表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

ハナコトバ

作者: 知性植物
掲載日:2026/07/31

きっかけは、自身の経営する花屋の従業員から受けた相談だった。

 住宅街から少し離れた商店街に位置する花屋『ダリア』。店名の由来は、花言葉である〝感謝〟からつけられ、日頃から感謝を忘れない。という羽山家の家訓に由来していた。

 時は十二月半ば。成人式が一カ月前に迫っている一方で予約数は程度が知れている。商店街に鎮座しているとはいえ、ネット通販が主流になっている現代。大型スーパーなどが近隣に建てられた影響も相まって客足は大幅に低下していた。

 時刻は午後五時を回った。客足も落ち着きを見せ始めた寒空のなか、従業員である谷村がため息混じりに声を掛ける。その表情はどこか腑に落ちない表情を浮かべていた浮かべ、ため息交じりに声を掛ける。

「羽山さん、聞いてくださいよ……」

 店内には二人だけ。普段とは異なる声色に状況を察したのか、営業終了の看板をドアに掛けると二人分の椅子を用意し、腰を掛けた。

「うちの奥さん、最近妙にスマホを気にしてたんです。それに休日は一人で外出することが増えたり、仕事の帰りが遅かったり……」

 重々しい空気間が場を包み込むなか、事の経緯淡々と話し続ける。

「それで、友人に頼んで尾行してもらったんです。漫画とかでよく見る探偵なんてこんなド田舎にいるわけないですし……。で、その日の夜くらいに、スマホに送られてきた動画が送られてきて……」

 神妙な面持ちでスマホを操作し、そっと差し出す。映し出された一本の動画には、彼の妻と思われる女性が見ず知らずの男性と唇を重ねていた。完全に言い逃れのできない浮気の根本的証拠である。

 高校から付き合っていた大切な人であるために信じたいのだろう。だが彼の心境とは裏腹に彼女の愛は別の男に向いている。

認めたくない事実を突きつけられた彼の目は潤んでいた。残酷な回答だということは重々理解している。しかし彼への恋愛感情は皆無と言っても差し支えはないだろう。張り詰めた空気間に鳴り響く時計の秒針の音のなか、自身の考えをオブラートに包むことなく告げる。

「まだ好きと言う気持ちは分かるよ。けれど、このままの関係を続けていても状況が良くなることは低いだろうし、自分を苦しめ続けるだけになる。だから離婚を切り出してしまうのが良いと思う」

 冷静に答える羽山に深々と頭を下げた。暗い話を持ち掛けて申し訳ないと謝る彼に、「困ったらいつでも相談にのるよ」と優しい目付きで告げ、二人は業務に戻って行った。


――それから約数週間後。

近所でも有名なオシドリ夫婦である羽山夫妻は、婚約から実に半年ほど経過した今でも夫婦仲は良好であったが、先日からとある問題に悩まされていた。

花屋を経営しているがゆえの売上問題。近隣のスーパー等に客足は持っていかれ、商店街の利用客は減少傾向。

元からさほど高くない収益には大打撃となり、家計に落とせる金額は計り知れたほどになっていた。日々の生活に大きな支障がないとはいえ、将来的な観点では厳しいのは目に見えていた。そんな状況が続くなか、詩織がとある提案を持ち出す。

「家計の少しでも足しになるよう、私も働きたい」

予想外の提案に最初こそ反対していたが、自分だけの問題ではない。ましてや、親の職を継ぎたいと頼み、花屋を続けている彼に言い返す言葉はなく、今後の物価上昇のことも加味した結果、了承する以外に方法は無かった。

数日後、メールの受信を知らせる電子音と共に詩織からの一通のメールが届いた。簡潔な一文には、就業先が決まったという旨の文章。無事に合格したことへの安堵からホッと胸をなでおろすも、脳裏には先日の相談された内容が過ぎる。


『浮気が理由ではない』


そんなことは自分が一番分かっている。しかし頭には拭いきれない不安が残る。

マイナスな考えを浮かべる脳裏とは裏腹に指はスマホの上をスライドし、半ば心にもない祝福の言葉を綴っていた。

曖昧な感情のまま刻一刻と時間だけが過ぎてゆく。送信ボタンを押す事に躊躇いを覚えている最中、続けて送られてきたメッセージ。業務内容や時刻など、事細かく記載されているが、そのなかで一際異彩を放つ〝深夜業務〟の四文字。

