挿話 ― 電源OFF ―
そうだ、携帯の電源を切ろう。
我ながら子どもっぽい思いつきぶりに、ノーベル賞をあげたいと思った。
相変わらず頭上で震え続ける携帯電話に手を伸ばす。
親指一本でもって、待ち受け画面を黒一色に設定する。
そして、ぱたん。と、世界を閉じた。
思い切り睡眠をむさぼる贅沢もいい。
誘惑と時間を天秤にかけようとして、携帯を開こうとした自分に苦笑した。
代わりにカーテンを開ける。
この眩しさからして、まだ昼にはなっていないだろう。
3秒迷って、足が冷たいフローリングの床を選んだ。
切符を買おうと販売機の前に立って、はて、行き先に困った。
後ろに列を作った婦人に速やかに順番を譲って、少し遠い位置から改めて路線図を眺めてみる。
東西南北。
今日は寒いからやっぱり南だろうか。
迷っていたら、きれいにビジネススーツを着こなした女性に声を掛けられた。
どうやら、相当変な顔つきをしていたらしい。
親切にも、どうかしたの、と優しく尋ねてくれた。
不審者だと思われて、交番に通報されるよりははるかに良心的な対応だった。
「これから、どこかに行かれるんですか?」
言ってから、ああそういえばこんなことを尋ねるテレビ番組があったような、と思う。
どこ行くんですかゲーム、だっけ。
女性もその亜種だと解釈してくれたようで、ここからほど近い駅の名前を教えてくれた。
最近なんだかみょうに縁のある駅の名前。この駅からなら、若干南に下ることにもなる。
この勘違いはありがたく採用することにして、そこまでご一緒してもいいですか、とお願いした。
まことに残念なことに、すぐに別れは訪れた。
しばし別れを惜しんで、携帯番号を尋ねようとした自分に苦笑した。
光栄なことに女性のほうから聞いてくれたのだが、その親切にも応えることができず。
「すみません、俺、携帯持ってなくて」
いまどき珍しい高校生だと解釈してほしい、なんて思うのは、都合がよすぎる願いごとだった。
駅に一人ぼっちになるとまた、はて、行き先に困った。
どこ行くんですかゲームをこのまま続けてみてもよかったが、尋ねてみなくとも、駅から降りた人たちの足はみな、同じ方向を目指している。
そう、この駅に用があるとすればまずはそこだ。
自分としても、その用事以外に縁ができたのは、つい最近のことで。
まだ太いとはけして言えない縁に頼るよりは、こちらのほうが勝算が高いだろうか。
3秒迷って、みなと同じ方向を目指すことにした。
ビンゴ。
褒めて伸びるタイプだという自覚はあるので、おめでとう俺、と、自分に賞賛を浴びせるのを忘れない。
ここが図書館という例外的な、神聖な場所でなかったら、気持ちよく指をかき鳴らすぐらいの感情表現はしたかもしれない。それくらい、嬉しかった。
市内で一番蔵書数が多く、司書の対応も満足のいくもので、喫茶店や子ども用のおゆうぎ室などの施設も充実している図書館。
自宅の最寄の駅と同じ名前がついた図書館が、彼女と結びつくのはそんなに難しいことではなかった。
「ここ、いいですか?」
彼女の前の開いている席の、椅子を引きながら、尋ねる。
「あ、はい。どうぞ」
本から顔を上げ、人の良さそうな笑みが浮かべる直前で、固まった。器用に。
そんなにじっと見つめられると、頭の中を邪な考えが横行するんだけれど。
セクハラを悟られないように、音を立てないように注意して、席に腰掛けた。
目の前の彼女はたっぷり3秒以上は、驚いていた。
その時間の使い方は、とてもいとおしいものに思えた。
「赤井くん?」
ぴんぽーん。
ここが図書館という例外的な、神聖な場所でなかったら、正解ボタンぐらいは押してみせたかもしれない。
赤井はにっこりと微笑むことで、それに代えた。
「びっくりしたー。すごい偶然だね、ここ、よく来るの?」
「まあ、ときどきね。一般市民の平均より少し多いぐらいには。柳原さんは?」
「私は家が近いから、時間があるときはしょっちゅう来てるよ」
「ああ、そういえば柳原さん家って、このへんだっけ」
これくらいの嘘は社交辞令として。
自分でも、かなり偶然に近い必然を、どう説明すればいいのかわからないので。
予感はあっても、その正体は出会ってみなければはっきりしない、あやふやなものだ。
本当のことを正直に言っても、信じてもらえないだろうし、第一、怖がらせたりしたらかわいそうじゃないか。
(誰がって、俺が)
きょろきょろと周りを確認してみる。
なんだかこれには続きがありそうな気がして。
が、残念ながら、目の届く範囲に新しい予感の先っぽは掴まえることができなかった。
その挙動不審ぶりに、彼女の細い首がかしげられる。
初めて見る私服姿の彼女は、まったく期待を裏切らなかった。
何を着ても、根本の印象は損なわれない。
たぶん彼女は、家でも学校でも図書館でも、当たり前に同じ彼女でいて。
今、この世界にたった一人しか存在しない。
本の活字もそっちのけで彼女のことばかり見つめていたので、さすがに咎められた。
「赤井くんは、何読んでるの?」
背表紙を、彼女のほうに向けてやる。
『やさしい家庭内看護入門』という題名の文字をたどった目が、きょとんとした。
カムフラージュと、実益を兼ねて選んだ一冊。
深読みさせて困らせたらかわいそうなので、なんでも知りたがりなんだ、と言い訳をしておく。
彼女は一瞬の困惑を隠し、そう、と無理やり腑に落とした。
