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凡人枠シリーズ

悪役令嬢、横領の濡れ衣で断罪されましたが、その帳簿、足し算から間違っています ~前世が公認会計士なので王子派の粉飾を暴いたら、氷の財務卿に溺愛されました~

掲載日:2026/06/26

「アドリエンヌ・フォン・グランツ。金貨一万二千枚を横領した罪により、貴様との婚約を破棄する!」


卒業を祝う夜会の中央で、第二王子ランドルフが指を突きつけてきた。


シャンデリアの下、貴族たちが一斉にこちらを見る。


病に伏せた父に代わり、二年間、私が守ってきた領地会計。その帳簿を汚したうえ、家名まで奪うつもりらしい。


(証拠も開示せず、反論の機会も与えず、結論だけ先に宣告。監査手続としては、零点ね)


私は内心で、そっとため息をついた。


前世の私は、公認会計士だった。粉飾を暴く仕事に追われ、電卓を握ったまま、過労死した。


転生管理局の凡人枠担当・ツクヨに『断罪される悪役令嬢へ、生まれ直していただきます。数字の嘘を見抜けるあなたなら、筋書きを変えられるかもしれません』と告げられて、十六年。どうやら今夜が、その筋書きの日らしい。


チートはない。魔法も使えない。私の武器は、数字と帳簿だけ。


だが、侮らないでほしい。


複式簿記には、鉄の掟がある。何かが動けば、必ず二つの顔を帳簿に書く。『何が減ったか』と、『何が増えたか』。お金でいえば、『いくら出たか』と、『どこへ行ったか』だ。


つまり、横領犯は金を消すだけでは足りない。『どこへ行ったか』まで、嘘で埋めねばならない。その嘘の行き先こそ、いちばん大きな足跡になる。


複式簿記が五百年、嘘つきを捕まえてきたのは、剣が強いからではない。逃げ道を、一本残らず書かせるからだ。


前世のある文人は、これを『人間の精神が生んだ、最も美しい発明のひとつ』と讃えた。大げさだと思っていた。けれど――今夜は、同意してもいい。


「殿下。断罪の前に、一つだけ」


私は扇を開いて、優雅に微笑んだ。


「私が横領したという証拠を、見せていただけます?」


王子の背後で、恰幅のいい高位貴族が小さく頷いた。モーリス侯爵。王子派の重鎮で、財務に深く食い込む男だ。


(あの方ね。半年前から、私の領地会計に妙な横槍を入れてきたのは)


そして、会場の隅。もう一人、私を見ている男がいた。


銀の髪。氷のように整った美貌。財務卿、ヴァイス公爵テオドール。


半年前から、私の領地会計には監査が入っていた。その指揮を執っていたのが、彼だ。


照会状は、容赦なく細かかった。けれど――私の数字を、女の手すさびではなく、一人前の仕事として読んでくれたのも、後にも先にも彼だけだった。


(もっとも、その照会状ときたら、数字の並びから書式の隅まで直してくる。世辞のひとつもない。恋文より、よほど熱がこもっていた)


その視線を、私は静かに受け止めた。


「承知しました、殿下」


私は、差し出された帳簿を受け取る。


「では婚約を破棄される前に。一万二千枚が、本当は誰の懐へ入ったのか――監査させていただきます」


(監査人の第一の心得は、性悪説。『たぶん大丈夫』を、世界でいちばん疑うのが仕事だ。今夜は、よく効きそうである)


◇◇◇


王子の隣で、男爵令嬢ミレーユが進み出た。


涙で潤んだ瞳。震える肩。か弱い聖女のような立ち姿。


「これは、アドリエンヌ様が管理されていた領地の帳簿です……。金貨にして、一万二千枚もの公金が、消えているのです……!」


老いた伯爵が、片眼鏡を外してこちらを見た。


(この子、泣くのが上手いこと。営業の才能があるわ)


「殿下。まず、一頁目から。よろしいですか」


(帳簿の祖先は、徴税や物資の管理の記録だという。誰が何を納め、何を受け取ったか、一文字残らず書きつける。数字は、文字より――王より先に、人を見張ってきた)


