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◯ぼく◯ 5


 雨が降っている。ぼくの記憶ではあの日は晴れていた気がするが、窓の外の景色は視界が分からなくなるほどの大雨だ。時刻もそろそろ夕方の五時になろうとしている。楓と出逢ったあの時間、哲学の授業のテストは午前中だったはずだ。

 一体あの男はどこまでぼくを過去に戻したのだろうか。と、そんなことを教室の窓辺に佇み考えていると、後ろから背中をトントンと突かれた。振り返ると、今よりも少しだけまだ若いリュウが傘の先端をぼくの方に突き出してきている。

「おう、帰ろうぜ雄馬」

「リュウ……」

「ああ? 寝ぼけた顔して。疲れてんのか?」

 呆けるぼくを、リュウは訝しげに睨めつける。

「……いや、なんでもない。帰ろう」

 これがいつの記憶かは分からないけど、とりあえず今は時間を先に進めるしかない。もしかすると明日がテストの日なのかもしれない。これからぼくはリュウの新人賞獲得のお祝いで深酒をして、明日朝寝坊をしでかし、筆箱を忘れたままテストに向かうのだ。

「雄馬の言う通り、どしゃ降りになったな」

「え、ぼくそんなこと言ったっけ?」

「はぁ? 言っただろ、午前中に。昼から雨降るって」

「そう、だったか……」

「お前、マジで体調悪いんじゃないか?」

 キャンパス二階の教室を出る。階段で一階に降りた目の前のところが食堂になっていて、そのすぐ隣にあるのが、テストのあと楓と二人でいくことになるカフェテリアだ。ふと気になってスマホの連絡先を開いてみると、当たり前だが、そこにはまだ鬼塚楓の名前は登録されていなかった。

「今日の夜、リュウの家でお祝いするんだよね?」

「お祝い? なんの」

「なにって、リュウの小説が賞を獲った」

「前祝いってことか? そんなのちゃんと賞を獲ってからしてくれ」

「え? いやいや、だから……」

「そもそもあれで賞を獲れるとも思ってないしな」

「本気で言ってる?」

「そりゃあ獲れたら嬉しいけど」

「……ねぇリュウ、変なこと聞くけど、今って何月何日?」おそるおそる訊ねてみる。

「お前な、そんなベタな質問、今どき未来人でも訊かねぇぞ」

「…………」

 呆れてリュウが答えようとしないので仕方なくもう一度自分のスマホを見ると、数世代前のスマホの液晶画面に表示された日付は、どういうわけか想定していた七月よりも二ヶ月も前の五月十日となっていた。

 これは一体どういうことなのか。あの謎の男には楓と出逢った日に戻してくれとお願いしたはずなのに、まったく覚えのない日まで戻ってしまっている。最初に話しかけてきた時からいい加減な男だと思ってはいたが、最後のお願いまでまともに叶えてくれないとは、神様の遣いが聞いて呆れる。

 キャンパスの出入口まで来てみると、窓越しに見るよりも外の雨はかなり激しく降り落ちていた。突然の大雨だったのか、庇に隠れて雨宿りをする人もいる。

「なんでこんな雨降ってんの」

 期待していた状況と現実のあまりの乖離に、改めて困惑してしまう。

「最悪、洗濯物干しっぱなしだ」

 リュウが舌打ち混じりに傘を広げて外に出ていく。ぼくもそのあとに続いて傘を差し、ぬかるむ地面を正門に向かって早足になる。

 その時、ふと、足が止まった。見えざる手によって後ろから肩を掴まれたような感覚だった。何気なく見過ごしていた出入口で雨宿りをする、あの人。初めて見るようで、しかし長年誰よりも近くで見てきた女性。

 ぼくは考えるよりも先に踵を返し、出入口に向かって走り出していた。困り顔で空を見上げるその子に駆け寄り、声をかける。

「傘、ないの?」

「……へ?」

 その子はキョトンとした目でこちらを見ると、すぐに恥ずかしそうに頬を赤らめ、顔を背ける。

 ああ、なるほど。ぼくはようやく得心した。

 これが、ぼくたちの出逢いだったのか。

「これ、使っていいよ。ぼくはあいつの傘に入るから」

「え? でも……」

「いいから。使って」

「ありがとう……」

 手にした傘を彼女に渡したあとで、やばい手汗が付いているかも、なんて小さな不安が脳裏をよぎる。今さらそんな心配をしてしまう自分が可笑しかった。

「おーい、雄馬ー、ま・く・ら・ざ・き・ゆ・う・まー、なにしてんだよー」

 正門の方からリュウが声を上げて、ぼくを急かしてくる。親友よ、頼むから今この瞬間だけは少し黙っててくれ。心の声を噛み殺し、後ろに首を捻って返事をする。

「おう、今行く!」

 正面に向き直り、「あ、あの……」とまだ少し恥ずかしそうに視線を俯す彼女の名前を、ぼくは呼んだ。

「楓」

「え……?」

「風邪、ひかないようにね」

「は、はい……」

「じゃあ、またね」

 思わず胸がいっぱいになり、泣きそうになるところをなんとか笑って堪えて、ぼくは楓に背中を向けた。打ちつける雨に全身を濡らしながら、リュウの待つ正門の前まで駆け足で戻る。

