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夢の中というものは、たとえ他人が見る夢の中だとしても腹が減ることはない。その事実に気づいたのは、みよちゃんの夢世界に迷い込んでからかなり経ったときだった。「かなり」と表現したのにはわけがある。これはみよちゃんの夢だけに特有の現象なのか、あるいは夢というものすべてに言えることなのかわからないが、どこにある時計を見ても、時刻がよくわからない、平たく言えばめちゃくちゃだということだ。だからさっきの女子高校生が「一時間もさまよっていた」と認識していたことや、入試に遅刻することを恐れていたことが、逆に驚異的ですらあった。きちんと時刻を把握していたのだ。それにひきかえ、ぼくはと言えば対照的であった。ぼくはもう、何時間みよちゃんの夢の中をふらふらとしていたのか、まったくもって知覚不能なのであった。
知覚と言えば例えば、感覚のうちの一つ、味覚などは他人の夢の中という場において、食べ物の味をどんなふうに感じるのか、興味のあるところではあった。なんとなく空腹感が襲ってきていたこともある。どこかに食事処がないかな、そう思考した途端に目の前に現れた飲食店の中に、ふらり足は吸い込まれてゆく。
そこはハンバーガーショップだった。幸い、ポケットを探ると小銭入れがあった。セット商品を買うのに充分な金額があるのを確かめて、ぼくはレジに向かった。
「あっ」
「どうされましたか」とはレジ係の女性は言わなかった。ただ、次の瞬間、ぼくは訊いていた。
「あなたはさっきの、」
「……? どこかでお会いしました?」
さっきの女子高校生がレジで接客していたのである。
「試験は、大学入試はどうしたんです」
「……? 試験?」
「いや、他人の空似かもしれない。さっきあなたにそっくりな女の子と出会ったばかりだったんですよ。……コッテリバーガーセットを一つ、ドリンクはホットココアで」
夢の世界に特有な現象とも言える出来事だ。この女性はもしかしたら、この夢世界の鍵を握る存在かもしれない。ぼくは作りたてのコッテリバーガーセットを載せたトレイを持って、二階の席まで上がると、窓から見下ろす形の街を眺めた。
するといつの間にやら街には人があふれていた。夢とは思えないリアルな服装の老若男女が、どこへ向かおうとしているのか誰も彼も小忙しい足取りで、上空を見上げることもなく黙々と舗道を行き交う。ぼくもそんな人たちの一個人なのかと思うと、いよいよみよちゃんの夢が七歳とは思えない想像力に裏打ちされた大きさと広がりを持つことに、驚きおののくのだった。
「みよちゃん、どこにいるんだい。お兄ちゃんを夢の外へ出してくれないか」
周囲にいる客の視線に引け目を感じつつ言った。ここは夢だ。何を恐れる必要もないというのに常識から抜け出せない自分がちょっと、情けなかった。
「夢なら空も飛べるかも」
不意に危険な発想が湧いた。夢とは言え、そんなことをすれば無事では済まないだろう。にもかかわらず、ぼくの足はハンバーガーショップのさらなる上階へ向けて階段を駆け上がっていた。
階段は延々と続いていた。十メートル、二十メートル……、百メートル、二百メートル……、もういい加減にのぼるのをやめようと思ったとき、目の前に青空が開けたのだった。
「青空予備校へようこそ」
「あなたは」
「青空予備校の塾長をやっております田中である」
突如目の前に現れた田中塾長は丁寧でありながら尊大な口調であった。
「これから青空予備校への入学テストを行う。ついてこい」
言って田中塾長は空へ舞い上がった。ここはみよちゃんの夢だ。空を飛ぶなんてのもごく自然なことなのだろう。ぼくもふわりと塾長のあとに続いて空を飛ぶ。
