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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
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第4話:補助ブレーキと恋のバカンス

教習所の時間は、ある種のスローモーションのようだった。

淡々と過ぎていく日々の中で、僕はゆっくりと「この場所の時間の流れ」に馴染んでいった。まるで壊れたメトロノームのリズムに、身体のほうが自然と歩調を合わせていくように。

退屈というのは決して悪いものではない。少なくとも僕にとっては。むしろその手の退屈さは、昔からわりと得意だった。


実技担当の教官は、2回ほどの教習で僕が特に手を掛ける必要のない生徒だと判断すると、顔をほころばせて「君は楽でいい」とつぶやいた。

そして次からは、コースやポイントについて最低限の指示だけを口にすると、シートを倒してくつろぎ、時には実に見事な姿勢で居眠りすることまであった。助手席の職業的怠慢の極みだったが、僕はそれに文句を言う理由を持たなかった。


要は規定時間分だけ教習車に乗ること。規定時間分だけ教室の椅子に座っていること。

それだけが僕が免許を取得するための段取りだった。


ある日、彼はついでのように言った。


「昼休みの時間にさ、教習車あるだろ、補助ブレーキ付きの。あれで他の教習生の練習に付き合ってやってくれないか」


僕は一瞬耳を疑った。冗談かと思ったが、教官の顔は本気だった。これは当時としてもおそらく法的にアウトだったのではないかと思う。

でも僕は、いくばくかの倫理観と引き換えに、暇つぶしのネタをひとつ手に入れることにした。


僕の「教習」は女性陣に大変好評だった。特にあおいは、毎日のように僕を助手席に誘ってきた。

「お願い、今日も乗ってくれるよね?」と。


アクセルを踏みすぎてガクンと車体が揺れるたびに、「きゃー!」と笑う。僕は補助ブレーキを軽く踏む。

ブレーキペダルが軋む金属音、タイヤのゴムが路面を擦る乾いた感触。窓から吹き込む風の匂いで、なぜか心地よかった。

まるで昼下がりの恋人関係のようだったが、僕はあくまで事務的に、実技指導者としての役目を果たした。

貸しボートのオールを貸す係のようなものだった。


「お時間は30分になります。」


◇   ◇   ◇   ◇   ◇


その頃になると、空き時間にしおりと辺りを散歩するのが日課のようになっていた。

暖かく穏やかな宮崎の冬。空気は柔らかく、光は低く、風はどこか遠くから来ていた。

舗装の割れ目に雑草が顔を出していた。

自分の名前を忘れた渡り鳥が、うっかり立ち寄ってしまった南の町のようだった。


彼女は妙に古い歌をよく知っていた。

僕も古い歌は嫌いじゃない。

よく二人で「恋のバカンス」をハモる練習をしながら歩いたものだ。


最初は音程が外れて顔を見合わせ、同時に吹き出してしまう。

そのときの彼女の目元がふっと緩んで、笑うと細くなる瞳の奥に、茶色がかった光がきらりと揺れた。

指先で前髪を直す仕草や、肩を小さくすくめる癖までが、歌の一部のように自然だった。


歌いながら、彼女は指をくるくる回して歩調を合わせるのが好きだった。

僕は煙草の煙をくゆらせながら、そんなしおりを眺めるこの時間が、とても気に入っていた。


声を合わせるたびに、僕は「彼女と同じ旋律を歩いている」という妙な感覚に包まれた。

それは大げさに言えば、世界で初めて誰かと秘密を共有した子どもの頃の記憶に似ていた。

笑い声が風に流れると、ほんの一瞬だけ僕の胸の奥にくすぐったい痛みが残った。


彼女の声は、歌っていてもやはり不思議だった。

ほんの少し鼻にかかった、かすかなハスキー。

けれどそれは曇りではなく、透明な硝子の表面に薄く曇りが浮かぶような、どこか切なさを含んだ響きで、聴くたびに僕の胸の奥の何かが揺れた。

まるで、遠い記憶の底にあった音を、もう一度そっと思い出させるような声だった。


◇   ◇   ◇   ◇   ◇


僕は最初、孤高を気取って過ごそうと思っていた。

人付き合いは最小限にして、本を読んで、酒を少し飲んで、免許を取ってさっさと帰ろうと思っていた。だが現実は、僕のそんな思惑をあっさりと無視した。


いつの間にか、みんなが僕のところにやって来るようになっていた。

ご飯はいつ食べに行くか、風呂は誰が先に入るか、飲み会の開催、コインランドリーの順番。

なぜかそのすべてに、僕の判断が必要になっていた。僕は知らない間に音の出ない笛を吹いて集団を動かす、影の鼓笛隊長のようになっていた。


さらに驚いたのは、あのヤンキーたちの変化だった。

僕を含めた数人と女子3人が仲良くなり、談笑するようになると、遠巻きに「おもんないのぉ」なんて毒づいていた彼らが、ある日を境に僕を「アニキ」と呼ぶようになった。

免許を取りに来ている年齢なのだから少なくとも同い年だと思うのだが。

きっかけは、どこかの昼下がりに僕が何気なく話した、弟のことだった。

弟は地元で名の知れた不良で、暴走族にも顔を出していた。


そんな話をすると、ヤンキーたちの目は少年のように輝いた。いや、実際に少年なのだが。


「マジっすか、アニキ!」と。


彼らは、偏見なく接する人間には妙に忠誠心を示すところがあって、僕はその“兄貴分”として彼らの中に招き入れられた。

僕のために煙草を買いに行ってくれるまでになった。


「アニキ、ラッキーストライクですよね!?」


もちろんそれは、僕が自ら望んだ立場ではなかったが。


こうして、僕の教習所生活は、予想外に賑やかで、平穏で、どこか牧歌的なものになっていった。

それはまるで、知らぬ間に誰かが映画のフィルムをすり替え、気づけば僕がB級ロードムービーの主人公になっていたような奇妙さだった。


もちろん、それはしおりが、まるで5年も前からずっとそれが当たり前であったかのように、いつも僕の隣にいるようになったからでもある。

春のように暖かい2月。クスクスと笑う声。柔らかな風に揺れる茶色の長い髪。「恋のバカンス」。


完璧な日々だった。


そう、あの話を聞くまでは──。

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