第6話 僕らのささやかな倫理的放棄について
特に避けていたわけじゃない。…はずだ。
たぶん、という保険付きではあるけれど。
でもその日、僕がしおりと交わした言葉は、明らかに昨日までより少なかった。
それは別に意図的に距離を取ったとか、そういうことではなくて、単にたまたまタイミングの合う教習の待ち時間がなかっただけの話だった。たぶんね。
散歩もしなかったし、「恋のバカンス」も歌わなかった。
僕は1人で、日の丸のような柄の紙箱から煙草を一本抜き取り、フィルターを爪でトントンと叩き、火を点けた。
夕食のときも、いつものようにしおりは隣にいたけれど、交わされた言葉は「今日も不味いね」と「うん。味がしない」という、やけにネガティブな一言ずつだけだった。
恒例の夜の大部屋飲み会。
しおりは「ちょっと洗濯サボってて溜まってるから」と言ってランドリーに向かい、そのまま戻ってこなかった。
代わりに、いつも以上にあおいが場を盛り上げていた。
「私も京都に彼氏がいるんだー!でも、ここには居ないの!そういう事!ね?中田!?」
しおりの“告白”とは違って、あおいに彼氏がいるという事実に対しては、特に驚きもしなかったし、ましてやショックなんてものもなかった。
「まあ、そうだろうな」程度の薄っぺらい納得感が、僕の感情のすべてだった。
いつものように、酔いが回った順に自室に戻ったり、大部屋の端っこで布団に潜ったりする中、僕だけはなぜか酔えずにいた。
あおいは相変わらずご機嫌で、ギリギリの下ネタを織り交ぜながら騒ぎ続けていた。
「あー!今私にデブって言ったな!?でもこの体、抱き心地いいって評判なんだよ!」
年上の女子大生のあけすけな物言いに、うぶな男子たちは少しずつ気まずそうにその場を離れ、歯を磨きに行ったり、トイレに行ったりし始めた。
その様子がちょっとだけ可笑しくて、でも同時に、少しだけうらやましかった。
「明日もあるし、そろそろ寝るわ」
そう言って僕は煙草の火を消し、布団に潜り込んだ。
寝付けるかどうかは分からなかったけれど。
すると、「今日は私もここで寝るー!」とおどけた声を上げながら、あおいが僕の布団に入り込んできた。
一瞬、僕は「これは違う」と思ったが、次の瞬間には「まあ、いいか」と自分に言い訳を始めていた。
猫を抱き寄せるみたいに、僕はあおいの首の下に腕を回し、もう一方の腕をそっと背中に滑らせた。
「顔、近いね」
そう言うと、あおいはさらに顔を近づけてきた。
そして、まるでそれが当然かのように、唇同士が触れた。
一度、少し離れて辺りを見回したが、もう誰も起きていなかった。
僕たちは頭まですっぽりと布団に潜り、今度はお互いに焦らすように、でも確信的に、唇を重ねた。
あおいの舌が、濡れた感触とともに僕の口の中へ差し込まれてくる。
僕もそれに応えた。
もう何も考えられなかった。
彼女の艶めかしい舌の動きと、その先の、柔らかな身体の感触に、僕はただ溺れていった。
翌朝、目を覚ますと、布団の中にあおいはいなかった。
食堂に行くと、何事もなかったかのように明るく振る舞うあおいとは対照的に、しおりがいつもより丁寧に笑っていた。
その笑顔の端に、ほんの小さな影がさしたように見えたのは、きっと僕の後ろめたさのせいだったのだろう。
その日の教習もタイミングが合わず、しおりとの時間は結局一度も訪れなかった。
代わりに、あおいが猫のようにするりと僕の隣に座り込んできた。
「昨夜、私の体どうだった? 柔らかくて、言った通り抱き心地よかった?」
僕はどう返していいのか分からず、曖昧に笑ってごまかすしかなかった。
たった一晩で、すべてが軽くなった気がした。
いや、軽く扱おうとしていたのは、きっと僕のほうだった。
所詮、僕も18歳の若者である。
「こいつでもいいか」なんて、不遜な考えが頭の片隅で芽を出していた。
そして実際のところ、あおいは一人の女の子として見ても、十分に…いや、相当に可愛い部類だ。
僕は、自分のいい加減さに呆れつつも、同時にこの状況を楽しんでいる自分にも気づいていた。
…まあ、それもいいのかな。