夜勤の給与は高く、理由も家系を支えるために働くということは重々理解している。だが彼の内心には、信頼の片鱗とは相反した〝疑念〟が徐々に強くなっていく。

不明瞭な感情のまま送信ボタンを押し、画面に映し出される『おめでとう』の五文字。トーク画面を開いたままだったのか、送られた単調な言葉には即座に既読が付き、スタンプによって反応が返ってくる。しかし、彼の目に入ることはなかった。

 直接問いただす訳にもいかないまま、日付だけが過ぎ去ってゆく。

普段通りの生活を送る反面、不安によって眠れない日々が続く。睡眠不足の体では限界が来たのか、普段の仕事にも影響が及び始めた頃、幸彦の異変に気が付いた谷村が声を掛けた。

「最近元気ないみたいですけど、どうかしたんすか?」

不安そうな表情で幸彦の顔を覗き込んだ。彼の健康的な白い素肌に反したドス黒いクマが目に入ると、血相を変えた様子でバックヤードへ向かわせ椅子に座らせる。

「困ったときはお互い様です。以前自分も助けてもらいましたし、今度は自分が助ける番ですよ」

不安を発揚させないように不器用な笑顔を浮かべると向かいの椅子に腰を掛ける。

彼の気遣いに軽く頭を下げ、呼吸を整えると事の経緯を赤裸々に話し始めた。傍から見れば「ただの考えすぎ」の一言で終わる些細な出来事。しかし彼のまなざしは真剣そのものだった。

 不安を和らげるにはどうすればいいのか……? 解決への糸口を探すも一向に浮かばないまま時間だけが過ぎてゆく。そんななか、意外にも先に口を開いたのは幸彦の方だった。

「迷惑だって分かってるんだけど……、一つお願いを聞いてくれないかな?」

「自分にできることなら、お力になります」

 覇気のない声色から発せられた問い。椅子に腰かけた時よりも猫背になり、段々と活力を失っていく姿を直面する。以前の彼とは別人のような不気味さがあるが、献身的に悩みを相談した恩義があるのも事実だった。だが、彼の口から発せられた言葉は予想とは大きく異なった。

「嫁の……、詩織の行動を尾行してくれないか?」

愛妻家である彼の口から発せられた頼みごと。元々は彼も友人を利用して浮気の証拠を掴み取っていたが、日々の積み重なった疑念によるもの。ましてや今回は、全貌を聞いたとはいえど明確な浮気を疑うほどではないように感じる。

しかし、彼の気がそれで収まるのならば。と半ば気が進まないまま了承をした。

遂行日は妻が働き始める日程から約一週間。就業時間の昼夜は真逆のため有給扱いとし、怪しまれることが無いよう他の従業員にも同じように説明を施した。


 ――そして詩織の初出勤から約一週間が経過した。

 就業場所から出社時刻と終業時刻、入店人数などが細かく記されたノートを手渡した。コンビニの夜勤バイトとはいえ、店内にずっと居座るわけにもいかず、自家用車を駐車場の小脇に止めた状態で張り込んでいた。

 男性の入店はあれど、ものの数分で退店をしていくだけ。自動ドアから僅かに目視できたる範囲の様子だけだが、親しげに話している様子は一切見受けられなかった。

 深々と頭を下げ、感謝を伝える羽山に、「困ったときはお互い様っすよ」とだけ言い残して業務に戻っていった。

 心に残り続けた不安が晴れてゆき、段々と普段通りの生活に戻っていく。が、約三ヶ月後、再び疑惑が浮上する出来事が起こった。

作業内容を覚えた詩織は、夜勤に出る日数が当初より増えていくにつれて二人の時間は減っていく一向。以前までは休日に二人だけで外出する機会もあったが、最近は全くと言っていいほど無くなっている。

それもそのはず、妻の様子が妙に不自然だからだ。

普通ならば、「○○へ行くけど、一緒に行かない?」など、必ず一声掛けるはずが、最近は「ごめん、ちょっと用事があるから」の一言だけ。それがほぼ毎週のように繰り返されている。

浮気の疑惑はあれど、明確な証拠は何一つない。問い詰めることが出来ないまま、疑念だけが積み重なっていく。もう一度谷村に頭を下げることも考えた。が、これ以上自分の問題に巻き込むのも気が引ける。