「さて第一問。空に浮かぶ雲は何でできている。一、綿アメ。二、水。三、布団。さあ、どれだ」
まるでみよちゃんが出題しているような問題だった。ぼくは思わずにやりとして、みよちゃんが度々口にしていた答えを言う。
「一の綿アメだろう。田中塾長、正解ですね?」
「よくわかったな、でかしたぞ。では第二問。これでおしまいだからしっかり考えるんだぞ。いいな」
「はい。わかりました塾長。ではいつでもどうぞ」
「よし、いい返事だ。ではゆくぞ、覚悟はよいな。第二問はスペシャル問題だ。みよちゃんの好きなケーキは何味でしょう」
「大きなイチゴののっかっているショートケーキ!」
「大正解。これできみは晴れて青空予備校の生徒だ。一年間頑張れよ。ところで第一志望はどこの大学だ」
「Q大学です」
「なるほどな。あそこには夢研究の権威がおるでな、あやつに会ってこの夢世界を脱しようという魂胆だな。それもまたよし、頑張りたまえ」
青空予備校にはぽかりぽかりと浮かぶ雲と一面の青い空のほか何もなかった。
「どこに教室があるんだろう」
「こっちよ、新入りさん」
視界の先に扉が浮かんでいた。ぼくはそこまでふわふわと頼りなげに飛んでゆく。みよちゃんの夢に入り込んでからどれくらいの時間が経ったのか、まるでわからないが、あの女子高校生は無事に入試を受けられたのか、そしてそれはよい知らせを彼女にもたらすのかとか考えだすと、案外結果は良好で、いいことなら早く起きてもよさそうだなと思い、
「ではもう新入学の季節かな」
と、適当な時間感覚を抱いて教室の入り口をくぐるのであった。その教室には二、三人の生徒がいるのみで、その一人に見覚えがあった。先ほどの女子高校生が今度は私服で机に座っていたのである。
「きみ、試験は」
「落ちたんです」
青空予備校の講義を受けはじめて何度目かのよく晴れた日、彼女の手帳を目にすることがあったぼくはさらに驚いた。その名前は他の誰でもない、みよちゃんの名前だったのだ。
「きみはみよちゃんかい」
「えへへ、バレちゃいました?」
「でも何日か前は高校生だった。今は予備校生」
「わたし、今、夢の中で未来を見ているの。憧れの人と初めての出会いをする夢」
「ぼくが、お兄ちゃんがみよちゃんの憧れの人かい」
「わたしまだ、好きな人がいないから、お兄ちゃんは代わりなの。将来の旦那さんの身代わりね。でもいつか本当の旦那さんと出会うの。それがわたしの十八歳のころなの。だからこれはわたしの予知夢ね。目覚めたときには忘れちゃってるかもしれないな」
夢の中でもみよちゃんは実際よりも何歳か年上の子どものような受け答えをした。ぼくは肝心なところが訊きたくて、次のようなことを言った。
「ここはみよちゃんの夢の中だろう。じつはお兄ちゃん、みよちゃんの鼻の穴からみよちゃんの頭の中に飛びこんで、この世界にやってきたんだ。だからぼくはこの世界にとっての異物・余計なものなんだ。きっとその異物であるところのぼくがやってきたことで、みよちゃんは本当の未来の旦那さんと出会えずにいると思うんだ。だからこのぼくを、お兄ちゃんのことを夢の外に出してくれないかい。夢の出口を作りだしてくれないかい」
「ふーん、ちょっと難しい理屈ね。いいわ、お兄ちゃんがここから出れば、わたしは将来の旦那さんに会えるのね」
「そういうことだと思う」
「この教室の外へ出てみて。そこはもう、夢の外よ」
「本当? ありがとう、みよちゃん」
ぼくは席を立つと、青空予備校の教室から出る扉を開けた。そこにはぼくの部屋……寝室兼書斎があって、その机にうつぶせの格好でぼくが眠っていた。
「あれがぼくの肉体というわけだな。すると今のぼくは幽体離脱していたというわけか」
ぼくは恐る恐る片方ずつ、ぼくの肉体に足を突っ込んだ。するとあら不思議。幽体のぼくはするりと肉体に吸い込まれたのである。




