第7話 君と出会ってしまったから
「今夜は、たまには外に飲みに行かない?」
りかこが、そんなことを言い出したのは、夕食のあとだった。
りかこは、あおいと同じ短大の同級生で、付属の中学から一緒らしい。
しおりやあおいと違って、彼女はサバサバとした男っぽい性格で、何かと周囲を和ませるムードメーカーになっていた。
確かに、明日は教習所そのものが休業日で、丸一日、講習はない。
異論はなかった。
それに正直、大部屋での飲み会にも少し飽き始めていた。
気分も、少しだけ変えたかった。
「お、アニキ、どっか行くんすか?」
と、あの三人組のヤンキーたちが、人懐っこい笑顔で訊いてきた。
この頃になると、彼らは僕以外とも少しずつ馴れはじめ、最低限の言葉をかわすようになっていた。
“敵ではない”ことを、ようやく理解してくれたのだろう。
三人は、背の高さがそれぞれ高い・中くらい・低いで、まるでよくできたドラマのキャラ設定みたいだった。
僕たちはこっそり「大ヤン」「中ヤン」「小ヤン」と呼んでいた。
「飲みに行くけど、一緒に行く?」
トオルが彼らに声をかけた。
トオルは、第一印象どおり、気のいい男だった。僕と同い年とは思えないほどによく気が利き、誰とでもすっと距離を詰められる。
でも、さすがにそこまで心は許していないのか、それとも単に照れくさかったのか、三人は「いや、自分らはええっすわ」と頭を掻いて残った。
駅前まで出れば、何か良さげな店が見つかるだろうということで、僕たちはぞろぞろと歩き出した。
僕は自分のポジションをどこに置けばいいのかわからず、自然と最後尾にまわっていた。
しおりは、トオルと楽しそうに歩いていた。
僕は、少しホッとした。
なぜか、そういう時に限って、しおりの笑顔がいちばん自然に見える。
「いい店あるかなあ?」
明るい声であおいが寄ってきて、それが当然といった様子で僕の腕に絡んできた。
そのまま僕たちは二人で歩き、集団から少しだけ遅れながら後をついていった。
駅前をウロウロしていると、ちょうど僕たちくらいの年齢の客層が入りそうな、カフェバーが目に入った。
僕達はほとんどが未成年だったんだけれど。
バドワイザーの赤いネオンサイン、パームツリーのフェイクグリーン、ガラス越しに見えるダウンライトの陰影。
どこか、わたせせいぞうの漫画に出てくる店に似ていた。
煙草の煙で白く燻った店内に入ると、みんなワイワイとテーブル席に陣取り、思い思いにカクテルやビール、ポテトや唐揚げ、ピザなんかを注文していた。
乾杯のグラスが軽くぶつかり合うと、もうそれぞれが自分の話し相手に夢中になっていった。
僕とあおいは、少し離れたカウンター席に腰を下ろした。
あおいはシンガポールスリング、僕はダイキリを頼み、テーブルから回ってきたピザを一切れずつ分け合った。
ときどき、あおいがピザを僕の口元に運び、僕はそのたびに少し笑って受け取った。
僕が煙草を咥えると、あおいが火をつけてくれた。
笑い合いながら時々キスをした
まるで10年来のカップルのようだった。
2杯目に頼んだキューバ・リブレを半分飲んだ頃、少し酔いがまわりはじめていた。
そのとき、誰かが僕のシャツの裾をそっと引っ張った気がした。
振り返ると、しおりが立っていた。
怒ったような、泣きそうな、悲しいような――そんな複雑な表情で、僕をじっと見つめていた。
僕にぴったりとくっついていたあおいは、少しバツが悪そうに体を離し、「ソルティドッグください」と言ってグラスに視線を移した。
「どうして?」
しおりは、あの声で言った。
「ん?」
僕は聞き返すふりをして、そっと彼女の目を覗き込んだ。
「どうしてそんなことするの?」
その声は、あの透明感のあるミルキーボイスのまま、今にも壊れそうなかすかな震えをはらんでいた。
低く、ささやくようでいて、それでも胸の奥に真っ直ぐ届く──
まるで過去のどこかで、同じ声を聞いたことがあるかのような錯覚。
それはもう、泣き声の手前だった。
「ごめん!……ちょっとごめん」
僕はあおいにそう言い残すと、スツールから降り、しおりの肩に手を添えた。
「出よう」
とだけ言って、店の扉を押した。
店を出てから、しおりは何も喋らなかった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、泣いているのか――わからなかった。
「大阪の彼氏は……」
沈黙を破ったのは、しおりだった。
「帰ったらどうしたいか、今はわからない」
少し唇をかんで、でもきちんと前を向いたまま、彼女は続けた。
「だって……」
「だって?」
「君と出会ってしまったから」
その言葉を包んでいたのは、あの声だった。
ほんのり鼻にかかった、少しハスキーで、甘さと透明感が同居する、しおりだけのミルキーボイス。
「いい加減で、自分でも嫌だけど、どうしたらいいかわからないの。
でも、この合宿の間は、君の横にいるのは私でありたい。
それで良かったら、私の横に居て。私に、意地悪しないで」
その最後の一文は、とても小さな声だったけれど、ちゃんと僕の耳に届いた。
あの声だったからだ。
僕は彼女に向き直り、そっと両手で細い肩を掴んだ。
そして唇を寄せた。
しおりは、そのキスを静かに受け入れた。
それは、あおいとの情熱的で官能的なキスとは、まるで違うものだった。
どこまでも静かで、どこまでも慎ましく、どこまでも真剣だった。
「ごめん。わかった」
僕はしおりを抱きしめ、そう囁いた。
しおりが自分のことを「いい加減」だというのなら、僕はその数倍もいい加減だ。