●わたし● 4
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乗り慣れないバスの窓に側頭を寄りかけ、雄馬の生まれ育った地元の景色をぼんやりと見つめる。この町に来るのは今年の正月、彼の両親に新年の挨拶をしにきて以来のことだ。時刻は夕方の六時。図書館での仕事を終えたその足で来たからか、少し体がくたびれている。
数日前、花園神社でリュウくんと偶然出くわした日の夜、わたしは自宅に戻ると、すぐに雄馬のお母さん───香子さんにメールを打った。
『近いうちにそちらにお伺いしてもいいですか?』
『もちろん。誠司も会いたいって言ってるから、今度の週末の土曜日はどう?』
誠司というのはもちろん、雄馬のお父さんの名前だ。
『土曜日は仕事が五時まで入ってるんですけど、そのあとからでも良いですか?』
『私たちはいつでも構わないよ』
『それでは、土曜の六時過ぎにお伺いします』
『はーい。楽しみに待ってるね』
バスを降りてから徒歩数分、雄馬の実家のマンションに到着し、エントランスから自動ドアを抜け、エレベーターに乗る。三階で降り、視界右手の町並みを横目にしながら外廊下を歩き、303号室の玄関の前で足を止める。ふうっと息を吐き出しドアフォンを押すと、「はいはーい」と、すぐに中から香子さんと誠司さんが姿を見せた。
「お久しぶりです、香子さん、誠司さん」
「ほんと、ひさしぶり。さぁ、どうぞ入って入って」
「お邪魔します」
「来て早々に申し訳ないけど、今からもう夕飯でいいかな?」
「もちろんです、ありがとうございます」
リビングに上がると、わたしはまず窓辺に置かれた小さな仏壇の前に足を畳んだ。線香に火をつけ、リンを鳴らして、雄馬の遺影に手を合わせる。結んでいたまぶたをふっと持ち上げると、そこに映る雄馬の笑顔と目が合った。困ったように眉を垂らして笑う雄馬。彼が亡くなるひと月前、婚約の報告をしに、わたしが初めてここに来た時の写真だ。今日はお祝いだと言ってお酒で顔を赤らめた誠司さんがどこからか古いデジカメを取り出してきて、キッチンカウンターに立てかけタイマーをセットし、恥ずかしそうにする雄馬の肩とわたしの肩を無理やり抱き寄せ、撮影したのだ。
「ほら、タイマーは5秒だぞ。笑ってるか、雄馬」
「うるさいなぁ。笑ってるよ」
「楓さんはどうだ」
「笑ってます!」
「香子も写ってるか?」
「大丈夫大丈夫」
「よしいくぞ、3、2、1───」
カシャッ! その時のわたしたちの一瞬を切り取るシャッターの音。それぞれポーズは不揃いだけれど、同じ方向を見つめて、キラキラと幸せを湛えた笑顔を浮かべるわたしたち。
立ち上がると、すでにダイニングテーブルに夕食の用意がされていた。「ありがとうございます」とひとこと礼を言って、椅子に座る。親子丼に味噌汁に唐揚げ。親子丼は香子さんの一番の得意料理らしく、婚約の報告の時もここでわたしに振る舞ってくれた。
「いただきます」
向かいに座る香子さんが手を合わせ、
「いただきます」
その隣に座る誠司さんも言葉を合わせる。
「いただきます」
わたしも二人に少し遅れて、手を合わせた。
「最近はどう? 仕事の方は」
誠司さんが親子丼を口の中に掻き込んだあと、ひとくちお茶を啜って息を落ち着かせてから、わたしに訊ねる。これまでにも何度かこの二人とはこうして食事を重ねてはいるけど、そのたびに誠司さんと雄馬はよく似てるなぁとしみじみ思う。どちらかというと顔は香子さんに似ているのだけれど、食べ方や所作、表情の機微などは誠司さんにそっくりだ。
「仕事は……そうですね、さすがに今のところで働きはじめて一年近くになるので、それなりに慣れてはきました」
「……そうかそうか」
誠司さんはどこか含みを持たせた目で、頷くように首を振った。
「……あ、役者の方も、変わらず細々とって感じです。いや、細々と、ですらないかな。蜘蛛の糸くらい細い線になんとか必死に縋りついてるって感じですね」
