2014.8.11
ここ一週間で読了した本を並べる。
『一度は読みたい10の名作短編集』 解説文の著者明記なし (青空文庫から代表的文豪作10編収録)
『極道の恩返し』 安倍譲二著
『少女探偵ジュディ 旅行かばんの秘密』 M・サットン著
『術語集』 中村雄二郎著
文豪短編集、ルポルタージュ風エッセイ、少女小説、哲学関連エッセイ、
まぁ、節操なく読んでいる。(笑
今回取り上げるのはついさっき読み終えたこの本。
『魔女の論理』 駒沢喜美著
これも明治大正期の作品を数点挙げてのエッセイなわけだが、この著作者さんがウイメンズ・リブの闘士の方だったようで、面倒臭い・・むにゃむにゃ、いや、ちょっと変わった視点で切り込んであるのが面白かった。例えば、高村光太郎著『智恵子抄』は、光太郎の贖罪の詩である、とかの論はなかなか面白い視点だよね。私はむしろ、世間への言い訳としか映らなかったんだが。実家が困窮して金に困ってるのに、夫も婚家も頼りたくないなんて、不信以外のなんだというんだろう、とね。普通は、この時代であっても恥を忍んで頭を下げて、てのが当たり前じゃん?
けれどつい最近まで男女の性差別ってのはしぶとく生き続けていたのだろうと、その気配は思い当たる。父方の親類がピンチになればホイホイ助けるけれど、母方の親類がピンチになっても母がこっそりヘソクリで助ける程度ってのは、よく聞かれた話だ。
「結婚は、男が一人前になった祝いに従者の女を一人付けて貰えるという風習」というのはまさしくその通りだったろうと思うし、未だに世界を見ればそういう国はチラホラしているんじゃないかとも思う。妻は従者であり財産であり、はっきり言ってしまえば物だった、てのも頷ける。そうして現在、女の権利を認めた途端に、女は好き勝手に振る舞うようになり、自然界のそのままに男性格差が生じてきたという段階か。モテる男はどこまでもモテ、モテない男はどこまでもモテない。そりゃもう結婚すら出来ない。政府は下手に少子問題とかで頭抱えるより先に、時代に合わせた男の再教育でもした方が早いと思うよな。(笑
フェミニズムの話はこの際どうでも良くって。なんせ、夫婦関係で嫁が家庭の奴隷であるなら夫は働き蜂に過ぎないってのが本当のところで、どっちもどっち、人間三人集まれば支配被支配の関係しかないなんてのは解かりきったことだ。共同体とか言いつつ、物事をスムーズに進める為には権利の制限と優劣は必要不可欠で、それを無くせば「船頭多くして船山に登る」という状況に為らざるを得ないんだから。頂点に立つ者は、女王蜂だがこれの実体はといえば、せっせと卵を産み続けローヤルゼリーを貯めこむだけの単調なお仕事で一生を終える。人間も同じだ。いや、働き蜂はまだ自分が働き蜂だと知ってるだけ幸せで、女王蜂は自身が不幸な女王蜂だと自覚がないから救われない。ローヤルゼリーに囲まれた状態を幸せだと信じることで不安を誤魔化しているに過ぎない。
かと言って、幸せって何なのかと問われて答えられる者は誰も居ないってのも確かなことだ。
この本の中にはフェミニズムに絡めて何名かの文豪が登場する。それぞれの解説とかを読んでいて思うのは、相手に通じる通じないは別として、作家というのは何がしか哲学を持っているものだという事だ。まぁ、哲学なんてのはよほどにボーッと過ごしていなけりゃ自然と体系立てられていくもので、それが作品のベースに現われてくるのは自明の理だとは思うんだが。しかしながら、自身がどういう立場に寄って立つのかはきちんと把握したほうがいいのかも知れないとは思った。社会的にはどういう立場なのか?
私は、この著者の言うような女性差別というものを明確に感じたことはない。今の時代は社会全体で性差というものを肯定しているわけではないから、差別を経験する女性と経験しない女性で分かれるだろう。けれど社会的弱者である事は自覚するし、落伍者と言ってしまって差し支えないような気もする。旦那の永年女中という気はしないが、扶養家族であることは間違いない。自身の作品の中で、どういう立場を表明し、何を書くのか、か。ラノベは書かないと決めたのだから、ここは一般の作家を目指すにあたっては重要なところだよな。
ラノベと文学の違いとはなんであるのか、という問いをずっと抱いている。確かにあると睨んではいるが、明確には解からない。それこそこのエッセイ本のように批評家が延々と100ページほども費やしてああだこうだと論文を書けるものが、文学であろう。ラノベにそういう対象となりうる作品があるなら、それはラノベの体裁を借りた文学だと思うのだ。
このエッセイの文章を借りるなら(女同士は憎み合うものとの通念に汚染された眼から読むと、)『善人ばかりでとても甘くて読めないね、ということになるであろう。確かに彼女の小説には悪人はほとんどいない。いても簡単に改心することが多い。またあまりにも都合のよい偶然の積み重ねで筋を展開するなど、安易な運びが目につく。せっかく提出した問題も、最後には人物を殺すとか、秩序の中に収めてしまう。絵にかいたような美女、絵にかいたような善意etcと、そのようなもの足りなさは事実である。しかしそれを大衆文学の限界などとわたしは言いたくない。私生活の細部を彫琢したり、一部のインテリの内面の憂鬱をさも重大事であるかの如くに描く、いわゆる純文学と、どっちもどっちだという気が、最近のわたしにはするからである。』この対象となっている作家自身が、少女小説家として通っているのだが、その作品の根底には一貫した「哲学」が流れている事を、著者は看破している。その哲学の部分をああだこうだと著者は論じているわけだ。(ちなみに石原新太郎氏の哲学を幼稚と断じている)
このエッセイに表わされるものは、作品の中から発掘され、抽出されてきたものだが、つまりこの逆算が小説というものになるわけだ。主義主張という言葉は違うな、やはりそこに籠められるべきは思想そのものであり、「哲学」という名が相応しいように感じる。哲学書の理詰めのあの文章を喩え話だけにしてしまえば、それが小説になるんだろう。