第2話 「ニーチェ」と彼女は言った
飛行機のエンジンの逆噴射の轟音と振動で、僕はまた現実に引き戻された。
窓の外に広がる滑走路が、灰色の帯のように流れていく。
到着した宮崎空港は、関西の空港に比べるとどこか呑気で、空港というよりよく手入れされた地方の公民館のようだった。
天井の低いロビーに、観葉植物や観光ポスターが並び、売店からは焼酎の香りや土産菓子の甘い匂いが漂ってくる。
南国の陽射しは穏やかで、2月なのにまるで春のようで、柔らかな風が僕の肩越しに流れていった。
まだ少し冬を残した伊丹の空気から来た僕には、それだけで別世界に来たような感覚があった。
指定された集合場所に向かうと、すでに何人かの参加者が集まっていた。
この手の集団にありがちな――つまり「バス旅行」とか「合宿」などという場でいつも見かけるような――顔ぶれが揃っていた。
気の良さそうな同年代らしき男の子が一人、やけに気が弱そうなもう一人、あとは歩き方と視線だけで全世界に対して「こっち来んな」と発信している幼いヤンキー風の三人組。
その足元には、やけに派手なラインの入ったスポーツバッグが転がっていた。
他にも何人か男がいたと思うのだが、誰も彼も記憶に残るほどの個性は持っていなかった。
女子側はと言えば、どこかで見たような「バブル期の短大生」的フォルムの女子二人組がいて、彼女たちはすでに自分たちだけの会話の世界を築きあげていた。
声のトーンから笑い方まで、彼女たちの空気は「自分たちはイケてる女子大生です」と言わんばかりで、まだ大学という世界に足を踏み入れていない僕には、ちょっと気後れする雰囲気をまとっていた。
そして、彼女がいた。
彼女は、なんというか、そこに似つかわしくなかった。
透き通るかのような白い肌。茶色がかった瞳と、同じ色の、腰まで伸びた細くてサラサラの髪。
その佇まいは、ヨーロッパの古い映画のワンシーンを切り取ってきたようで、周囲の空気とはまるで別のレイヤーに存在しているように見えた。
僕は一目見て、彼女に恋をした。
18歳にもなって、旅先で出会ったばかりの女の子に一目惚れするなんて、少しばかげているように思えるかもしれない。
でも恋というのは、たいていそういうふうに、理屈の外側からやってくるものなのだ。
その後、僕たちは用意されたバスに乗り、合宿の会場となる教習所へ向かった。
車窓の向こうに、南国らしい椰子やフェニックスの並木が流れていく。
真冬だというのに、畑の脇には菜の花が咲き、空にはカモメが舞っていた。
僕はこれから始まる二週間が、ただの埋め草なのか、それとも何か違うかたちで心に残るのかを、答えのないままぼんやりと想像していた。
教習所に着くと、まずはオリエンテーションという名の集団馴れ合いがあった。
各自が自己紹介をしていく。例の女子大生風の2人は案の定、京都の短大生で、「就職する前に取りにきたんですぅ~」と笑っていた。
ヤンキー風の三人組は、名前を言うときからすでに半笑いで、教官の視線を挑発するように受け止めていた。
彼女はといえば、大阪の高校3年生で、名を聞けば誰もが知っている有名進学校の生徒だった。
けれど春からは大学進学ではなく、アパレルに就職するのだという。
たしかに彼女も名前を言ったはずだった。けれど僕の耳は、そのとき彼女の名前をきちんと掴みそこねた。
原因ははっきりしている。
それは彼女の声だった。
ほんのかすかにハスキーで、それでいて不思議なほど澄んだ透明感のある声。
少しだけ鼻にかかったその響きは、ただ耳に届くだけでなく、胸の奥の、忘れかけていた感情の引き出しをそっと開けるような不思議な力を持っていた。
まるで、記憶よりも深い場所にそっと触れてくる、ノスタルジーを伴った囁き。
僕は、その声の響きにほんの一瞬、時を忘れていたのだ。
他の男たちが何を話したのかは、正直まったく覚えていない。
彼女が言った。「趣味は読書です」
その後、少し時間が空いたとき、僕は彼女の隣に立ち、ラッキーストライクに火を点けながら、できるだけ自然な声で尋ねてみた。
「どんな本、読むん?」
彼女は少し考えてから、唇をほんのわずかに動かし、
あの――少し鼻にかかりながらも、どこか透き通った切なさを帯びた声で、そっと答えた。
「……ニーチェ」
その響きは、まるで冷たい風のなかに浮かぶ音符のようで、
柔らかく、でも確かに僕の胸のいちばん深いところに降りてきた。
ただの哲学者の名前であるはずなのに、それは何かの告白のようにも、宣言のようにも聞こえた。
ニーチェ。
少し背伸びしている、変わった子なのかもしれないと思った。
でも、彼女の薄茶の瞳や、細い指先、そして少しだけうつむき加減の姿勢には、不思議とその言葉がよく似合っていた。
「なるほど」と僕は言った。
あとになって思えば、それが彼女との最初の会話だった。
やがてまたチャイムが鳴り、僕たちは教室へと移動した。
こうして、“あの二週間”が静かに幕を開けた。