私は帳簿の数字を、指でなぞった。


「第三四半期の支出合計。記載は、金貨2,840枚ですね」


「それがどうした」


「では、項目を足してみましょう。宮殿修繕費が780枚、厩舎費が640枚、備品費が1,090枚」


私は指を、一行ずつ下げていく。


「合計、2,510枚。あら。合計欄の2,840枚と、330枚も合いません」


会場の空気が、すっと張りつめた。


「これを会計では『合計の不整合』と申します。足し算が、合っていないんです」


私は顔を上げた。


「殿下。横領犯がわざわざ、自分の帳簿の足し算を間違えると思います?」


「そ……それは、貴様がごまかすために――」


「ごまかすなら、合計こそ綺麗に合わせますよ。普通は」


(嘘をつくのは、構いません。けれど殿下、嘘にも品質管理は要るのです。王子派の偽造担当は、見直しをサボる悪い癖がおありのようで)


くすり、と若い令嬢が笑った。王子の頬が、赤くなる。


(もっとも、これはまだ“疑い”。慌て者の犯人もいる。それに、この330枚は合計欄だけの誤算で、実際の出金は伴わない。横領額には、数えない。ただ、急ごしらえの帳簿だという傍証には、十分すぎる)


「次の頁。慈善寄付、500枚。寄付先は『聖マルグリット孤児院』とあります」


私は頁をめくった。


「殿下。この孤児院、どちらにございます?」


「し……知るか! 貴様が寄付したのだろう!」


「ええ、帳簿の上では。でも、私はこの孤児院を存じません」


私は扇で、口元を隠した。


「なぜなら――聖マルグリット孤児院は、三年前の大火で焼け落ち、もう存在しないからです」


王子派の若い貴族が、そっとモーリス侯爵から半歩、距離を取った。


「存在しない孤児院に、500枚を寄付したことにする。これを『架空計上』と申します。実在しない相手へ金を流し、横から受け取る。横領隠しの、初歩なんですけど」


(しかも、研修の初日に教わる手口だ。よりによって、それで公爵令嬢を嵌めようとは。ずいぶんと、舐められたものである)


「で、では、その金はどこへ……!」


王子が、思わず口走った。


(自分の派閥が盗んだ金の行方を、断罪する側が私に尋ねる。墓穴を掘る才能だけは、本物でいらっしゃる)


「いい質問です、殿下。そこなんです」


私は、寄付欄の隅を指した。


「受領印があります。『聖マルグリット孤児院・慈善管理人』の印。焼け落ちた孤児院に、管理人だけは実在するんですね。お名前は――ロベール・カラン」


私は、顔を上げた。


「モーリス侯爵家お抱えの、商会の番頭さんです」


侯爵の、杯を持つ手が、止まった。


(ほら。お金は消えていない。番頭さんのお財布へ、きっちり“ご出勤”なさっていた。複式簿記は親切だ。嘘の行き先まで、勝手に書き残してくれる)


「次は、街道整備費を見ましょう」


私は、頁を繰る。


「霜月二十日、街道整備の前払金、900枚。この工事の請負代金は、しめて900枚。前払いで、もう全額が支払われています」


もう一枚、めくる。


「ところが師走三日、同じ工事の『完成払い』として、さらに900枚」


私は、指を二本立てた。


「殿下。請負代金は、前払いで払い終えています。完成時の残額は、本来ゼロのはず。なのに、もう一度まるごと900枚が出ている」


「だから何だと言うのだ!」


「これを『二重払い』と申します。同じ工事に、900枚が二回。帳簿の上では、1,800枚が出ていったことに」


私は、声を落とした。


「しかも――この二件には、同じ番号を振った支払証書が、二通あるんです」


会場が、しんとなった。


「同じ番号の証書を二通こしらえ、別々の支店で二度換金した。二度目の900枚を受け取ったのは……ロベール・カラン。あの番頭です」


私は、ぱたんと帳簿を閉じた。


「殿下。お気づきですか。この帳簿、『私が横領した証拠』ではありません」


一拍、置く。


「『誰かが横領して、その罪を私に着せるために、慌てて作った偽の帳簿』なんです」


「証拠はあるのか! 口先だけだろう!」


王子が吠えた。


「ありますとも。決裁印です」


私は最後の頁を開いて、王子に見せた。


「領地予算の決裁には、グランツ家の家紋印が要ります。獅子と天秤。でも、ここに押された印影は――本物と、左右が逆なんです」


私は印影を、指で示した。


「本物は、獅子が左、天秤が右。けれどこの印影は、獅子が右、天秤が左。――本物の印に触れられない誰かが、紙に残った印影を手本に、その見たままを彫ったんです。けれど印は、押せば必ず左右が反転する。だから、見たまま彫った偽印は、本物と逆向きになる。急ごしらえの、証です」


