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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
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第5話 昼下がりの猫

「それで、そのとき彼氏がね……」


その一言は、予告なしにテーブルの上に落ちてきた氷のかけらのようだった。

透明で小さな破片なのに、不思議なほど冷たかった。


恒例になった夜の大部屋での飲み会は、その夜も例外ではなかった。

湿った畳の匂い。安い缶ビールのプルタブが開く音。コンビニ袋からはみ出したスナック菓子。

安っぽい木の机の上には、ポテトチップスの油染みが点々とつき、消えかけた蛍光灯が時折ちらついた。

天井近くには煙草の煙がうっすらと層をなし、笑い声がその間を縫うように跳ねていた。

人数が多くなると、なぜか人間は酒に寛容になる。誰かが始めた宴はいつの間にか日課になり、粗末な食堂の夕食を終えたメンバーたちは、自然な流れで薄暗い畳の間に集まってきた。


しおりが話していたのは、高校最後の文化祭のことだった。

自分でデザインした衣装でファッションショーをやったという。

その話は妙に生き生きしていて、いつもより少し饒舌だった気がする。

みんなが「へえ、そんなことやったんだ」と感心して耳を傾けていた。もちろん僕も。


ただ、その“彼氏”という単語は、ごく自然に、しかし僕にはあまりに唐突に現れた。

しかもそれを告げた彼女の声が、あの、胸の奥をくすぐるような声だったからこそ、余計に効いた。

あの声が発する一語一句には、感情のひだの奥深くまで入り込む力があった。

だからこそ、その言葉が真綿のようにやさしく、でも容赦なく突き刺さってきた。


「へえ、彼氏いるんやね」


僕は煙草に火を着けながら、何とか声を平静に保って訊いた。

その瞬間、彼女の表情がほんのわずかに強ばった。目が遠くを見た気がした。

あれは「しまった」と思った顔だった。もしくは、僕がそう思いたかっただけかもしれない。願望というのは、時に記憶のフィルターさえ歪める。


僕はその話題に余計な熱を加えぬよう、さりげなく話を切り替えた。

自分が文化祭で仲間と撮った自主映画の話に移り、演出の工夫や苦労した編集のことなどを話した。

皆も興味を持ってくれて、しおりも頷きながら笑っていた。


やがて酒のまわりは会話の輪郭を曖昧にし、誰がどんな話をしていたのかも分からなくなっていった。

僕は彼女の隣で相槌を打ちながら、自分がうまく失言の傷をなぞって消したような気持ちになっていた。


でも、僕の中のざわつきは消えなかった。

その夜、布団に入っても、羊の数を数えることすら思いつかないほどに、頭の中が彼女の“彼氏”で埋め尽くされていた。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇


翌日の教習は、いつも以上にぼんやりしていた。

信号の数も標識の意味もどうでもよくなっていた。

助手席の教官が鼻を鳴らして眠りに落ちていくのを見ながら、僕はなかば自動運転のようにコースをなぞった。


その日の午後、僕は待合所のベンチでひとり缶コーヒーを飲んでいた。

コーヒーはぬるくて甘かった。眠気覚ましにもならなかったし、気分も晴れなかった。

煙草の煙もヤケにイガイガと喉に絡みついた。


そんな僕の隣に、猫が体を擦り寄せるようにどこからか現れたあおいが腰を下ろした。

教習所の待合所に射し込む昼下がりの光の中で、彼女の髪がふわりと揺れ、シャンプーの匂いが淡く漂った。

ぴたりと身体を寄せてくる感じは、まるで気温を感じ取るような繊細さと図々しさが同居していた。


そういえばこの頃やけにあおいの距離が近い。

僕の昼の個人授業の時以外も、気がつけば近くにいる気がする。


折れそうに細く、ふっと消えてしまいそうな儚さをまとったしおりとは、全く違うタイプの女の子。

あどけない顔立ちに健康的な体つき、陽気で人懐っこくて、会話は常にぎりぎり下品にならない程度の下ネタがスパイスとして混ぜ込まれていた。

大学生たちがよくやっている合コンというやつなら一番人気になる、そんなタイプだ。


彼女はイタズラっぽく僕の顔を覗き込んで、言った。


「ショックだったんでしょ?」


「ん?何が?」


と僕はとぼけた。


「しおりちゃんに彼氏がいる話。動揺してたもんね」


彼女はケラケラと笑う。

笑いながらも、その目は意外なほど鋭かった。


「いや、別に。いるやろ、そら。あんだけ可愛い子なんやし」


僕はなるべく軽く言ったつもりだったが、あおいはその言葉の奥を見透かすように、さらに身体を近づけて、目を細めた。


「中田(僕の名前だ)がしおりちゃんに夢中なの、みんなにバレバレだよ?」


あっけらかんとした明るさでそう言われると、反論もできなかった。

僕は次に口にすべき言葉を探していると、あおいはさらに距離を詰めてきて、声を少しだけ低くした。


「私が、慰めてあげようか?」


そのとき、世界が少しだけゆがんだ。

春の光がふと止まり、空気の色がわずかに変わったような気がした。

彼女の笑顔が一瞬だけ固く見えた。

その目はどこか冗談のようでもあり、本気のようでもあり、でもやっぱり冗談の皮をかぶった何かだった。


僕が考えあぐねているうちに、あおいはスカートの裾をさっと払って立ち上がった。


「ほら、次の教習始まるし!」


と、いつものようにケラケラ笑いながら廊下へ消えていった。


残された僕は、ベンチの背もたれに身体を預けて、しばらく天井のスピーカーから流れるラジオの天気予報をぼんやり聞いていた。

晴れ、と言っていた。宮崎の2月は、いつまでも春の予感を引きずっていた。

そして僕は、しおりのいないベンチに、もうしばらく座り続けていた。

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