 頭に浮かび上がる幾つもの打開策。しかし、どれも不安を完全にかき消せるものではない。

 時間だけが刻一刻と経過してゆくなかで、ふと目に入ったのは渡されたノート。その瞬間、脳裏に一つの解決策が浮かび上がった。

『人に頼まなくても、自分の目で確かめればいい』

 今回は休日の問。となれば、自分で尾行して『浮気をしていなかった』と目に焼き付ければこの不安ともおさらばできる。だが、そんな甘い考えは無残にも叶うことはなかった。

 二週間後の週末、軽いメイクを済ませた詩織が外出を始める。今回も例に倣って「予定があるから、出かけてくるね」の一言のみ。考えを見透かされないよう彼も普段通りに接した。

がチャン。という音が聞こえてから数分後に幸彦も自宅を出た。一週間ほど前に購入したペーパー型GPSを彼女のスマホの裏に付けたため、大まかな位置情報は把握することが可能。とはいえ、正確性には欠けるため、ある程度の距離を保ちながら尾行を続けた。

 商店街を抜け、向かった先は町外れのカフェ。最近開店したばかりなのか、内装は極めて綺麗だった。

 入店した姿を目視し、店の外に植えられた植木から中の様子を伺った。人通りが少ないのが幸を制したのか、通報されることはなかった。店内にはマスターと思われる若い男性と利用客が数人程度。入店した彼女が席を案内される先には、スーツに身を包んだ男性が座っている。

 年齢は彼女より少し上だろうか……。短く切り揃えられたら髪に、上フチのないアンダーリムの眼鏡を掛けている、何の変哲もない男。それが直接的な要因なのか、記憶をどれだけ遡ろうが、誰なのかは分からないまま。

真向かいに腰を掛けると、メニュー表を開くことなく店主に注文をする様子が見受けられた。

――張り込んでから、数十分ほどが経過しただろうか。その間席を立つことなく、親しげに話す彼女の姿。運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、お互いが笑みを浮かべ話すだけ。特段怪しいと感じる行為は一切ないが、目的を隠して外出している点を考慮すると、疑惑が強まる一向。

 このまま現場を抑えても良かった。が、今の彼にはそんなことは出来なかった。

 彼女の口からは親族の話が出たことはない。故に、家族や親戚と会っているだけ。という可能性を捨てきれない。

 その日の夕方。詩織が帰宅した後も普段と変わらない様子で接する。が、今の彼の頭には、『どうやって確認をするか』ということで埋め尽くされていた。

 何か良いアイデアはないかと部屋を見渡し、とあるものが目に入る。そして、簡単に怪しまれることのないアイデアを思い付いた。


 ――五月の第二日曜日、母の日当日。

「これ……、なんか辛気臭いけどだからさ」

 不器用な笑顔を浮かべながら差し出された紫陽花。どこにでも売っているような、何の工夫もされていない花束。が、彼女にとってはこのシンプルさが心地よかった。

「ありがと」と笑顔で答える詩織に、顔を背けながら頷いた。

 紫陽花の花言葉は色合いなどによって意味が異なる。今回渡した色は様々な色が混ざったカラーミックス。意味合いとしては、〝家族団欒〟の意味が強く、家族思いの彼らしいプレゼント。しかし、その真意は伝わっていない様子。

土壌の性質によって色を変える特徴から付けられたもう一つの花言葉。彼がこの花を送った本当の意味は『浮気』。

こんな回りくどいやり方をせずに直接問い正すことも考えた。が、仮に自分の勘違いだった場合を考慮すると言い出すことは出来なかった。

――二週間ほどが経過した。やはり分かりにくかったのか、彼女からは何の返答も、変化もない。本来の目的が達成できなかったことに痺れを切らしたのか、彼は次回の週末、言い逃れができないよう現場を抑えることにした。


 ――迎えた日曜日、いつも通り「ごめん、ちょっと出かけてくるね」と言って家を出ていく。その姿を確認すると、以前と同じように一定の距離を保ちながら尾行を続ける。彼女が向かった先は先日と同じカフェ。案内された先には何も変わっていない様子の男性が腰を掛けている。その姿を確認すると同時に彼も入店する。

「いらっしゃい」とマスターの低い声に軽く会釈をすると、二人のテーブルの前に立つ。

「浮気……してたんだな」

 怒りに身を任せて怒号は上げることはなかったが、顔からは怒りの感情が滲み出ていた。が、二人はその様子を見ても言い返すことはない。そして、店内が静寂に包まれるなか、メスを入れるように口を開いたのは、まさかのマスターだった。