ランドルフの指が、近くの帳簿の端を、ぎりっと握り潰した。


「私の家の印を間近で見たことはなく、でも私の予算には触れられる立場の人。心当たり、ございませんか?」


私は、まだ聖女の顔を保つミレーユを、ちらりとも見なかった。


「では、改ざんの全体を、数字で並べましょう」


私は侍従に頼み、白紙を一枚もらった。項目を書き出していく。


(前世なら、これを不正明細表と呼ぶ。ばらばらの異常値も、一枚に並べれば、嘘のほうから勝手に整列する。複式簿記では、どんな取引も借方(かりかた)貸方(かしかた)に同じ額が立ち、左と右が必ず釣り合う。だから嘘をつく者は、その釣り合いを取るために、ありもしない相手科目をこしらえる。その作り物こそ、こうして表に並ぶ)


「はっきりしているものから。架空の慈善寄付が、500枚。街道工事の、二重払いが900枚」


私は、指を二本立てた。


「残るは二口。衛兵給与の水増しと、まるごと存在しない『臨時衛兵の増員費』。本来620枚のはずの衛兵給与が、見過ごせないほど水増しされています」


私は、その水増しされた額を、あえて読み上げなかった。帳簿を、ぱたんと閉じる。


「この二口の正確な額は、伏せておきましょう。書いた本人なら、帳簿を見ずとも、すらすら言える数字ですから」


私は、顔を上げた。


「四つを足せば――殿下が私になすった『一万二千枚』に、一枚たがわず届きます」


「……それの、何がいけない」


「いけなくはありません。ただ、不自然なんです。本物の横領は、もっと薄汚れて、半端な数字になる。隠そうとしますから」


私は、王子を見据えた。


「不正な数字は、自然な顔をしていないんです。きれいに桁の揃った数字ほど、人の手が入っている。――神様は、こんなに几帳面じゃありませんよ、殿下」


私は、続ける。


「でもこの帳簿は、きっちり一万二千枚に揃っている。まるで、『一万二千枚を横領した』という結論を先に決めて、その額に逆算で合わせたように」


私は、扇を畳んだ。


「念のため申し添えます。これだけで、私の無実が証明されたとは申しません。ですが――この帳簿が正規のものでない疑いは、十分に生じました。違いますか」


◇◇◇


「で……でたらめですわっ!」


声を上げたのは、ミレーユだった。涙は、まだ瞳に湛えられている。


「わたくし、見たんですっ。アドリエンヌ様が、夜中に帳簿を書き換えているのを……!」


完璧な聖女の顔。けれど、私は冷静だった。


(来た。さあ、口を滑らせて)


「ミレーユ様。では、一つだけ確かめさせてください」


私は、帳簿を閉じたまま、わざと、低く見積もった数字を口にした。


「衛兵給与の欄。本来620枚のところ……ざっと五千枚ほどに、膨らんでいるでしょうか」


「いいえ、6,200枚ですわ! それだけの公金を、あの女が盗んだんです!」


ミレーユの声が、会場に響いた。


――しん、と静まり返る。


私は、ゆっくりと帳簿を持ち上げた。閉じたまま。


「ありがとうございます。けれど――おかしいですね」


私は、帳簿から手を離した。


「私はいま、『五千枚ほど』としか申していません。正しい額は、まだ一度も口にしていない。なのにあなたは、閉じた帳簿を見もせずに、『6,200枚』と言い当てた」


一拍、置く。


「この偽帳簿の細部を諳んじていられるのは、書いた本人だけ。帳簿を受け取って告発しただけのお方には、できない芸当です」


ミレーユの肩が、びくりと跳ねた。


「もっとも、今の一言だけで、あなたを犯人と断定するつもりはありません。監査人は、心証ではなく、証拠で語りますので」


そう言って、私はテオドールを見た。彼は、ひとつ頷く。


「告発状とともに証拠の帳簿が提出された時点で、私は不審に思っていた。だからその写しを取り、筆跡鑑定を文書院へ依頼し、換金台帳も監査資料として、王城へ取り寄せてある」


