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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
7/10

第7話 君と出会ってしまったから

「今夜は、たまには外に飲みに行かない?」

りかこが、そんなことを言い出したのは、夕食のあとだった。


りかこは、あおいと同じ短大の同級生で、付属の中学から一緒らしい。

しおりやあおいと違って、彼女はサバサバとした男っぽい性格で、何かと周囲を和ませるムードメーカーになっていた。


確かに、明日は教習所そのものが休業日で、丸一日、講習はない。

異論はなかった。

それに正直、大部屋での飲み会にも少し飽き始めていた。

気分も、少しだけ変えたかった。


「お、アニキ、どっか行くんすか?」


と、あの三人組のヤンキーたちが、人懐っこい笑顔で訊いてきた。

この頃になると、彼らは僕以外とも少しずつ馴れはじめ、最低限の言葉をかわすようになっていた。

“敵ではない”ことを、ようやく理解してくれたのだろう。


三人は、背の高さがそれぞれ高い・中くらい・低いで、まるでよくできたドラマのキャラ設定みたいだった。

僕たちはこっそり「大ヤン」「中ヤン」「小ヤン」と呼んでいた。


「飲みに行くけど、一緒に行く?」


トオルが彼らに声をかけた。

トオルは、第一印象どおり、気のいい男だった。僕と同い年とは思えないほどによく気が利き、誰とでもすっと距離を詰められる。

でも、さすがにそこまで心は許していないのか、それとも単に照れくさかったのか、三人は「いや、自分らはええっすわ」と頭を掻いて残った。


駅前まで出れば、何か良さげな店が見つかるだろうということで、僕たちはぞろぞろと歩き出した。

僕は自分のポジションをどこに置けばいいのかわからず、自然と最後尾にまわっていた。


しおりは、トオルと楽しそうに歩いていた。

僕は、少しホッとした。

なぜか、そういう時に限って、しおりの笑顔がいちばん自然に見える。


「いい店あるかなあ?」


明るい声であおいが寄ってきて、それが当然といった様子で僕の腕に絡んできた。

そのまま僕たちは二人で歩き、集団から少しだけ遅れながら後をついていった。


駅前をウロウロしていると、ちょうど僕たちくらいの年齢の客層が入りそうな、カフェバーが目に入った。

僕達はほとんどが未成年だったんだけれど。

バドワイザーの赤いネオンサイン、パームツリーのフェイクグリーン、ガラス越しに見えるダウンライトの陰影。

どこか、わたせせいぞうの漫画に出てくる店に似ていた。


煙草の煙で白く燻った店内に入ると、みんなワイワイとテーブル席に陣取り、思い思いにカクテルやビール、ポテトや唐揚げ、ピザなんかを注文していた。

乾杯のグラスが軽くぶつかり合うと、もうそれぞれが自分の話し相手に夢中になっていった。


僕とあおいは、少し離れたカウンター席に腰を下ろした。

あおいはシンガポールスリング、僕はダイキリを頼み、テーブルから回ってきたピザを一切れずつ分け合った。

ときどき、あおいがピザを僕の口元に運び、僕はそのたびに少し笑って受け取った。

僕が煙草を咥えると、あおいが火をつけてくれた。

笑い合いながら時々キスをした

まるで10年来のカップルのようだった。


2杯目に頼んだキューバ・リブレを半分飲んだ頃、少し酔いがまわりはじめていた。

そのとき、誰かが僕のシャツの裾をそっと引っ張った気がした。


振り返ると、しおりが立っていた。

怒ったような、泣きそうな、悲しいような――そんな複雑な表情で、僕をじっと見つめていた。


僕にぴったりとくっついていたあおいは、少しバツが悪そうに体を離し、「ソルティドッグください」と言ってグラスに視線を移した。


「どうして?」


しおりは、あの声で言った。


「ん?」


僕は聞き返すふりをして、そっと彼女の目を覗き込んだ。


「どうしてそんなことするの?」


その声は、あの透明感のあるミルキーボイスのまま、今にも壊れそうなかすかな震えをはらんでいた。

低く、ささやくようでいて、それでも胸の奥に真っ直ぐ届く──

まるで過去のどこかで、同じ声を聞いたことがあるかのような錯覚。

それはもう、泣き声の手前だった。


「ごめん!……ちょっとごめん」


僕はあおいにそう言い残すと、スツールから降り、しおりの肩に手を添えた。


「出よう」


とだけ言って、店の扉を押した。


店を出てから、しおりは何も喋らなかった。

怒っているのか、悲しんでいるのか、泣いているのか――わからなかった。


「大阪の彼氏は……」


沈黙を破ったのは、しおりだった。


「帰ったらどうしたいか、今はわからない」


少し唇をかんで、でもきちんと前を向いたまま、彼女は続けた。


「だって……」


「だって?」


「君と出会ってしまったから」


その言葉を包んでいたのは、あの声だった。

ほんのり鼻にかかった、少しハスキーで、甘さと透明感が同居する、しおりだけのミルキーボイス。


「いい加減で、自分でも嫌だけど、どうしたらいいかわからないの。

でも、この合宿の間は、君の横にいるのは私でありたい。

それで良かったら、私の横に居て。私に、意地悪しないで」


その最後の一文は、とても小さな声だったけれど、ちゃんと僕の耳に届いた。

あの声だったからだ。


僕は彼女に向き直り、そっと両手で細い肩を掴んだ。

そして唇を寄せた。


しおりは、そのキスを静かに受け入れた。

それは、あおいとの情熱的で官能的なキスとは、まるで違うものだった。

どこまでも静かで、どこまでも慎ましく、どこまでも真剣だった。


「ごめん。わかった」


僕はしおりを抱きしめ、そう囁いた。


しおりが自分のことを「いい加減」だというのなら、僕はその数倍もいい加減だ。

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