「お客さん、何か勘違いしていないかい?」

「勘違い? この現場が証拠だ。詩織は、この男と密会していたんだ」

 その言葉に顔を合わせる二人。そして男はおもむろにカバンを漁り、自身の身分証を差し出すように机に置く。そこに記載された名前には、見覚えのある文字列があった。

「鈴木……浩介?」

 彼の姓である鈴木は、詩織の旧姓と一致していた。何かの偶然だろう。そう考える隙も与えずにマスターが続けた。

「その二人は兄妹だよ。まぁ血は繋がってないけどね」

 告げられた真実に、自分の行為を恥じる。顔が赤くなっていくが、誰一人として彼を非難することはなかった。

「間違いは誰にでもある」「ごめんね、ずっと秘密にしてて」

 二人の気に掛けるような言葉に連れて浩介もとコクリと頭を下げる。しかしその場の空気間に耐えられなくなったのか、その場から逃げるように退店していった。

 その日の夜、彼は自宅へ帰ることは出来なかった。自らの勘違いで恥をかき、気を遣わせてしまったという事実が自分を責め立てる。今はただ、一人で居たい。スマホには、心配をした詩織からの大量の着信履歴。しかし折り返しかけることはなく、メールで『ごめん』とだけ送ることしかできなかった。

 翌日、彼は普段通りに出社した。自分の心を覆うように張り付けた笑顔。しかし、就業中のひと時も忘れることはなかった。

 帰宅する際、手には謝罪の意を込めたバラの花束を持参した。自信の心の弱さが原因なのにもかかわらず、性懲りも無く妻を疑ってしまった。

だが、普段のように出迎えてくれることはなかった。スマホに表示された時刻は午後九時過ぎ。明日はまだ平日のためもう寝ているのだろう。そんな考えを否定するように僅かに空いたリビングの隙間から光が漏れ、中からは誰かと通話をしている詩織の声。

女性の友達や家族との通話……とは考えにくい抑揚の声に、先程までの希望が崩れ、消えていたはずの復讐心が再燃を始めた。彼の心の中で、〝疑惑〟が〝確信〟へと変わり果ててゆく。

大切に持っていたバラの花束をそっと下駄箱の上に置くと、カバンに入っていた仕事用の小さなナイフを取り出す。

ドアの隙間から覗き込んで現状を確認し、音を立てないように室内へ侵入する。

夢中になっている彼女の背後にそっと近づき、通話が終わるのを確認すると同時に、手に持たれた刃物を腹部目掛けて突き刺した。

生暖かい感触が伝わると同時に、刺された場所を中心として先程まで真っ白だった彼女の衣服を赤く染めあげていく。『殺される』という事実が迫っているが、何一つ悲鳴をあげることはないまま、「ごめんね」という声が微かに聞こえただけ。

怒りや恨みの表情は一切浮かべず、笑顔で微笑んだその姿はまるで、彼を肯定するかのようだった……。

 ドサッ。という音と共に、彼女の遺体が床に倒れ、真っ赤な池が完成する。段々と冷たくなってゆく遺体を目の前に、『浮気をしていたのだから当然の報いだ』と自分に言い聞かされるが、感情と裏腹に頬を流れる大粒の涙。

 静寂が場を包み、時計の秒針が進む音だけが室内に響き渡る。

 罪悪感と共に妻を殺したという現実が迫り来るなか、少しでも逃げる時間を作るため証拠隠滅を図った。気持ちの整理は出来ていない。死ぬ間際でなぜ自分に微笑かけてきたのか。そんな疑問も時間の経過につれて薄れていった。

時刻は午前零時を回り、周囲の家々からは灯りが消えてゆく。

薄れていく悲しさのなか、自身の目的を思い起こしてこの場を後にする。

半年前まで一緒に寝ていた寝室。先程までアロマを焚いていたのだろうか、妻が好きだったフローラルの香りが鼻腔をくすぐった。部屋の大半を占めるダブルベッドの傍らに置かれたアンティーク調のサイドテーブル。

同棲する際に二人で話し合い、オーダーメイドで発注した特注品であり、思い出が詰まった代物。引出しは三つだけ。彼は神妙な面持ちで息を呑み、上段からゆっくりと手をかける。

スーッと静かな音だけが部屋に鳴り響き渡る。中にはハンドクリームの他に、スマホの充電ケーブルなどが入っていた。

何の違和感もない品物ばかり。その中で、一際異彩を放つ物体。

大切に保管された、彼の好きな作家の書籍。

愛読家である祐介とは裏腹に、詩織は普段から小説を読むことはまずない。ましてや彼が好む純文学ミステリーなんて到底考えられなかった。以前寝ていたことも相まって、その際に置き忘れていただけ。そう思っていたのも束の間、自身の記憶を遡るがその本は所持していた記憶はない。

