図サービスが一般的になった影響で、近頃とんとお目にかからなくなった紙の地図だったが、別に時代がかった演出をしているわけではないことはすぐに分かった。サーバーがダウンして久しいので、インターネットを利用したあらゆる情報サービスは利用できなくなっているのだ。
「ここがうちの学校だ。そして、30キロ離れたここ…ここに、大学と国が共同で建設を進めていた、再生可能エネルギーの大規模実験施設がある。地熱発電をベースに、風力や太陽光を組み合わせて発電し、さらに蓄電技術と高度な電力制御を組み合わせて、効率的な電力インフラを構築する。いわゆるスマートグリッドってやつだ。ここはその実証実験施設で、完成時にはこの大学の電力を全て賄い、更に余った分を電力会社に売る計画だった。」
そこで一休みして、水を一口飲んでから、会長は続けた。
「稼働予定は来年だったが、施設そのものはほとんど完成しているらしい。理工学部の奴らいわく、最終調整に少し時間がかかるが、稼働そのものはなんとかなるとのことだ。ここを動かすことが出来れば、少なくとも電力不足だけは心配しなくてよくなる。」
そこまで言って再び言葉を切り、一同の顔をぐるりと見回してから、会長は張り詰めたような声でなお続けた。
「だが、幾つか問題がある。現場からの最後の連絡によると、施設内にかなりの数のジキが入り込んでいるらしい。そいつらを排除する必要があるし、安全に稼働させ続けるためには、奴らの侵入を食い止める手立ても必要だ。だが、本当の問題はむしろこっちだ。」
そう言って会長は地図の一点を指し示した。それは、この大学と発電施設のちょうど中間あたりの地点で、市街地が広がっていることが地図からもはっきりと見て取れた。
「見ての通り、この辺りは市街地になってる。当然、数え切れないほどのジキがいるだろう。正面からぶつかったら、犠牲も出るし時間もかかる。だからと言って、ここを避けるのは、事実上不可能だ。何とかして、この街の中で、安全な通行路を見つける必要がある。」
そこまで言ってから、再び会長が夏生と、それから康一の方に視線を寄越した。ほとんど直感的に康一は言った。
「俺達に、それを見つけろと?」
「はい、ご協力頂けるというお言葉に甘えたいと思います。それに、この学園の生徒は外の状況もジキの特性も、はっきりとは把握出来ていません。外での経験が豊富なお二人にお任せしたいのです。」
「だけど、そんなに都合良くジキがいない道なんてあるかな?」
夏生の当然の疑問に、会長は僅かに躊躇ったのち、微かに震える声で言った。
「例えどのような状況であったとしても、安全なルートを確実に確保して頂きたいのです。この作戦のためには、それがどうしても、必要不可欠なのです。」
「なるほど、確保か。」
その曖昧で便利な言葉に、康一は思わず小さく笑った。この微妙な言葉には、見つけるという意味と作り出すという意味、受動と能動の双方が込められている。会長はそれが分かって言っているのだろう。つまり、両方の行動をやってくれということだ。康一がそんなことを思っていると、会長は深々と頭を下げ、俯きながら言った。
「ご無理を承知で、重ねてお願い致します。どうか…」
その声には、さっきまでの、不遜ささえ感じるような熱気や自信は微塵も見えず、ただひたすらに請い願う、真摯な感情だけが見て取れた。康一は思わず夏生と顔を見せてから、お互いにやっと笑う。返答を口にしたのは夏生の方だった。
「分かった、やってみるよ。」
「本当ですか!?」
夏生の言葉を聞いて、期待を込めた声で会長が言う。それに頷きながら、夏生が軽やかに言った。
「ほんとほんと。僕達にとっても、ためになる話だしね。ちゃんと研究設備が生きてて、まともに生活出来る環境なんて、世界にもう幾つも残ってないだろうからさ。」
その言葉は、もちろん夏生の本音の一部だった。けれどその言葉の陰に、まだ辛うじて生き残っているこの小さな社会を救いたいという思いを、康一は確かに感じ取っていた。とはいえ、他の人々にはそこまでは理解されなかったようで、会長も夏生の言葉に納得したように頷いて言った。
「それはそうでしょうね。東京にはここより優れた施設が幾つも有るでしょうが、どこもジキだらけでしょうから。」
会長は何度も頷きながらそう言って、夏生もやや形式的な笑顔を浮かべながら頷いて同意を示す。それから会長は、地図やこれまでに得た情報を元に作戦の説明を始めて、夜が更けるまで打ち合わせが続くことになった。
打ち合わせの後、夏生と二人で部屋に戻りすがら、すっきりした気分で言った。
「ひとまず、良い方向に進み始めたみたいで、良かったじゃないか。」
「まあね。お陰で随分と危険な冒険をすることになったけど。」
文句を言うようなセリフとは裏腹に、夏生の声は楽しげだった。軽い足取りで康一を追い抜き、立ち止まってくるりと振り向いてから、手を腰に当てて満足げに言う。
「僕らはずっと逃げてきた。大都市から、郊外の避難所から、ただ目の前の死から逃れるために。だけど今回は違う。生き延びるために、打って出るんだ。ずっと危険かもしれないけど、ずっと明るい気持ちだよ。」
それは全く同じ気持ちだったので、無言で頷いてから、ふと思いついたことを口にする。
「何の根拠も無いけどな、いまごろ日本中で、世界中で、生き残った人間が反撃を始めてると思うよ。ジキの数は多いし、勝てるかは分からない。だけど、やられっ放しじゃ終わらないさ、そうだろ?」
その言葉に、夏生は一瞬びっくりしたような顔をしてから、すぐに嬉しそうに頷いた。
「うん、そうだね、そうだよ。生き残ったのが僕達だけなんてこと、絶対にない。これは最初の一歩だし、僕達は負けないよ、生きているうちは。」
そう言って部屋に向かって歩き始めて、数歩だけ歩いてから、また立ち止まって言った。
「きっと、戦うのはすごく大変だし、また落ち込むこともあると思うけど。これからまた、よろしくね。」
「お互いな。」
そう答えて、明日からのことに想いを馳せる。何百万というジキを向こうに回して戦うのだ、多分実際には勝ち目はほとんど無いし、あらゆる苦難に満ちた戦いだと思う。それでも、前向きに生きられるのは、驚くほど満ち足りた気分だった。
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