「蜘蛛の糸か。また良い表現をするね、楓さんは」香子さんが唐揚げに箸を伸ばしながらクスリと笑う。「何事もね、それなりが一番よ」
「お二人はどうですか、最近。誠司さんも、そろそろ実感が湧いてきましたか?」
今年で六十五歳になる誠司さんは、今年度いっぱいで今の職場を定年退職することになっている。その後のことはまだ未定だそうだが、バイタリティ溢れる誠司さんのことだから、どうせすぐにまた新しい仕事を見つけるつもりだろうとわたしは密かに踏んでいる。
「いやぁ、まだ半年も先のことだからね。まだあんまり実感はないかな」
「でも本当にすごいと思います。大学を卒業してから定年するまで四十年以上、同じ職場で働ききるって」
「俺は別に、運が良かっただけだよ」
「運、ですか」
「そう、運。愛する妻に可愛い息子、頼りになる上司に優秀な部下。俺はただ、運が良かっただけなんだよ」
「そうねぇ、私たち、運が良かったのよねぇ」
香子さんも両手で湯呑みを包むようにしながら、ホッと息を吐き出す。
二人の言うその「運」という言葉には、しかし、一つだけじゃない、いろいろな意味や想いが含まれているように、わたしには感じた。
食事を終えると、わたしはリビングを出て、隣の雄馬の部屋に移動した。部屋の中は雄馬が生きていた頃からなに一つ変わっていない。小学生の頃から使っていたという勉強机に、一人用の背の低いベッド。壁に貼られたスターウォーズのポスターは、相変わらず四隅の一つがベロンと剥がれてしまっている。
「楓───」
ふと、遠くの方から雄馬に名前を呼ばれたような気がした。閉めきられたカーテンを少し開けると、薄暗い窓の向こうにずんぐりとした鐘山が見えた。
「結婚しよう───」
あの日の風の音が耳を撫でる。木々のざわめき、カラスの鳴き声。じわりじわりと昇っていく朝陽。くたびれた目に映る、隣で不器用にはにかむ雄馬の笑顔。
「雄馬……」
もう、無理かもしれない。そう思った。これまでなんとか耐え続けてきた糸が、不意にプツンと切れたような気がした。もう限界だ。これ以上雄馬のいない世界を生きていくのも、雄馬の不在にいちいち足を止めてしまう自分にも、もう耐えられない。あの森に行けば雄馬に会える。雄馬の世界に行くことができる。このままこの世界で死んだように生きるくらいなら、死んで雄馬の世界を生きていきたい。そう思った。もしかすると今日、ここに来たのは、その決断の最後の一押しをしてもらいたかったからなのかもしれない。
窓に映る乾いた自分の顔に蓋をするように、わたしはカーテンを閉めた。勉強机に置かれたセロテープを千切り、べろんと剥がれたポスターの一角を貼り直す。最後に白色のベッドを手のひらで撫でると、皺一つ、埃一つないベッドシーツはひんやりと冷たかった。
「そろそろ帰ります、お邪魔しました」
部屋を出て、リビングにいる誠司さんと香子さんに声をかける。二人はダイニングテーブルに仲良く肩を並べて、旅行のガイドブックを広げているところだった。
「なになに、もう帰っちゃうの?」
「はい、これから行かなきゃいけないところがあって。ごめんなさい、ただご飯をご馳走になりにきただけになってしまって」
誠司さんと香子さんが心配そうな目をして、お互いに顔を見合わせる。
「楓さん。昔、雄馬がまだ小学生くらいの時に、あいつに訊かれたことがあるんだ」と、唐突に誠司さんが言った。「どうして人は過去の思い出を思い出そうとする時、無意識に顔を上に向けてしまうのかって」
「顔を上に?」
そんなこと今まで一度も考えたことはなかったけれど、たしかに過去の記憶を辿ろうとする時、自分も無意識的に顔を上に傾げているような気がしないでもない。
「俺もその当時は上手く答えてやれなかったんだけどね、今ならきっと、こう答える。思い出っていうのは、自分の気持ちを上向かせるためにあるんだって。過去の経験をバネにして、未来に向かって跳躍するために思い出はある。だから人はなにかを思い出そうとする時、無意識に顔を上に向けてしまうんじゃないかな」
