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体温。  作者: 雪田
本編
31/57

 挿話 ― ジンクス ―

 びりびりとしびれる指先に息を吹きかけると、白くまとわりついて消えた。

 縮こまっている関節をほぐすためにいつもより入念にストレッチをする。

 たん、とボールを床に弾ませる。

 高く澄んだ音が、誰もいない体育館のすみずみまで響き渡った。

 この瞬間に陥る感覚はなんとも言えない。征服感に似た、小さな国の王様にでもなったような気分とでも言おうか。

 逆回転のかかったボールは、冷たい床から跳ね返って再び手の中へ。

 慣れた感触を回し、縫い目に指を合わせ、ゆっくりと構える。

 目を閉じて、ジンクスを導く。


(……朝の一投目が決まったら、今日は一日いい日)


 呼吸を合わせて、リングを見つめる。膝に力を入れ、手首を返し、ボールを放る。

 すたっと、音のない音を立てて、ボールはゴールのリングの中に吸い込まれた。

 ボールの行く先も確認せずに、二投目の準備をする。

 ぱちぱちぱち、というボールが弾むにしては軽すぎる音が耳に届いたのはそんなとき。

 寒さ対策のためにきっちりと締めたはずのドアが、開いている。

 逆光を背にした影は、あ、と耳慣れた声を発した。


「あの……ナイスシュートっと、思って……」


 と、なぜか言い訳めいたものをして、それきり下を向いてしまった。

 顔の表情から、ならともかく、頭のつむじから今考えていることを探れ、というのはなかなかの難題であった。


「なにか用?」


 我ながら、可愛げのない声が出た。

 ノドの調子も芳しくないせいもあってか、今朝は何割か増しで低い声になった。

 入り口のところで立ったままのイトコの肩がびくりと震え、それから慌てて、床に置いた手提げ袋を持ち上げた。

 それから靴を脱いで隅に揃えて置き、体育館に足を踏み入れようとしたところで、一瞬止まる。


「お邪魔、します」


 律儀に断りをいれてから、同い年のイトコは、紺色の靴下一枚で冷えた体育館の床を踏んだ。

 



「これ、おばさんから渡すように頼まれて」


 と、差し出されたものは、幸い、今度は考える必要のないわかりやすいものだった。

 その手提げ袋を受け取ると、底がまだほんのりと温かった。

 今朝は、部活動があるということを前もって母に言っておかなかったので、これが間に合わなかったのだ。

 コンビニで買うからいい、など何か一言でも母に伝えることができたら、わざわざこのイトコの手をわずらわすこともなかっただろうが。

 今朝も、いってきます、の一言さえもかけられずに家を出てきた。

 手提げ袋の中の弁当箱の上に、一枚のメモ用紙を見つけた。ピンク色のハートの形。

 ちゃんと二人分あるから一人で食べちゃダメよ、と。


「おばさん、相変わらずかわいいね」


 休日の、こんな寒い朝に借り出されても不満をひとかけらも見せない笑顔で、イトコはそんなふうに言った。

(俺の母親はかわいいらしい)

 おそらく自分の人生の中で重要となるだろう事実について考えてみたら、なぜか重いため息になってしまった。

 みるみると、イトコの顔が曇っていく。

 イトコの精一杯を、心ないため息たった一つで台無しにしてしまう。

 どうしていつも、こんななのだろうか。

 その、かわいいらしいという母親から産まれてきたはずなのだが。

 好きとか嫌いという感情よりも先に、とりあえずできるなら、目の前の人にぐらい笑っていてほしいと思うのに。

 どうしてか、自分はあまり、うまくできていないらしい。

 他の人は? と聞かれたので、今日の練習は自由参加だと説明する。

 テスト休みの日に、わざわざバスケがしたいのならご自由に。


「あ、そっか」


 納得した様子のイトコに、お前は? と聞こうとして、やめた。

 休みの日だからと言って、誰かと一緒にいなければいけないわけでもない。

 バスケをやっていけないわけでもない。

 ボールは山の放物線をたどり、リングに吸い込まれていく。

 考え事をしていても、身体のほうが先に反応するようだった。

 今日の調子は悪くない。順調に、ジンクスが高まっていく手ごたえ。

 イトコは今、体育館の隅に膝を抱えて座っていた。手提げ袋を横に置いて、弁当の番でもしているようだった。


 がたん、とリングに嫌われ、ボールが落ちた。

 篤郎は今度は遠慮せずに舌打ちをして、手にしていたボールを転がした。

 コロコロと、まっすぐ、手提げ袋に向けて。

 弁当の番人は敏感に反応した。あっくん? と母と叔母とこのイトコ限定の呼び方で。


「打てば」


 日本語のパス、受け損ねたみたいに。

 目をまん丸にした様子が、可笑しくて。


「暇だろ」


 イトコの小さな身体に収まったオレンジ色のボールが、ひどく不格好だった。 



 


 一投目。頼りなく放り投げられたボールは、ゴールの遥か手前で失速した。

 点々と床を転がり、壁を伝い、ボールは体育館のもっとも遠いところまで。

 びくびくとそれを見届けた背中には構わずに、篤郎は次のボールを転がした。

 理実はボールを拾い上げ、もう一度足元の白い、フリースローラインを確認する。

 踏んづけてしまわないように。

 今の絶望的な飛距離を見ても、ゴールに近付く、という選択肢はないようだった。

 このイトコが変なところに負けを嫌う姿勢は、どうやら変わっていないらしい。

 二投目。先ほどよりはリングに近いところで放物線を描いた。

 肩が小さくため息をついて、今度はボールを自分で拾いに向かった。

 その途中で、すがるような目と、目が合う。

 篤郎は少し考えてから、独り言のようにつぶやいた。


「……とりあえず、フォームとかは気にしないでいい。お前の場合、思い切り力んで放ったぐらいがちょうどいい距離になるのかもしれないから。けど、膝のあたりは気にして、ジャンプだけはきちんと」

「うん」

「ゴールの、ボードの四角いラインの中を狙う。それから、頭の中でイメージをする」

「イメージ?」

「……リングに、ボールが吸い込まれていくイメージ」


 目を閉じて数秒、おそらくそのとおりにして、うん、と理実は頷いた。

 踏ん張りのきかない靴下の裏で、冷たい床の感触を確かめて。

 ふっと息を吐き出す。

 白く立ち上った線を見上げるように、ボールを構えて。



(もし、これが入ったら ―― )



 ジンクスを導く。

 ずっと強く、密やかに願う気持ち。

 こんなに危うい、不確かなものに託したりして。今さらだと悔いる気持ちと、まだ足りないと忍ぶ気持ちと。

 篤郎は体育館の板張りの壁に背をつけて、目を閉じた。


 すたっ、という何度聞いてもたまらない音に、小さな歓声が混ざって聞こえた。





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