彼は、一枚の書面を掲げた。


「改ざん部分の筆跡は、ミレーユ嬢が自ら提出した告発状と一致している。王立文書院の、鑑定済みだ」


テオドールは、もう一枚を重ねた。


「さらに帳簿庫の記録。三日前、ミレーユ嬢はランドルフ殿下の許可状を使い、原本を持ち出している」


聖女の仮面に、ぴしりとヒビが入った。


「数字を事前に知っていた。原本に触れていた。筆跡が一致する。――三つ揃えば、もう、言い逃れはできません」


◇◇◇


「言いがかりだ! その鑑定書も、帳簿庫の記録も、後からいくらでも偽造できる!」


ついに、モーリス侯爵が進み出た。


「どれもこれも、貴様らが結託して用意した、偽物だろう!」


(往生際が悪いのは、そちらもね。でも、そう来ると思った)


「では、こちらの出したものは、すべて疑っていただいて結構です」


私は、にっこりと笑った。


「私のものでも、あなたのものでもない、第三者の記録で答え合わせをしましょう。財務卿」


私は、テオドールを見た。


「帳簿は偽造できても、支払証書を“誰が換金したか”までは、消せません。王立両替商会の換金台帳と突き合わせれば、金が最後に誰の手へ渡ったか、そこに残っています」


テオドールの口の端が、わずかに上がった。


「いい着眼だ。独立した、外部の証憑と突き合わせる」


だが彼は、侍従を呼ばなかった。すでに手元の資料の中から、一冊を引き抜いている。


「言ったはずだ。換金台帳は、監査資料として取り寄せてある」


息の合った返しに、私は思わず口の端を上げた。


王立両替商会の、換金台帳。テオドールが、自ら照合する。長い指が、一行ずつをなぞっていく。


(帳簿と、お金が実際に動いた記録を、一行ずつ突き合わせる。前世では『証憑突合』と呼んだ。証憑とは、取引の裏づけになる証拠書類のこと。地味で、退屈で、そして――嘘が、いちばん嫌がる作業だ)


「……一致する」


彼は、静かに告げた。


「焼失した孤児院への寄付、500枚。二度目の街道払い、900枚。架空の臨時増員費、5,020枚。――そして、衛兵給与として換金された、6,200枚」


テオドールの指が、最後の行で止まった。


「この6,200枚のうち、正規の620枚は衛兵長へ渡っている。水増しされた残り5,580枚は、ロベール・カランを受取代理人とする商会の口座へ流れた」


彼は、私を見た。


「正規の620を除けば、横領は――500、900、5,020、そして5,580。締めて、ちょうど一万二千枚。殿下がグランツ嬢に着せた額と、一枚たがわず一致する」


彼は、もう一束を持ち上げた。


「肝心なのは、ここからだ。この金はもともと、王家がグランツ領へ交付した公費。その換金委任状に捺してあるのは――グランツ家の偽印ではない。公費を監督するモーリス侯爵の、財務監督官としての本物の官印だ」


会場が、どよめいた。


「侯爵は監督官の権限で公費を抜き、横領の名義だけを、偽帳簿の偽印でグランツ嬢へ付け替えた。だから両替商会は、本物の官印どおりに、金を払ったわけだ」


彼は顔を上げ、会場に響く声で言った。


「結論を述べる。グランツ嬢は、横領していない。金を受け取った実行役は、番頭ロベール・カラン。偽帳簿を書いたのは、筆跡の一致したミレーユ嬢。委任状に監督官の官印を捺し、すべてを差配したのは――モーリス侯爵だ」


視線が、ミレーユとモーリス侯爵に向く。


「実行役、偽造担当、そして首謀者。三人がかりの、よく出来た筋書きでした」


(皮肉なものだ。お金を触る者、帳簿をつける者、決裁する者を、一人に兼ねさせない――それが、不正を防ぐ知恵。彼らは三人で手分けして、その知恵を逆手に取った。けれど、人が増えれば口も増える。共謀は、いつも内側から綻ぶ)


