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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
3/11

第3話 しおり、そしてシュウマイについて

予想通り、教習は退屈で仕方なかった。

実車は人並みの理解力と人並みの運動能力があれば誰にだってできる程度のものだったし、

座学は教本を読めば書いてあることをダラダラと同じ内容を垂れ流すだけで、教官の声は僕の脳の中で遠くのラジオみたいに響いていた。

黒板をこするチョークの音だけがやけに鮮明で、隣の席では眠気に負けた男子が船をこいでいた。


とはいえ、彼女と並んで座って授業を受けられるのは、ちょっとした特典だった。

まるで席替えで好きな子の隣の席になった小学生のような気分だった。


窓から差し込む春の光が、彼女の髪をきらきらと照らしていた。まっすぐで細くて、まるで音のない水流のように揺れていた。彼女の髪には、ほのかにバニラのような匂いがあって、それが僕の集中力を静かに破壊した。

彼女は、細い指先でノートに几帳面な字を書き込んでいた。その姿を盗み見ながら、僕はただ退屈を忘れようとした。


彼女は、たぶん自分がどれほど目を惹く存在かをまだ知らないのだと思う。

だからこそ、眺めていて飽きなかった。


ところで、自動車学校という場所には、無為な休憩時間がたっぷり存在する。

午前と午後の教習の合間だけではなく、ランダムに、缶コーヒーと煙草でその隙間を埋めるにはいささか長い1時間余りの「昼下がりの停滞」があり、僕はその時間に改めて彼女に話しかけた。


「名前、聞いてもいいかな?」


「しおり」


と彼女は、あの不思議な声で答えた。


しおり。

それは、彼女の雰囲気によく似合った名前だった。繊細で、やわらかくて、でも芯がある。

名前だけでその人の輪郭がわかることが、世の中にはたまにある。


彼女は、同い年とは思えないほど知的で、会話のテンポが心地よかった。

音楽の話、文学の話、歴史の話、世界の話――

どれも同じ目の高さで語り合えた。


そんな穏やかな時間に、突然けたたましい声が乱入した。

例の女子大生二人組だった。

後に名前を知るのだけど、彼女たちは「あおい」と「りかこ」と言って、どちらも京都の短大に通っていた。

今まで誰かに邪険にされた経験など皆無なのだろうと思わせる、遠慮のない距離感でぐいぐいと話しかけてきた。


「ここに来る飛行機の中で英語の本読んでた人だよね!?」


「外大とかなん?」


「いや、高3。4月からは普通の大学の文学部、英文科じゃなくて新聞学科」


と僕は答えた。

彼女たちはなぜかそれが可笑しかったらしく、ケラケラと笑いながら去っていった。



「何の本読んでたの?」


彼女たちが去ったあと、しおりが聞いた。


「サリンジャー、『ライ麦畑でつかまえて』」


「英語で?」


「まあ、一応ね」


「日本語でだけど、私もそれ読んだ。ホールデンって、ちょっとひねくれてて、でも寂しがり屋だよね」


その時点で、僕はすでにしおりに心を預けはじめていたのかもしれない。

ラッキーストライクのフィルターを爪でトントンと弾きながら、僕はなるたけクールに会話を続けた。


彼女は英語にも興味があるという。

いつかオーストラリアかスコットランドに行ってみたいと言った。18歳にしてはずいぶんと世界が広いと思ったし、それは彼女の瞳の奥にも現れていた。どこか遠くを見つめるような、憧れと諦念が入り混じった目だった。

オーストラリアかスコットランド。彼女の透明な存在感と妙にしっくりきた。


◇    ◇    ◇    ◇


教習初日の夕食は、驚くほど粗末だった。

ご飯と味噌汁と、シュウマイ5個。それで終わり。

シュウマイの皿からは湯気が立ちのぼっていたが、噛めばすぐに冷めてしまう。味噌汁は薄く、出汁の風味さえ感じなかった。

まるで罰ゲームのような質素さだったけれど、しおりが自然と僕の隣に座ってくれたことが、すべてを帳消しにした。僕は彼女と話しながら、味のしないシュウマイを機械的に口に運んでいた。


宿泊先は、よくある合宿所ではなくビジネスホテルを少し改装したような中途半端なシティホテルだった。部屋は大部屋と4人部屋があり、部屋割りは自由だった。男子ヤンキー組が1部屋、女子3人組──しおり、あおい、りかこ──が1部屋、そして他の男子は全員、大部屋で雑魚寝という流れになった。

そうなると当然、大部屋が全員の溜まり場となった。斜に構えたヤンキー軍団を除いて。


僕は、どうせ他のメンバーはあの3人だけじゃなく皆田舎のヤンキーばかりで、友達なんてものもできないだろうと思っていた。

だから退屈しのぎのために、ワイルドターキーのボトルと、数冊のペーパーバックをカバンに放り込んで持ってきていた。

人生における保険のようなものだった。


ところがその目論見は、初日にしてあっさりと崩れ去った。

ふとした拍子に僕がワイルドターキーを取り出すと、「え、何それ?飲もう飲もう!」と、あおいとりかこが騒ぎ立て、まるで山火事のように火がついた。

令和の現代なら大問題になるところだが、何しろ昭和の頃である。


やがて誰かが缶ビールを持ってきて、誰かがポテトチップスを出して、僕のバーボンはあっという間に空になった。

甘ったるいバーボンの香りと油で手がべたつくポテトチップスの匂いが、布団の上に充満していく。

大部屋の空気はどんどん熱を帯び、笑い声が渦のように天井に跳ね返り、畳の上には空になった缶や皿が散乱していった。

布団はすでに誰がどこで寝るのか分からないほど乱れ、誰かがひっくり返した枕を即席の座布団にして腰を下ろす。


酔っ払いながら、僕はしおりがずっと僕の隣にいることに、くすぐったいような誇らしいような、そんな気持ちになっていた。

彼女がずっと僕の隣にいる。それだけで十分だった。

彼女もまた、どこか居心地の良さを感じているようだった。


そして、そんな風にして、合宿の一日目が終わった。


次第に世界がぼやけていく中で、僕は思った。――これは、始まりなのだ、と。

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