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体温。  作者: 雪田
本編
23/57

第21話 灰谷くん、罠に掛かる。

(やっぱり赤井くんの笑顔は信用しちゃいけない)


 と、さすがの理実も理解しないわけにはいかなかった。

 給湯室は、文化祭の忙しさのしわ寄せを全部、引き受けたような有様だった。

 足の踏み場もない、っていうのはこういうことなんだ。

 いろんな業者のマークが付いたダンボール、最初のうちはきちんとたたまれ並べられた形跡があるけれど、上にいくほどそのまま放り込まれた感じが強くなっている。

 棚にあるはずの食器類はほぼゼロで、たぶん、全部流し台の中に移動していた。

 そのほとんどに茶色い液体がこびりついているのを見て、最近睡眠不足だ、と嘆いていた生徒会メンバーの顔を思い浮かべる。

 食器は今のところ絶妙なバランスで塔を築いていたが、いつ倒れてもおかしくなさそうだった。


 どこから手をつけたらいいんだろう。

 とりあえずお茶を入れておしまい、というわけにはいきそうもない。

 理実はしばらく考えて、メイド仕様の制服の袖をまくって、よし、と気合を入れた。

(こんな格好にも恥じない仕事をしてやろうじゃないの)

 とりあえず、ダンボールたちを部屋の隅に追いやって、流し台の前のスペースを確保した。

 それから慎重に、食器の塔の一番上から洗い始める。

 スポンジにたっぷりと洗剤を染み込ませて、よーく泡立てて。

 こういう、掃除とか整頓とか、地道な作業って結構好きかもしれない。

 人三倍くらい不器用なせいで、うまくできないこともたくさんあるけれど、これぐらいなら自分でも役に立つことができるような気がして。

 つい、夢中になってやってしまう。

 だから、誰かが入ってきた気配にも気づくのが少し、遅れた。


「……やなはら?」


 すっかり慣れた呼び方には驚きが混じっていて。

 理実はコップの水しぶきを布で拭き取りながら、ドアのほうを振り向いた。

 肩が少し上下して、頬が少し赤くなっていて。

 理実はその様子を不思議に感じながら、声を掛けた。


「走ってきたの?」

「え? あー……うん。そう」


 思ったことを口にすると、珍しく灰谷は動揺したようだった。

 あいつ、と後ろのドアを気にしながら呟いて、理実からすっと顔をそらした。

 それきり、黙ってしまう。


(どうしたんだろう)


 確か灰谷は、今日は一日中体育館で仕事をしている、と言っていた。たぶんまだ終わってないと思うんだけど。

 ますます不思議に感じながら、理実は洗い終えた食器を、よいしょ、と抱え込んだ。

 量が量なので、少しずつ棚に戻していかないと、すぐに置き場所がなくなってしまう。

 すっと、後ろから手が差し出された。


「棚にしまうんだな?」


 返事を待たずに、理実の手から食器が奪い取られた。

 お礼を待たずに、くるりと背が向けられた。

 当たり前の優しさに慣れてしまったわけではない、と思うのだけど。

 目が合わない。

 いつもがいつもだけに、そんな、ささいな違和感が気になる。

 理実は、もう一度流し台に向かった。

 洗い物はあと半分ぐらい。ようやくお茶を入れるのに必要な、カップやポットの類が見えてきた。

 薄いカップ皿を手にとって、スポンジを当てる。

 手を動かして、ささいなことなんて気にしないように。

 もっと、目下の仕事に集中しようとした。

 隣に並んだ気配に気付いても、しばらくはそのままでいた。


「ごめん」


 謝られてしまった。

 横顔を覗くと、やっぱり少し赤くて。

 手は、理実が洗い終えた食器を、水ですすいでくれていた。


「まさか、柳原がそんな格好してるとは思わなくて、さ」


 びっくりした。

 と、口調は笑いながら、でもやっぱり目を合わせないまま、灰谷が言った。

 かちゃん、と鋭い音を立てて、理実の手の中からカップ皿が落下した。

 硬い床にぶつかって、粉々にはじけ飛ぶ。


 理実は、あ、と思って、続けて、急いで拾わなくちゃ、と思った。

 それを、危ないから。と低い声で制される。

 理実の代わりに灰谷がかがんで、床から小皿の破片を拾い始めた。

 その後頭部を眺めながら、理実は一ミリも動けなかった。

 灰谷は集めた破片を、部屋のすみのゴミ箱に捨てる。


(こんな格好、するんじゃなかった)


 強い後悔に襲われて、それでもやっぱり動けない。


「柳原、足……」


 灰谷の視線の先、理実は自分の足にすっと赤い線が走っているのを見つけた。

 痛みは感じない。

 破片がかすって、できてしまったようだった。


「……保健室」

「え」

「保健室、行って。ここはオレがやっとくから」


 そんなにたいした傷ではない、と言いたかったが、なんだか今の灰谷には有無を言わせない雰囲気があった。

 理実はおとなしく、従うことにした。

 正直、ここから逃げ出す手段を与えられて、少しほっとしていた。

 途中、ダンボールを寄り分けながら、給湯室から廊下へと繋がるドアに向かう。

 ノブに手をかけながら、やっぱり、こんな格好するんじゃなかったな、と思った。

 文化祭だからってちょっと浮かれすぎ。

 絶対見られたくないような、でも少しだけ見てほしいような、矛盾する気持ちを。

 恥ずかしい、と思った。


「あのさ、柳原」


 声に振り返ると、今度はばっちり目が合ってしまった。

 でも後ろ髪を掻いてそれきり、黙ってしまう。


(どうしたんだろう)


 理実は不思議に感じながら、続きの言葉を待った。


「そういう格好も似合ってて、可愛いんだけどさ」


 なんとなく、そういう、と言われた自分の格好を確認しながら。

 制服のスカートはいつもより気持ち短め。

 フリルのいっぱい付いた白いエプロン。

 髪はゴムで二つに束ねられて、依子のクラスのみんなでお揃いのカチューシャ。


「もし、オレが……だったら」


 灰谷の出した例えに、思わず、え?と聞き返していた。


「だからさ、もし、オレが、柳原の本当の彼氏だったら」


(もし、灰谷くんが私の本当の彼氏だったら?)


 そんな想像は、理実の手におえそうにないぐらい遠くにあった。

 灰谷の顔は、やっぱり少し赤くて。

 その様子だけが、理実に強く、何かを意識をさせる。

 ずっと、底のほうに隠している気持ちを。 


「……たぶん、柳原がそんな格好で人前に出るの、許さないと思う」








 


 * * *


 ゆっくり、ドアが閉じられる。

 それを最後まで見届けてから、灰谷は深々とため息をついた。

 まだたくさん残っている使い済み食器の山を見やる。

 こんな、ただ面倒くさいだけの後始末を、臨時の手伝いにやらせる必要はない。しかもまだ本番の最中なのだから。

 あの、曇りのない笑顔で、柳原の場所を示した時点で、何か仕掛けられていると気をつけておくべきだったんだ。

 せっかく親切に、後輩も忠告をしてくれていたのに。

 灰谷は髪をくしゃくしゃとして、その場にしゃがみ込んだ。


「や、べー……」


 あやうく罠に掛かるところだった。




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