「ま、待ってくれ!」


ランドルフが、急に態度を変えた。


「私は、私はミレーユに騙されていたんだ! 全部こいつが仕組んだことで――」


「殿下っ! ひどい!」


ミレーユが、王子をにらんだ。


「あなただって、分け前を受け取ったじゃない! あの離宮の改修費、ぜんぶ番頭から流れたお金でしょう!」


「だ、黙れ! 黙れ黙れ!」


(見事な連携。この三人、足並みが揃うのは、仲間割れのときだけらしい)


それまで王子を担いでいた貴族たちの目が、潮が引くように、冷えていった。


衛兵が、ミレーユとモーリス侯爵を取り囲む。


侯爵が出口へ逃げかけて、テオドールの部下に、あっさりと取り押さえられた。


ミレーユが、最後に私をにらむ。


「……っ、あなたみたいな、可愛げのない女……!」


私は、扇を閉じた。ぱちん、と小気味よい音が鳴る。


「ええ。可愛げはありません。でも、数字には誠実です」


数字は、逃げる者の背中まで、きっちり追いかける。彼女の涙も、聖女の微笑みも、もう誰の心も動かさない。動かせたのは、自分を信じた愚かな王子の心だけだった。


「お……おのれ……! 衛兵、この女を捕らえよ! 不敬だ!」


ランドルフが喚いた。だが、衛兵は動かない。


代わりに動いたのは、テオドールだった。彼は、私の前に、すっと立つ。背中で、庇うように。


そして、私だけに聞こえる声で、低く言った。


「ここから先は、君一人の証明責任ではない。財務卿である私が、引き受ける」


不意打ちだった。


「君はもう、一人で帳尻を合わせなくていい」


断罪の修羅場のただ中で、その一言だけが、ふわりと温かかった。私の鼓動が、ひとつ跳ねる。


(ずるい。こういう時に、それは)


テオドールは、ランドルフに向き直った。


「財務卿として命じる。この場の財務記録を、すべて押収せよ。偽造帳簿も、換金台帳も、一つ残らずだ」


そして、王子を冷ややかに一瞥した。


「殿下。私が仕えるのは王家であって、王家を食い物にする横領犯では、ありません」


ぴしゃり、とした一言に、ランドルフはもう、何も返せなかった。


◇◇◇


数日後。王城の一室で、私はテオドールと、山のような帳簿を挟んでいた。


「ロベール・カランは、あの夜のうちに商会で捕らえた。ミレーユ、モーリス侯爵、ロベールの三人は、横領と文書偽造の共犯として裁かれる」


テオドールが、一枚の処分状を置いた。


「ランドルフ殿下は、王族として別に裁かれる。原本の持ち出しを許した責任と、離宮の改修費として番頭の金を受け取っていた事実を問われ――王位継承権を剥奪。離宮と私財を弁済に充てたうえで、地方へ送られることになった」


「自滅、ですね」


私は微笑んだ。


「誰も陥れていません。彼らが隠した数字が、彼らを裁いただけです」


流血も、リンチもない。ただ、隠した金が、本人たちを連れていった。理不尽な断罪は、借方と貸方が一致するように、きれいに帳尻が合った。


「……それで」


私は、机の隅の一冊を引き寄せた。王領南部の、昨年度の決算書。


(決算書には、二枚看板がある。いま何を持ち、何を負っているかを写した一枚と、一年でいくら儲けたかを綴った一枚。写真と、日記だ。南部のそれは――日記のほうに、念入りな作り話が書いてあった)


「閣下。本当の問題は、12,000枚では、ないんです」


テオドールの目が、すっと細くなった。


「南部の決算、昨年度は黒字。利益は、20,000枚と記載されています。でも――おかしいんです」


私は、一枚の伝票を抜いた。


「南部は鉱山開発のために、商人組合から35,000枚を借りています。その35,000枚が、決算書では『鉱石の売上』として計上されているんです」


「……借りた金を、売上に化けさせたのか」


「はい。借金は、いつか返すお金。売上には、なりません。この偽の売上を取り除けば、20,000枚の黒字は、15,000枚の赤字に変わる。しかも、返済義務だけは、まるごと残ります」


