2014.9.4
ちょっと書く方でノッてたから読書は一冊のみ。
『男が女を盗む話』立石和弘著
源氏物語の、若紫を光源氏が拉致してくる段を中心に、伊勢物語だとか他の古典作品からも題名のテーマを追っかけて考えているエッセイ? 解説? なんかそんな本。
伊勢物語芥川の段。全文引用で掲載。(原文は古典で面倒だから翻訳の方)
『昔、男がいた。手に入れることができそうにない女を、長年言いより続けていたのを、やっと盗み出して、たいそう暗い中をやってきた。芥川という河のほとりを、女を連れて行ったところ、草の上に置いていた露を、「あれは何」と男に聞いた。行く先長く夜もふけてしまっていたので、鬼がいる所とも知らず、雷までひどく鳴り、雨も激しく降っていたので、がらんとした蔵に、女を奥に押し入れて、男は、弓・胡ぐいを背負って戸口に座り、早く夜が明けてほしいと思いながらいたのだが、鬼は女をさっそく一口に喰ってしまった。女は「あれぇ」と言ったけれど、雷が鳴る騒がしさに聞くことができなかった。次第に夜が明けていくので、見ると、連れてきた女がいない。足摺りをして泣いたけれど甲斐がない。
白玉かそれとも何かとあの人が聞いた時に、露と答えて、露のようにはかなく、私も消えてしまえばよかった。
これは、二条の后(藤原高子)がいとこの女御(藤原明子)の御もとに、出仕申し上げるようなかたちでいなさったのを、容貌がたいそう魅力的でいらっしゃったので、盗んで背負って出ていったのを、御兄君の堀川大臣(藤原基経)と、太郎国経の大納言(藤原国経)が、まだ位が低い時に宮中へ参上したところ、ひどく泣く人があるのを聞きつけて、止めて取り返しなさったのであった。それを、このように鬼と言ったのであった。后がまだとても若くて、臣下の身分でいらっしゃった時のこととか。』
教科書にも再々登場する場面だそうで、見た覚えがある人も多いらしい。
ただし、この物語は成立に特殊事情を抱えていて、現代的な解釈は通用しない。まず、先に和歌があるんだそうな。で、和歌に合わせてテキトーに話を作っちゃってるんだそう。もともとこの和歌は女性の作ではないか?との説もあるらしい。白玉か、の一文が和歌の部分の現代訳。
姑息なことに、この話の後半は削って紹介しているそうで、好きな女を背負って愛の逃避行を行ったが、途中で鬼に喰われてしまって悲嘆に暮れる男のヒロイズム的な解釈がなされるそうだ。
これ、後半部分がものすごく意味深で、面白味の大半に繋がっているというのに、後半を削る紹介者はバカだなと思ったりしたよ。縁者二人が取り返しに追っかけていった、攫われた女は泣いていた、けど男の所在は何も書いていない、時間の経過も書いていない、という状態ですな。芥川龍之介が書いた「やぶの中」みたいな構図があるんじゃん。攫った男から見た構図には居たはずの"鬼"が何を指していたのかがロジック。見つけた時間の齟齬がヒント。追手の方は、鬼は自分たちのことだと言ってるけど、見つけた時に男のことは書いてないんだよね。男は男で、女を失ったのは鬼のせいと明言している。男が女を棄てて逃げたとも読めるけど、そこにもう一つ、追手の二人が見つけたのは本当に姫だったか?という意地悪な仕掛けが見えた気がして、私なんぞはニヤリとした。(笑
まぁ、現代の読者が両方の読み方、あるいはもっと有りそうな別の解釈をどれだけ読み取れるかってのがあるし、幾通りも読めるという書き方で「新しく紡がれた物語」の場合はどう反応するのかな、という疑念は残る。狭量になっているよね、昨今は。
紫の上と光源氏の関係についても、著者先生はフェミニズム的な女性性の抑圧みたいな見方に囚われているけど、私はどっちかと言えば、紫の上と光源氏の対比が面白いなと思ったけどなぁ。
攫ってくる前は、若紫の周囲が姫のことを「幼い、幼い」言うんだけど、時間経過で紫の上がどんどん人間的に成長するのに対して、この男は成長しねぇなぁ、て感じで光源氏が逆に幼稚に見えるような気がしたね。その為の、若紫が幼いという設定があるのだろう、と思った。男というのはいつまでも馬鹿なんですよ、とでも言いたかったのかねぇ、源氏物語の作者は。最期なんかまるで母親が息子の心配してるみたいで・・・不憫だ。
文章や物語だけを注視した場合の発見。
解説的に書くと、物事が断定的になって広がりを失ってしまうんだなぁ。描写というものを考えてしまうな。
幾通りもの解釈が出来てしまうような書き方は否定されがちだ。その環境の中で、本来の描写である多解釈の描写をどう会得していけばいいのだろうか。間違いなく、古来からの多解釈の書き方こそが本来の小説技法の正統と思う。