それもそのはず、妻への復讐に心を燃やしている合間に発売された新作。彼が所持しているはずがなかった。だが、奇妙なことに一切開かれた形跡がない。それどころか、購入時から一切手を付けていないのだろう。シュリンクが付いたまま丁寧に保管されていた。

不自然な状況に彼は頭を搔きむしりながら、二段目に手をかける。が、何も入っていない。彼が寝室を分けようと提案した際、中に入っていた私物は移動させたが、その状態から何一つとして変わっていなかった。

不信感が強まり、背筋に汗が流れる。残った最下段。上二つよりも少し高く、取っ手の傍らにはダイヤル式の鍵でロックされていた。

桁は四桁。設置した際に設定した番号を入力すると、ガチャっという音と共に開錠される。

白いレザー調の内装に相反するような、花柄の小さな桐箱。中には丸いくぼみがある鍵が一つだけ入っていた。それこそが彼の目的の品であり、夫婦の共有金庫の鍵。妻と話し合い、ピッキングに強いディンプルキーを使用していた。

目的の物は手に入ったが、心も顔も晴れることはなく、目線はもう一つの箱に向いていた。内装に馴染むように置かれた柄のない真っ白な箱。

普段は使用しないとはいえ、見覚えのない箱を前に冷汗が背筋を流れる。

鍵付きの引出し、ましてや金庫の鍵と一緒に入れられていたことから、相当大切なものが入っているということは容易に想像できた。

浮気相手からのプレゼントや離婚届、もしや婚約指輪? 考えたくもない想像が頭の中で広がってゆく。箱の中身を確認すれば疑惑も晴れる。『妻はもう生きていない』 『浮気をしていたのだ』再び自分に言い聞かせながら、そっと箱を手に取る。

しかし彼の予想とは裏腹に、栞が複数個入っているだけだった。そのうちの一つを手に取る。丁寧にラミネートされた表面には色彩豊かな紙に押し花、裏面には日記と思われる文章がつづられていた。枚数はざっと十一枚。花はトルコキキョウを始めとした花ばかり。どれも彼が妻へのプレゼントとして送った花のみだった。

裏面には花言葉と共に、その時の気持ちが書かれていた。


七月七日 トルコキキョウ 花言葉:永遠の愛

婚姻届けを役所に提出してもうすぐ一カ月。仕事で疲れ切っているはずなのに、笑顔で渡してくれたトルコキキョウ。永遠の愛を七夕の夜に誓ってくれた。この人となら、生涯を全うできると思う。


十一月二日 カランコエ 花言葉:あなたを守る

外が肌寒くなっていくなか、彼はいつも私を気にかけてくれる。彼にばかり仕事に負担を掛けてしまっている自分に負い目を感じてしまう。彼の負担を減らすためにも、夜勤アルバイトを探さないといけないかもしれない。


四月二十日 アネモネ 花言葉:固い誓い

寝室を別にしてから約三カ月が経過した。夜勤を増やした自分が悪い。それでも気にかけてくれる彼の優しさが、私の罪悪感を刺激する。もう少し傍に居たい。


五月十二日 紫陽花 花言葉:家族団欒

彼の誕生日まであと二週間。友人や高校時代の友達に相談をして、彼へのプレゼントは準備万端! サプライズ、成功するといいな……。


裏に書かれた彼女の本心。自信の想像と異なる結果に罪悪感が押し寄せる。

『本当は浮気をしていなかったのではないか……?』

そんな問いが頭を過ぎ去って行く。頭を上げ、卓上に倒れた状態で置かれた写真立てに目を向ける。寝床の傍らに置くほど大切な写真。自信の後ろめたさの逃げ場を作るように見つめる。きっと、この写真に浮気した相手の写真が写っている。ただ今はそう信じることしか出来ない。

恐る恐る手を伸ばし、写真立てに飾られた写真を見つめる。

そこにはひまわりを手に笑顔を向ける一人の少年の姿。フィルムカメラで撮影されたであろうその写真にプリントされた日付は、今から十五年ほど前を記していた。何の変哲もない一枚。しかし彼にとってはとても大切な思い出。その当時の記憶が頭には鮮明によみがえる。