「こういう化粧を、粉飾と申します。面白い言葉でしょう。帳簿に、おしろいを塗って、実態より美しく見せること。けれど、化粧はいつか落ちる。塗った下の素顔は、変わりません」


「たとえるなら――体重計に乗る前に、背負った荷物を下ろすようなもの。数字は軽くなります。でも、荷物そのものは、消えていません」


「それに、妙なんです。ふつう嘘つきは、税を逃れるために儲けを“隠し”ます。脱税です。なのに南部は、その逆。儲けてもいないのに、儲けたふりをして、余分な税まで納めている」


「……なぜ、そんな真似を」


「黒字に見せれば、国庫からもっと予算を引き出せる。引き出した予算で、また穴を埋める。ひとつの嘘を守るために、十の嘘と、余分な税を、重ねたんです」


(前世では、似た粉飾に、名前までついていた。売上を水増しするために組む『循環取引』。損失を外へ逃がして隠す『飛ばし』。大層な名前がつくほど、ありふれているということだ)


テオドールが、低く呻いた。握っていた書類が、手から、はらりと落ちる。


クールな財務卿が、一歩、こちらへ踏み出していた。


「半年前から、国庫の数字に違和感を覚えていらしたのでは?」


「……ああ」


彼は、私を見つめた。


「南部の数字には、説明のつかない歪みがあった。粉飾の臭いは、していた。だが、それを衆目の前で論証する手立てが、私にはなかった」


その瞳に、もう警戒の色はない。代わりにあるのは、純粋な、感嘆だった。


「君は、紙とインクと、数字だけで、ここまで読むのか」


「数字は、嘘をつきません」


私は微笑んだ。


「嘘をつくのは、いつも人間のほうです」


彼は、しばらく黙ってから、言った。


「南部の粉飾、私と一緒に、最後まで暴いてくれないか。証憑を一つずつ集めて、動かぬ形にしたい」


「監査のお誘い、ということですか」


「ああ。――三か月、もらえるか」


◇◇◇


その三か月は、忙しく、そして、不思議と心地よかった。


換金台帳を取り寄せ、商人組合の証書を照合し、隠された返済の流れを、一本ずつ手繰る。机を挟んで、夜更けまで数字を追う。


「ここの利息、計上が一年ぶんずれている」


「さすが。よくお気づきで」


「君に鍛えられた」


テオドールは、ときどき、そんなことを真顔で言う。心臓に、悪い人だ。


「ひとつ、教えてくれ。なぜ借方が左で、貸方が右なのだ」


ある時、彼が大真面目に尋ねた。


「……由来には諸説あります。けれど今となっては、理屈抜きで覚えるしかない決まりです」


「君でも、答えに困ることがあるのだな」


「ええ。簿記を学ぶ者が、最初に必ずつまずく、世界の理不尽です」


彼は、声をあげて笑った。理不尽を前に笑える人とは、案外、長く一緒にいられるのかもしれない。


「利益は出ているのに、なぜ国庫は空に近いのだ」


ある夜、彼がそう首をかしげた。


「利益は、意見です。現金は、事実なんです。帳簿はいくらでも夢を見ますが、金庫だけは、嘘をつけません。――前世には『勘定合って銭足らず』という、戒めの言葉まであったほどで」


