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体温。  作者: 雪田
本編
32/57

第29話 三つ目の選択肢。

 すごく楽しいのに終わりを想像したら淋しくなってしまった。

 そんな余計な心配も、ページをめくるうちにすっかり忘れて、物語の世界に引き込まれていった。

 気がついたら、ラストの一行で。

 理実は、ベッドに寝転がり、ふうっと息を吐き出した。

 大切に大切に、胸の前で本の真っ青な表紙を抱きしめる。


 満足感とともに、転がる。カーテンの隙間から見える、窓の外はもう薄暗くなっていた。

 携帯電話を開くと、新着メールが一件。依子からだった。

 階下から母の、ご飯よーという声が届いた。


「はーい」


 理実は、ベッドに携帯電話を放り出して、部屋を出た。

 例えば、この抱いた気持ちをどうやって伝えたらいいのか、とか。

 伝えてもいいのか、とか。

 普通のクラスメイトって、どこで線を引いたらいいのか、わからなくて。

 元に戻ればいいと思うんだけれど、それは思ったよりもずっと、難しいことだった。




 よく考えてみれば、始めと違って、終わりは大っぴらに宣言する必要はないのだ。

 理実の学校生活は、付き合い始めた頃のような劇的な変化を迎えることはなかった。

 そもそも、付き合っているらしいことをしていたわけではなかったから。

 灰谷との仮の関係が終わったことは、たぶん、いまだに誰にも気づかれていないんじゃないかと思う。

 つまり、理実はまだ灰谷の存在に助けてもらっているというわけで。

 理実はそれでいいのかと少し迷いながら、それでも事実を話すきっかけをつかめずにいた。

 現在進行形で。


「ね、ベージュと黒だったら、どっちがいいと思う?」

「え」


 目の前に、ベージュと黒の布地を押し付けられ、理実は思考から引き戻された。


「あ、黒かな」

「そうだよね。使い勝手考えたら断然黒だよね」


 うーん、と膝を抱えて座った依子の前に、ベージュと黒のショートブーツが置かれている。口が大きめに開かれていて、柔かなレザー素材なので、履き心地がよさそうだ。

 日曜日、冬に向けての買い出しに誘われて、今は依子のブーツ探しに付き合っているところだった。

 とっさに口にした意見だったけれど、依子は見た目が華やかなので、黒とかシックなものを合わせたほうがよく似合うように思う。でも、ベージュの可愛さも捨てがたいのは確かで…… 

(ベージュか黒か)

 今年の冬の命運がかかってるぐらいの気合いで、依子はブーツを睨む。

 思考の邪魔にならないように気をつけながら、理実も隣にしゃがみこんだ。

 実は、買いものって苦手だったりするのだけれど。

 というより、どちらを買おうか迷ったときに、決めるのがあんまり得意じゃなくて。

 理実の場合、さんざん迷ったあげく、買うのをあきらめてしまうパターンが多いのだ。

 家に帰ってから後悔して、優柔不断な性格に嫌気がさすこともしばしばで……


「んー、決めた」


 理実の目の前を手が横切り、片方のブーツをつかんだ。

 立ち上がり、店員さんに声を掛ける。


「ベージュのほうがかわいいけど、ここは、理実の意見を採用させていただきます」


 依子の手の中にある黒のショートブーツを見て、光栄です、と理実は微笑んだ。



 ランチタイムを外して、遅めの昼食をとることになった。

 フォークでくるくるとパスタを巻きつけながら、依子の口から灰谷の名前を出されたところで、理実はやっと心を決めた。


「あのね、依子。実は……」


 灰谷とカムフラージュで付き合い始めたこと、そしてそれがこの間終わったこと。

 たった一言で済む話のはずなのに、ずいぶんと長く、わかりづらい話になってしまった。

 上手に、説明ができなかった。

 依子は目をまん丸にして驚きながら、それでも途中で茶々は入れずに、静かに、これまでのことを聞いてくれた。

 正直、意外な反応で。絶対、もっとこてんぱんに言われると思っていたのに。

 何やってんのとか、もったいないとか、情けないとか、思い切り怒鳴り散らす依子を覚悟していたのに。

 どこか期待、していたのに。


 フォークに巻き付けたパスタを落として、もう一度最初から巻き始める。

 ずずずーと音を立てて、食後のクリームソーダが揺れる。

 緑色の液体を飲み干してから、最後に、レシートをつかもうとした理実の手を制して、依子は一言だけ、言った。


「……理実はほんとに、それでよかったんだよね?」






(今日は買い物に付き合ってくれてありがと。ブーツかわいくてお気に入りになりそうだよ)


 家に帰って、ベッドの上に転がると、依子からメールが届いていた。

 よかった、と理実は黒のショートブーツを履いた依子を思い浮かべながら、さっそくメールを打ち返す。


(あのさ、理実はベージュか黒か、って選んだんじゃなくて、なんていうか、三つ目を選んだんじゃないかな?)


 何通かやりとりをしたあとに、依子はそんなふうに言った。


(……三つ目?)

(そう。ブーツを買わないっていう選択肢)


 さんざん迷ったあげく、買うのをあきらめてしまうパターン。


「え?」


 理実はベッドの上に座り直した。じいっと依子からのメールを見つめる。

 机の上には、青いペンキをこぼしたような表紙の本を置きっぱなしにしてあった。

 例えば、あの本を読み終えたときに抱いた気持ちをどうやって伝えたらいいのか、とか。

 伝えてもいいのか、とか。

 迷って、結局、理実は言葉にするのをやめた。

 迷って悩んで、やっと出した答えは、ベージュも黒も選ばない、三つ目の選択肢だった?

 自分は、気がつかないうちに、また何かをあきらめたんだろうか。



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