――父親が存命だった頃、とある親子が入店した。予約していた花束を取りに来たという母親の後ろには、恥じらうように隠れる一人の少女。それが詩織との初めての出会いだった。

 品物を受け取り、会計を済ませる。その間も、視線を誰にも向けることなく母親の服を掴み、後ろに張り付いている。

「ほら、帰るよ」

両手を使い、包み込むように花束を保持した母の姿を見上げると、コクリと頷いた。要件も済み、店内から立ち去ろうとする二人の背中に幸彦が声を掛けた。

「あの、ちょっといいですか?」

唐突な呼び止めに足を止める母子。すると少年は父親に耳打ちをし、店内に並べられたフラワーバケツから花を取り出す。

「これ、あげるから元気出して」と言って、少女に差し出された一輪のガーベラ。花言葉は〝希望〟や〝前向き〟と言う意味を持つ。不安そうな彼女への気遣いのつもりで差し出したのだろう。

 母親が背中をそっと押し出し、彼の目の前に立たせると、おどおどとした様子で受け取る。

「あ……、ありがとう」

 初めて聞いた少女の声。とてもか細く、頬を赤く染め上げていたことを今でも覚えていた。

それから数週間後。店の外から聞こえるセミの鳴き声が静かな店内に響き渡るなか、以前の親子が来店した。どうやら先日のお礼がしたいと言い出して聞かなかったため今日は来店したのだという。

「こ……、この前は、どうもありがとう」

顔を真っ赤に染め上げ、差し出された一輪のひまわり。その時に調子に乗った父親が撮影したのがこの写真だった。

それから数ヶ月後、母親の再婚が決まって遠くへ引っ越してしまっていた。

かなりの年月が経っているにも関わらず、当時と変わらない色彩。その姿は、かなり大切に保管されていたという証拠にも見える。

徐々に『浮気をしていた』という考えが薄れていくなかで、ベッドに置かれた充電中の彼女のスマホが目に入った。きっと証拠が入っているはずだと再度自分に言い聞かせると、遺体が放置されているリビングへと向かう。

部屋に蔓延する生臭さを気にすることなく、詩織の冷えきった手をそっとスマホに押し付けて、スマホのロックを解除する。スマホの待ち受けは婚約当初のツーショット。メールや写真フォルダを確認するが、浮気をしているという証拠は見つからなかった。

 落胆した様子でスマホを閉じようとしたその時、一件のメール通知が鳴った。

 通知越しに表示される男性の名前。

『やはり浮気をしていたんだ』

自分は間違っていなかったと肯定するように言い聞かせ、自己肯定感を上げる。だが、開かれたトーク画面には彼の予想とは大きく異なった。

『明日の午前中に配達に向かいます。旦那さん喜んでくれるといいですね』

 送られてきた短い文章。先程の相手を確認するために通話履歴も確認するが、名前には花屋の名前とメールを送ってきた男性の名前。次々と見つかる証拠の数々は、今までの疑惑を確信へと変えるには充分すぎるほど。

 なぜスマホを頻繁に気にしていたのか。休日に一人で外出することが増えたのか。その答えは、寝室で発見した栞に全て綴られていた。

彼女は最初から浮気なんてしていない。その事実が迫り来ると同時に、再び彼の頬を涙が流れた。後悔しても、いくら悔やんでも死んでしまった彼女が生き返ることはない。

自宅に一人残された彼は声にならない悲鳴を上げるが、誰にも聞かれることなく深夜の闇へと消えていった。


――翌日、幸彦の誕生日に合わせ注文をしていた花束を配送に来た男性の通報によって事件が発覚した。

妻である詩織は腹部に刺し傷があり、遺体の付近には十五本のバラの花束が置いてあったという。一方、旦那である幸彦は寝室のドアに寄りかかるようにして、首を吊り自殺していたという。

二人の葬儀は速やかに執り行われた。警察側は、『単なる夫婦喧嘩によるもの』と断定し、どうにも腑に落ちない形でこの事件は幕を閉じるのであった。

(了)

最後までお読み頂きありがとうございます。

作者の『知性植物』です。

今作はAI不使用で執筆しましたが、まだ自分には難易度が高かったです。


ところで皆さん。

今作に登場した『十五本のバラ』の花言葉はご存知ですか?

幸彦が妻の詩織に浮気を疑ったことへの謝罪で渡そうとした花束…。実はそのままの意味で、『謝罪』という意味を持っているそうです。

まぁ、最終的には本来の目的とは異なるような渡し方になってしまいましたけどね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