「気持ちを……」
「……あぁ、いや、なんでもない。忘れてくれ」誠司さんは胸の前で手のひらを振って、ぎこちなくわたしに微笑んだ。「とにかく、またいつでもおいで。今度は俺が激ウマケーキを作って待ってるからさ」
「はい……ありがとうございます」
「今度はリュウくんも呼んで、ね」香子さんも雄馬によく似た笑顔で言う。
「はい……」
わたしは小さく頭を下げて、二人のマンションをあとにした。
◆
山嶺にポツポツと立ち並ぶ民家から漏れ出る朧げな灯りを頼りに、急勾配の石階段を昇っていくと、中腹の辺りで遊歩道の入口を差し示す立て看板が現れる。看板上部に取り付けられたライトには、蛾や虫たちがブンブンと音を鳴らして屯している。「展望台まで500m」と書かれたその標識を見て、わたしは思わず笑みを漏らした。一年半前、わたしたちはこのたった500mの道のりで迷子に陥り、朝になるまで歩き回ったのだ。
入口から遊歩道に足を踏み入れると、わたしはすぐにその道を外れて、暗がりの森の中へと入っていった。
夜の鐘山は当然暗闇に包まれており、前も後ろも右も左も判別できなくなっている。スマホのライトを前に掲げてなにを目指すでもなくひたすら歩いていると、まもなくして来た道も分からなくなり、挙句にはスマホの電池さえ切れ、足元を照らす灯りも失ってしまった。
するとたちまち、わたしは、まるで宇宙の片隅に放り出されたみたいに孤独になった。一寸先も分からぬこの闇は、今のわたしの人生そのものだ。手を差し伸べてくれる人はこれまでたくさんいたのに、わたしはそのすべてを拒絶し、とうとうここまで来てしまった。
自ら孤独を求めたわたしの死に場所としては、案外ここも悪くないのかもしれない。今のわたしに残っているのは、心の中にある雄馬との過去の思い出だけだった。
『思い出っていうのは、自分の気持ちを上向かせるためにあるんだって』
先ほどの誠司さんの言葉がふとよみがえり、わたしは闇夜の空に目を持ち上げた。
すると、その時だった。
疲れて霞む視界の中をヒラヒラと舞う、なにかが見えた。
すべてを呑み込む暗闇の中でも光を放つそれは、よく見ると、綺麗な翅を大きく広げた一匹の黒蝶だった。
「楓───」
その黒蝶に、名前を呼ばれた、ような気がした。
「雄馬……」
「楓、こっちだよ───。そこにいちゃダメだよ───」
翅を掻いて、こっちにおいでと、わたしを手招きしている。
黒蝶の行く先を追って足を一歩踏み出すと、地面の上に落ちた枯れ枝がパキ……と乾いた音を立てた。歩調の乱れた足が地面を踏むたび、パキ……、パキ……と音が鳴る。黒蝶はその都度、空中に留まってこちらの方を振り返り、しかしすぐにまた前に向き直って、ヒラヒラと優雅に飛んでいく。
「ごめん、こんなつもりじゃなかったんだけど……」
この森を抜けた先にある展望台でプロポーズをしてくれた日の雄馬の声が、耳の中で小さく響く。
「ううん、全然平気だよ」と答えるわたしの息も上がっている。遊歩道を外れて森の中を彷徨い歩きはじめてから、かれこれもう三十分以上が経っている。
「おかしいなぁ、どこで逸れちゃったかなぁ」
わたしもこれからプロポーズを受けるんだろうなと薄々感じてはいたから、必死に元の道を探そうとする雄馬の背中が、情けないけど頼もしくて、嬉しかったのを覚えている。これからわたしの旦那さんになる人の背中。この先一生を添い遂げる人の大切な背中。
「綺麗なんでしょ?」
「え?」
「ここの展望台から見える日の出、綺麗なんでしょ?」
「あぁ、うん、そりゃあもう、絶景だよ」
「期待外れだったら、わたし許さないからね」
「大丈夫、絶対にガッカリはさせないから」
あの日に想いを馳せながら、無心になって頭上の黒蝶を追いかけているうちに、気付けばわたしは、見覚えのある場所に辿り着いていた。
ひときわ大きなクスノキ。その根本に堂々と鎮座する巨大な岩。頭上の葉叢から時折射し込む朧げな月の明かりが、不思議な神々しささえ感じさせるその岩肌をちらちらと照らし出している。