「なにしてたんだよ。ナンパか?」

「なんでもない。さ、行こう」

「お前、やっぱり今日変だよ」

「ああ、分かってる」

 歩きはじめた片足が地面の水溜りを踏み、ピシャンと小さな水飛沫を上げる。視線を下ろすと、小さな泡が二つ、濁った水面を悠々と泳いでいる。やがてそれらは吸い寄せられるように接近し、触れるとたちまちパチンと弾けて、一つの大きな泡に変わった。



 気が付くと、ぼくは暗闇の中にひとり立ち尽くしていた。

 あれ、ぼくはどうしてここにいるのだろう。

 過去から現実に帰ったあと、いつも通り楓の隣で寝て、いつも通りに朝起きて、いつも通りにシネマ・グリュックに出勤した。

 そのあとは……あまり覚えていない。覚えていないということは、少なくともぼくの中では思い出さなくてもいいということなのだろう。

 とにかくあの男の宣告通り、ぼくは死んだのだ。

 暗闇の中、目の前の一点だけがぼんやりと灯されており、そこに小さな画面と時計が縦になって浮かんでいる。めくるめく速さで時計の針が回転している。画面に映っているのは、どうやらぼくの今までの思い出らしい。テストの日の思い出、マクドナルドで楓に告白をした日の思い出、同棲を始めた時の思い出、両親との思い出、リュウとの思い出、そして───。

 鐘山の森を夜通し歩き回って疲れ果てたぼくと楓が、ようやく辿り着いた展望台で日の出の景色を眺めている。まだ人の呼気に侵されていない起き抜けの町並みは新鮮な空気に満ち満ちていて、そこに澄み色の朝陽が少しずつ馴染んでいくそのさまは、言葉では言い尽くせないほど壮麗だ。歌うように鳴くカラスたちも、風に吹かれて心地良さげに葉音を立てる鐘山の森の木々たちも、みんな、夜の終わりと朝の到来を心から祝福しているかのようだった。

「楓」

 朝陽に向けていた目を、隣の楓にゆっくりと移す。

「なぁに?」

「結婚しよう」

「うん」

 言葉少なに頷く楓の笑顔が、町並みの背中から上昇し広がっていく朝陽の光芒に包まれ、弾ける。

 その後しばらく、ぼくたちはひとことも言葉を交わすことなく、少し頬を綻ばせたまま、自分たちの世界にだけ流れる今の時間を愛おしむように、お互いにお互いを見つめ続けた。下手に言葉を積み上げてしまうと、せっかく澄みきったこの瞬間の空気が濁ってしまうような、そんな気がした。

 プツンも画面が暗転する。時計の針も次第に減速を始め、やがて蝶が花びらの上で翅を休ませるように、ピタリと止まった。

「雄馬───」

 後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、遠くの方で小さく光る明かりが見えた。ぼくはその光を目指して歩きはじめる。あるいは光の方からこちらに向かって近づいてきたのかもしれない。正確なところは分からない。とにかくぼくは吸い込まれるように、その眩い光の中に入っていった。

 視界がパッと開ける。ぼくの実家のリビングだろうか。楓やリュウ、もちろん父さんや母さんの姿もそこにある。みんな、同じテーブルに集まり、楽しそうに笑っている。幸せそうに笑っている。

 あぁ、父さん母さん。ぼくを育ててくれてありがとう。先に逝ってしまってごめん。父さんのスイーツ、もう少し食べたかったな。母さんの歌声、もう少し聴きたかった。どうかこれからも好きなだけ歌ってほしい。そしてその隣で父さんも、好きなだけ下手くそな踊りを踊っていてほしい。

 リュウ、お前にはもう、なにも言うことはないよ。感謝している。ぼくと親友でいてくれてありがとう。まだまだリュウの小説を読みたかった。映画になったら、一緒に映画館に観にいきたかった。世界一の小説家に……いや、別にならなくてもいいか。リュウはリュウらしく、ボチボチ頑張ってくれ。

 そして楓。楓、楓、楓、楓……───。

 世界で一番好きな音の響き。

 世界で一番、素敵な名前。

 君の声が好きだ。

 君の顔が好きだ。

 君の優しさが好きだ。

 無邪気に笑う君が好きだ。

 寝癖をつけたまま起きてくる君が好きだ。

 筆箱を忘れて困っているぼくに、そっと消しゴムを切り分けてくれる君が好きだ。

 残り二本になった自分の分のポテトを当たり前のように一本くれる君が好きだ。

 でも、そのすべてが無くなったとしても、それでもぼくは君が好きだと、きっとそう思わせてくれる君のことが、なにより好きだ。

 幸せでいてほしい。無理はしないで、自分の好きなように生きてほしい。

 ぼくの言葉はもう届けられないけれど、それでもなんとか、ぼくのこの想いだけは届いてほしい。

 いつまでもぼくは君のそばに居続ける、なんて言うと少し邪魔くさいだろうから、せめて君がぼくのことを思い出した時は必ずそばにいるから。気が向いたら、思い出してほしい。

 楓、今までありがとう。

 愛しているよ。

 だから、さようなら───。


 刹那、光に包まれた楓がふと振り返り、ぼくに向かってニコリと優しく微笑んだ、ような気がした。




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