第36話 小さな罰。
次の日、教室に入るには少しの勇気を使わなければいけなかった。
よし、と気合一つ、理実がドアを開けると、この教室特有の空気に包まれた。
ときどきやって来る依子いわく、これがいわゆる男くさいにおい、というものらしい。
くんくんと鼻をきかせてみても、今はそれほど特別に感じられなかったりして。
そういう変化が、嘆かわしいことなのかどうかはまだ、理実にはわからないけれど。
「おーはよー」
教卓を囲んで、一時間目の数学の問題に取り組んでいた男子生徒数名が口をそろえた。
おはよう、と理実も返して、教室中をぐるりと見回した。
登校している生徒の数は、まだ半分ぐらい。
探した顔のうち、一つはまだ見つけられず、もう一つは、窓際の、一番日当たりのいい席に。
文化祭のあとの席替えで、理実が引き当てた特等席に見つけた。
いつでもどこでも輪の中心にいるような人が、今朝は教室のすみから、ゆっくりと流れていく雲を見ている。
彼がいる前の席に、まだ持ち主が不在なのを確認して、理実は腰をおろした。
「おはよう」
いのまにか雲から視線を移して、赤井が言った。
今朝は眼鏡をしていない。
「おはよう、いい天気だね」
理実も言った。
すると、驚いたように、窓の外を確認し直したりして。
さっきまで見ていたのは雲じゃなかったんだろうか。それとも、眼鏡なしだと見えないんだろうか。
「あー、ほんとに。でも明日からはくずれるみたいだよ。雪降るかもだって」
明日の天気は知っているくせに、今日の天気は知らない。
変な人だった。
変な人で、何を考えているのかちっともわからなくて。
思わず、雲に助けを求めてしまう。
しばらく二人して、伸びていく白い行程をぼんやりと眺めていた。
「昨日は、すみませんでした」
どんなきっかけだったのか。
まっすぐの視線にぶつかって、理実は首と肩の間あたり、痛みと熱を思い出した。
「うん」
ひとつ、頷く。
赤井の目に、少し戸惑ったふうの光が宿った。
「うん、て……もういいの?」
「うん」
「いやよくないだろう全然。そんな、簡単に許しちゃ」
「え、そう?」
「そうだとも。もっと色々制裁を加えないと。警察や学校やら、あっくんあたりに言いつけてぶちのめしてもらうとかさ」
「でももう、許しちゃってるから」
眼鏡をしていないほうの赤井は、目が直接見える分だけわかりやすいのかもしれない。
小さなため息をついて、まあいいならいいんだけど、とどこか残念そうに呟いた。
「でも、このままじゃ反省足りなくて俺、またしちゃうかもよ?」
と、きらりと光らせた目を見て、めげないなぁと理実は苦笑した。
いつものように意地悪なぐらいのほうが彼らしくて、なんだか、ほっとする。
「―― どうして、あんなことしたの?」
気がつくと、昨日からずっと聞きたかったことを口にしていた。
赤井が少し考えるふりをして、雲の中に隠しごとをしたような気がした。
例えば、あのときポケットに忍ばせていたタバコも。よく考えてみれば、生徒会長としてはあるまじきアイテムで。
それを自分が知っているということは、きっと特別なことなんだ。
何ヵ月間もかけて近づいた距離の分だけ、つい忘れてしまいそうになるけれど。
「……柳原さんも大概、自分がわかってないよね」
そう言いながらも傾いたのは、赤井の首のほうだった。
もしかしたら、と理実は仮定する。
もしかしたら、自分だけじゃないのかもしれない。
自分の気持ちがわからないのはみんな、そうなのかもしれない。
自分のこと以上の、全部のことを知っていそうな目の前の人でさえ、やっぱり、わからなかったり、迷ったりもするんだろうか。
理実の机に頬杖をついて、赤井は言葉を選んでいた。
「特別深い考えはないよ。単純に言うと、したかったから、かな。柳原さんに触ってみたかったんだよね」
(さわってって……)
すごいことを言われたような。
昨日のことと直結して赤くなった理実を見て、赤井が笑う。いつもより少し元気が足りなめの笑顔だった。
「で、あわよくばまた男が怖くなって、そしたら灰谷くんとヨリ戻すかなと思って。そのほうが、面白そうだったから」
自分のしたいことを実行する、というのは、実はなかなか勇気のいることだと思う。
だから、余計に理実にはわからなくなる。混乱、する。
首のあたりの、少しの痛みと熱と。
それから、ずっと底のほうに、隠しておいたことと。
触ってみたかった、ってそれは、どれくらいの秘密なんだろう。
雲の中に隠されたのはどれくらいの秘密なんだろう。わかって、いるんだろうか。
それともやっぱり、わかっていないんだろうか。
「酷いでしょ? きちんと罰を与えたほうがいいよ」
自重気味に赤井が先を促したので、理実は考えるのをやめた。
こういう場合はやっぱり、怒るほうが正しいんだろうか。
でももうとっくに通り越してなんだか、とても、赤井らしいなんて思ってしまったりするのだけれど。
「わかった」
でも本人が望むなら、と理実はじりと机に身を寄せて、赤井に近づいた。
なんとなくぴりりとした空気に、赤井の背がまっすぐになる。目を閉じて、という命令にも言われるままに従った。
ばちんっ!
という、派手な音が教室中に鳴り響いた。
何事だ、と集中した視線の先には、おでこを押さえ机の上にうずくまっている男子生徒が一人。
予想以上の事態に、うろたえている女子生徒が一人。
「あ、あの、ごめんね。痛かった?」
「……もんのすげえ痛かった。処女膜破れるときより痛かったかも」
「え?」
「いやなんでもない。行いはすべて自分に返ってくる。痛感しました」
にやっと笑った赤井の目がなんとなく潤んでいて、おでこにはくっきりと赤いしるしが。
きれいな顔の中で変に浮かびあがって、悪いと思ったけれど理実は吹き出してしまった。




