2014.8.27
ううむ。また一週間以上空けてしまった。
執筆が捗っているわけでもないんだから書けば良さそうなものなんだが、綺麗に記憶から抜け落ちている。
三歩で忘れるトリ頭だからな。
『掌の小説』 川端康成著
『身代わり婚約者』 トーリ・フィリップス著
『この人を見よ』 ニーチェ著
ニーチェが厳しかったんで三冊しか読めなかったんだ。くそぅ。
さすがはニーチェ。歯応えがガッチガチだ。途中寝落ちの記録更新だ。
また古本屋で出会った書籍自体が昭和二十七年発行で旧漢字バリバリ使ってあって、読みにくいったらねぇ。見た事もない漢字を前後の意味と照らし、部位の意味合いを考えて推測しながら読むとか、どんな拷問だ。
ようやく読み終えて次に手を付けたハーレクイン系の小説はページが二倍にも関わらず二日で読めたわぃ。(二日と言っても計十時間ほどじゃないかな)
しかし、最近は哲学に縁があるな。私自身は、ピクのサークルで激論戦わせた時に宣言した通り、つい最近の哲学以前のものは歴史事象として捉えておけば十分だ、という考えなわけだが。だいたいが前提からしておかしいと思ってしまうからだ。"まず最初に神ありき"から始まる論理展開が、なぜそこに神なんてのを出す、その神の実際はなんもないじゃねーか、としか思えないからだ。卓上の空論、小説家になろうとかで溢れている妄想ファンタジーと何にも変わらなくねぇ?
真実や、一切価値の転換、と言う言葉がとにかく大量に出てきて、私と同じ疑問に立って全てを否定してのけるニーチェの理論は、まぁ今日的には当たり前の価値観なのかなとも思ったりするが、多少はこっちとズレを感じなくもない。と言うか表現が極端に歪曲かつ遠まわしで要領を得ないなぁというのが正直な感想だ。
結局のところ、教会的道徳を批判したり哲学の欺瞞を嘆いたりは具体的に書かれているのに、肝心の「では何が真実か」については書かれていないから、イライラする。それは自身の過去の著作を読んでくれ、とな。
根本に神を置く論理展開をニーチェは徹底して攻撃している。それについては私も同感だから何も疑問は持たない。ただ、彼は"論理が展開できるもの"と考えているらしいのが、私には引っ掛かってしまうわけだ。「人間とは考える葦である」てのは、考えちゃいるけどスカスカの茎だからしゃーないね、て意味だろ。
科学的に解明された事柄は全宇宙でたったの7%だ。証明された事柄が7%に過ぎないってのに、ああだこうだ言うことがそもそも幼稚園児が大学入試問題を解こうと試みていると同じ愚かさを感じるっていうんだ。
時期尚早。もっと賢くなるか色んな知識が増えるまで待てってんだよ。我々は未だ無智な猿だ。猿が解からん事柄をどうこう言ってんのがそも下らないと思うのが、私流の"哲学"だ。
哲学書として読むにもそういう理由で別に影響もなければ新しく得たというものも無かった。というか、彼をベースの一部にして近代哲学が組み上がっていってるんだろうから、既に読んでいたも同然ってことだな。うん。(そして私の哲学の根底にも脈々と息づいているなら、何も得られないのは当然だ)
読み物としてはちょっとした発見があった。川端康成でもそう思ったんだが、遠まわしだよね。表現が。今の小説と言われる読み物よりも格段に遠まわしで難しい。ニーチェに至っては、何を言ってんだか理解出来ないことさえあった。意味が解からないっていうんじゃなくて、何が書いてあるのかが伝わらない、もっと具体的な言葉で説明してくれ、と思う箇所が多数あったって意味。
そして、肝心の主張の部分は書きこまないのも共通だ。横山大観の絵みたいだよね。雪の庭はまったく描かない白紙にして、その周りに松の大樹を置くことで空白に庭をおぼろに映し出すっていう、アレだ。多少の差はあるけど、それは現在の一般文芸においては小説技法で当たり前に使われている。ないのはラノベくらいだな。
これが極端に大きく使われている、と感じたのが『この人を見よ』だった。哲学書なんだからエッセイ形式でスパーンと言っちゃえばいいのにと思ったりもしたが、もしそうならニーチェは歴史に名を残しちゃいないよね。哲学そのものも当時にあっては非凡であり、表現法も最良のものを使って、けれど"読者"は成熟してはいなかった、てね。解説にもあったけど、どれだけのモノを読み取れるかは読者の力量次第になってしまう書き方なんだよなぁ。本人もそれを痛感していて・・・悲劇の人だ。
ニーチェを途中で寝落ちると、不可思議な夢を見るよ。
夢の中で続きを読んでいるのに、その続きはまったく違う別のニーチェの著作らしいんだ。
あれ、これ違う、とか思うんだよ。目覚めてから。他の著書は読んでないから知らないってのに。