テオドールは、しばらく黙ってから、ふっと笑った。


「……君は、ときどき、ぞっとするほど良いことを言う」


「ひとつ、訊いていいか。君の考える、良い税とは」


財務卿らしい問いだった。


「公平で、明確で、納める者に手間がかからず、取り立てに金がかからないこと。前世のある学者が、四つ挙げていました」


「……四つとも満たす税など、あるのか」


「ありません。だから閣下のお仕事は、未来永劫、なくならないのです」


彼は、声を立てずに笑った。


夜半をまわると、彼は決まって、私の前から帳簿を取り上げた。


「続きは明日だ。君は一人にすると、休むことまで忘れる」


前世では、誰も止めてくれなかった。倒れるまで働いて、電卓を握ったまま死んだ。


今は、隣に、止めてくれる人がいる。その手の温かさに、私は前世の自分を、少しだけ赦せた気がした。


南部の粉飾が、動かぬ証拠とともに白日の下に出た日。すべての監査が、終わった日。


彼は、改まって私に向き直った。


「グランツ嬢。一つ、提案がある」


「なんでしょう」


「この国の財務を、私と一緒に立て直してほしい。君がいなければ、この国の国庫は、本気で破綻する」


「それは……財務官としての、勧誘ですか」


「半分は」


テオドールが、私の手を取った。


クールな彼の指先が、ほんの少し、震えていた。


「もう半分は――私の、個人的な望みだ」


彼は、視線をそらさなかった。


「監査が終わるまでは、言うまいと決めていた。監査対象に懸想する財務卿など、利益相反も甚だしいからな」


その生真面目さが、おかしくて、愛おしかった。


「帳簿を読む君の横顔に、見惚れている。こんな日が来るとは、思わなかった」


彼は、私の手を、もう一度握り直した。


「アドリエンヌ。財務官として、ではない。――私の妻として、生涯、隣にいてほしい」


不意打ちの直球に、扇を持つ手が、思わず止まる。


私は、扇の陰で、ひとつ息をついた。鼓動を、整えるために。


私は、彼の手を、握り返した。


「そのご提案。監査意見は――『適正』です」


テオドールが、わずかに目を見開く。


「謹んでお受けします。ただし、条件が一つ。妻としてだけでなく、監査人としても、対等なパートナーであること」


「無論だ」


彼は、はじめて声を出して笑った。氷の、すっかり溶けた顔で。


「私も、ちょうど一生ぶん、君と話したいことがある」


私の手を取る彼の指は、もう、震えていなかった。


婚約してから、彼には妙な癖がついた。私の執務予定に、勝手に休養日を書き込むのだ。


「妻を過労死させる財務卿になど、なるつもりはない」


真顔でそう言われては、さすがの私も、反論できない。


濡れ衣は、晴れた。婚約は、こちらから願い下げ。そして私は、数字の話が一生続く相手を、手に入れた。


聞くところによれば、謹慎中のランドルフ殿下には、罰として簿記の課題が課されたという。今ごろ、借方と貸方に、泣かされているころだろう。


少しは、優しい気持ちで眺めてあげようと思う。――ほんの、少しは。


そういえば、と思い出す。


転生のあの日。ずれたとんがり帽子に、星柄のマント、目の下の濃いクマ。ツクヨは、にやりと笑って言った。「筋書きは、変わるかもしれませんよ」と。


変わった。婚約破棄の筋書きは、横領犯の断罪に。破滅の筋書きは、最高の伴侶に。


あの過労気味の青年は、今ごろまた別の凡人枠を、どこかの戦場へ送り出しているのだろう。お互い、地道な仕事だ。


(ツクヨさん。あの配属、大正解でしたよ)


私は、そっと胸の内で礼を言った。


この国にはまだ、つつき甲斐のある不正が、いくらでも眠っている。粉飾の臭いは、どこからでも嗅ぎつけられる。


最高の監査パートナーが、隣にいる。それ以上、私に望むものは、何もなかった。


(さて。今日も、帳簿を開きましょうか)


(了)

お読みいただき、ありがとうございました。


「前世の地味な専門知識で、異世界の理不尽をひっくり返す」――そんなお話を書いています。数字でざまぁ、楽しんでいただけましたでしょうか。感想などをいただけると、次を書く励みになります。


そして、本作は推敲にあたって、ある方から、とても丁寧で的確なご助言をいただきました。おかげで、会計の筋も、恋の筋も、見違えるほど良くなりました。この場を借りて、心より御礼申し上げます。本当に、ありがとうございました。


▼同じ「断罪を、プロの仕事でひっくり返す」お話もどうぞ

・『悪役令嬢、断罪されたので謝罪します』(前世=百貨店クレーム対応部長)

・『悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します』(前世=弁護士)

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途中から弁護士に化けてない?
「数字は嘘をつかないが人は数字で嘘をつく」って事だったなあ 示されたデータと判断結果が正しいかきちんと見るのは難しいよねえ
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