2014.7.17
今日は短編集のうちの一作を読了した。
『性的人間』大江健三郎著
これはすごい小説だった。さすが、ある種の天才と批評家筋に言わしめた作家の代表作だけある。今もまだその内容がぐるぐると脳裏に回っているくらいだ。ここまで赤裸々に、人間の本質に向き合って情け容赦のない徹底的な描写を行えたなら、どれほどのカタルシスが味わえるものだろうか。(そう、カタルシス無くして作者は作品など書きはしない)
文豪と呼ばれた作家の中には結構な率で自殺してしまった先達が居るわけだが、きっとそれは、自身の中身をすべて吐き出しきってしまった挙句に、それでも止まぬカタルシスへの熱望から逃れ得る唯一の手段に死を決めてしまったのだなと思うわけだ。絶大なるカタルシスを得るには、容赦なく作品に向かわねばならない。それは吐き気を催す行為であり、とても苦しい作業であって、おのれの中のマゾヒズムを喜ばせる事に他ならないのだけれど、純粋なマゾヒストではないが為に熱情が過ぎた後にはやはり、そら恐ろしくなったりもするわけだ。次にまたマゾヒスティックな作業を行うことを思って憂鬱にもなる。執筆は愉しいけれど苦しく憂鬱な作業だ。
かつて高校生の時分から二十代の幾らかまで、わたしも熱情の赴くままにエログロホモに浸りきっていた時期があるが、あまりに燃えてしまって今は残り滓の状態だと自覚する。不感症のようにリアルでもあまり異性に興味が持てず、恋愛小説に限らずソレらはお腹が一杯だ。枯れ果てている。当時書きかけの作品もあり、このままではイカンなぁとは思うものの、補充が出来る類いのものでもない。幾つになっても性欲は抜けないなんてのは、生乾きの薪のごとくブスブスとくすぶらせているから中途半端にしか燃えず、従って炭にもなりきらずに残り滓が溜まっているだけだと思うのだ。個人個人の差もあるだろう。わたしなんぞは生来うっすい所へ持ってきて無茶をしたから枯れてしまった。男だけでなく女だって、若造の頃はどこもかしこも性欲しか詰まってないのだろうと思うのだ。そんな皮肉めいた事柄を取り留めなく延々と考え続けてしまう、なにか隠していたものの皮を無理やり剥がれてヒリヒリしているような、そんな感覚を覚えた作品だった。
今書いているハードボイルド作品は、表面だけのものになってしまってはいないか?
スマートなモノを書きたいと思っていたのだろうかと自問する。
抉るなら内臓ごと抉り出せ。そうでなければならないような気がしてきた。
元来、ラノベと一般的文芸作との違いとは何だろう、そんなモノがあるだろうかと疑問を持ち続けてきたが、最近やたらと一般文芸の特に著名な作品に触れているうちには、確実に「ある」という答えに傾き始めている。市販のラノベにはまったく手が伸びないために確証は持てないのだが、書かれる内容に決定的な両者の違いが存在する。それを説明することは非常に難しく、またラノベを貶めて見ていると受け取られかねないが、そういう向きがないわけでもない。ライトノベルとは、一般文芸におけるある種の"アク"を取り除いた作品であり、その"アク"こそが一般文芸の一般文芸たる由縁であるから、これが無いのは「小説の意味がないことと同義」に近しい。その形態は「絵空事」に分類されてしまうのだ。子供の空想話である。これは厳密には小説ではない。だが、それをあえて小説のジャンルへと引っ張り上げたのが"ラノベ"というジャンルなのだろう。かつてラノベという名称が無かった頃には、これらの作品はやはり絵空事として認知されていたはずで、子供の同人遊びの一環だったではないか、という事だ。両者に決定的な違いなどないと仮定して推論を組み立てていたが、現実に一般文芸に数多く触れているうちに、そうではない、決定的違いが存在すると予感せずにはいられなくなったのだ。それほどに、触れてきた作品たちの空気と、なろうなどで触れたラノベの空気との違いは明白だった。冒頭書き出しですでにその違いがあるのだから、認めざるを得ない。解からない者は、きっと読み込みが足りない。一般文芸の表層だけしか読んでいないのだ。ピンキリはある。両者共通の作者作品ばかり読んでいたのでは違いは分からない。冲方丁氏がインタビューで「書き方が変わったからラノベはもう書けなくなるだろう、」と答えた真意がおそらくはそこにあるのだ。