こういう、通行手形なしには踏み込んでこない距離感の取り方は大変好ましいように、赤井には感じられた。
とくに今日のような休みの日には。
「せっかくの休日なのに」
「え?」
読書の邪魔をするのは控えなければと思いつつ、赤井は彼女からの会話を繋ぐ。
「柳原さんは、彼氏さんとデートなんぞにいそしまなくていいのかな?と思って」
彼女にとって、彼氏とは特定の人物しか指さないはずで。
それでも、読みかけの本はしおりも挟まずに閉じられた。
「……あの、灰谷くんとはあんまり学校以外では会わないんだ」
こういうふうにときどき悲しそうに目を伏せるような。そんな、気のせいがしてしまう。
色恋関連に限らず、色々なものの定義の仕方には個人差がある。
だから、なんでも自分の枠に当てはめて考えてはいけない。
でも、それでも目の前の彼女のそばには、何か確かなものがあるように見えるのに。
彼氏のほうからでは手ごたえがないので、彼女のほうから探ってみる手もありかな。
ただ、今日は休日なので、そんなワイドショーのレポーターのように働くつもりはない。
そう思って、赤井はポケットに入れたままにしてある、電源オフの携帯電話を軽く握った。
「変、かな?」
呟きは、隠すもののない、無防備なもので。
図書館という性質に頼って、不特定多数の耳に入れていい種類のものではないように思った。
赤井も倣って本を閉じて、目の前の人物を真っ直ぐ見つめて、会話の終結を宣言した。
「いいや? 全然」
この世で一番怖いものは、と尋ねられたら、暇と退屈だ、と答える。
だからいつのまにか、考える、という行為が癖のようになっていた。
時間があれば、どうでもいいこと、ぐらいならまだマシだが、考えなくてもいいことまで考えてしまう。
概ね、思考の終着地点はろくな場所ではない。
だからできるだけ、やらなければいけないこと、を作るようにする。学校でも家でもそれ以外でも。
限界まで忙しくして、身体をいじめて追い込んで、
そして、家に帰って、ベッドに入って、目を閉じて、夢も見ずに朝を迎えられたら最高だ。
控えめに、肩を揺すられている。
「赤井くん」
そう、名前を呼ばれて、眠ってしまったことに気がついた。
最後の記憶を思い出して、ここは図書館で、そして、声の主は誰か、まで推測する。
携帯電話と目覚まし以外に起こされるのは久しぶりだった。
「もうすぐ閉館時間だから」
(閉館?)
素通りできない単語に、赤井は慌てて机から身を起こし、窓の外を見てぎょっとした。
まるで、本にしおりを挟むのを忘れて、ずいぶん先を読んでしまったような。
「俺、そんなに寝てた……?」
「うん。ぐっすり、気持ちよさそうだったよ」
慢性的な睡眠不足は晴れて、身体は軽くなったような気がしたが、内心は穏やかでもなかった。
赤井はポケットから携帯電話を取り出して、電源を入れた。
19時、5分前。
着信メールを問い合わせようとして、恐ろしくなってやめた。
はて、何通の約束を反故にしてしまったのだったか。
「それは、さすがにもったいないことをしたな……」
5時間以上寝てしまったことになる。昼寝の分際で、平均睡眠時間よりも長いとはいかがなものか。
さすがの赤井も、ため息を禁じず、途中までしか読めなかった本を棚まで返却しに立った。
どうやら、最後の利用者になってしまったらしい。
カウンター内で、忙しく閉館の準備をする司書さんたちに軽く頭を下げてから、図書館をあとにした。
送るよ、という申し出を、案の定、彼女はやんわりと却下しようとした。
「一人で帰したってバレたら、俺が、灰谷に叱られるから」
そう、彼女にお願いし倒して、なんとか、家までの道を一緒に歩む権利を獲得した。
頭の上で瞬く星たちが、少しずつ位置を変えていくように。
隣を行く彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと足を動かす。
寝ぼけていたせいか、気の利いた会話もろくにできないまま、すぐに別れは訪れた。
家の門をくぐろうとして、彼女は何か思いついたように、振り返った。
「あの、赤井くん」
「ん?」
「必要、だったんだと思うよ」
「……? なにが?」
「今日、図書館で眠っちゃったのとか。赤井くんには、必要だったんだと思う」
頬をわずかに桜色に染めながら、彼女の口がつむぐ言葉を。
ろくな予測もできずに、そのままじかに受け止める。受け身を取る余裕も与えてもらえなかった。
「いつも頑張ってる人は、たまには自分のことを甘やかしたっていいと思う。もったいなくなんかないよ」
それは、誰から託された言葉なんだろう。
赤井は、先ほどは見つけられなかった予感の先っぽに、ふわりと触れたような気がした。
「柳原さん、大変申し訳ないんだけど、携帯貸してもらえるかな?今日、家に忘れちゃって」
彼女は、一ミリの疑いも見せず、オフホワイト色の携帯電話を差し出した。
赤井は、素早く親指を動かして、11ケタの番号を入れて発信し、それからアドレスを入力して、一通のメールを送信した。
ポケットの中で、ちょうど二回分、携帯電話が震えるのを確認する。
「ありがと」
笑い、損なっていなければいいのだけれど。
携帯電話を返しながら、どうやら杞憂に終わりそうだ、と赤井はほっと胸をなでおろした。
まるで、鏡の役目を果たすように、彼女の顔がほころんだ。