『ゆうま、かえで、ここにあり』
当時、雄馬が落ちていた石で削った文字もまだそこに残っている。わたしは地面に膝をつき、縋るような思いで目の前のその文字に指先を当てた。
と、その瞬間、今まで経験したことのない、妙な感覚が体の中を駆け巡った。誰かがわたしに憑依したような、わたしがわたしじゃなくなったような、そんな感覚だった。
わたしは別の誰かの目になって正面の岩を見つめている。わたしのようでいてわたしのではない指先は地面に落ちていた小石を拾うと、岩の下部、雄馬の文字の下のところに、新たな傷痕を作り出した。ガリ、ガリ、と岩肌を削る感覚が、わたしの意識とは別で動く手から腕へ、腕から脳へと伝わってくる。一本、二本、三本の直線。それは、下を差し示す矢印だった。
『ゆうま、かえで、ここにあり →』
ハッと我に返る。自分自身の感覚を取り戻したわたしの手には、小石は握られていない。あるのは岩の下部に削り出された雄馬の文字と、矢印だけだ。
無意識にわたしは、その矢印が差し示す土に手を伸ばしていた。両方の手で一度、二度と土を掘り返したところで、指の先に違和感が触れた。掘り出してみると、中から、雄馬が昔使っていた紺色のハンカチが出てきた。
「なんで……」
ドロドロに汚れたそのハンカチを指先でつまみ上げると、ポロッとその中に包まれていたなにかがわたしの太ももの上に落ちた。手のひらに乗せ、慎重に顔の前まで近づけてみる。
「…………」
それは、わたしがプロポーズのお礼に雄馬にプレゼントした、アングレカムの花の形を模したネクタイピンだった。
「雄馬……」
どうしてこれがここに埋められているのか。
それは分からない。
けど、わたしはこの時、一年と半年ぶりにようやくふたたび雄馬と会えたような、そんな気がした。
途端に目からは今まで忘れていたかのように滂沱の涙が溢れ出てきた。膝が土の地面にめり込んでしまうほど体を前屈みにして、喚くように泣き声をあげる。赤ちゃんが泣くのは感情を言葉にして伝える術を持たないからだと聞いたことがあるけれど、今のわたしもそれと同じようなものだった。腹の底から込み上げてくる感情が、物言わぬ涙となって体の中から溢れ出してきたのだ。
死にたくたい───。
生きたい───。
俯していた顔を持ち上げる。辺りに視線を探らせてみるが、わたしをここまで連れてきてくれたあの黒蝶の姿は、もうどこにもない。
「楓───」
わたしを呼ぶ声だけが聞こえる。
「楓───」
誰かがわたしを呼んでいる。
すると、視界前方、遠くの方でなにかがチカチカと光るのが見えた。ギュッと目を結んだ時にまぶたの裏で弾ける火花のような、小さな光。この暗い森の出口まで導いてくれるあの光。人生で一番素敵な景色を教えてくれる、あの光。
わたしは、その光に向かって駆け出した。あの時と同じように。早くこの森を出なくちゃ。もう迷う必要なんてない。木に肩をぶつけたり、地面を這う蔓に足を取られたりもしたけれど、それでも必死に踏ん張り、わたしは走った。
とにかく走る。歯を食いしばり、無様な自分も顧みず、鼻息を鳴らして、涙目になって、とにかく走る。
チカ、チカ、と光が徐々に大きく、確実なものになっていく。あの光は、もうすぐそこにある。わたしの手の届く距離にある。
「楓ちゃん!」
「楓ちゃん!」
光の中から、わたしの耳に声が伝わる。幻聴なんかじゃない、わたしの知ってる、あの人たちの声。
「リュウくん、布田さん!」
森を駆け抜けたわたしは、展望台の外灯の下で待ち構えていた二人の体に夢中になって飛びついた。
「楓ちゃん、よかった。やっと見つかった」
布田さんがわたしの体を抱き返してくる。彼女の胸を打つ鼓動も心なしか少しだけ早くなっているような気がした。
「なんで……なんで二人がここに?」
「さっきおっちゃんから連絡が来たんだよ」とリュウくんが言う。「家に遊びにきた楓ちゃんがなにやら思い詰めた顔をしてたから心配だって。そしたら楓ちゃんとの連絡もつかなくなってて、こりゃやばいぞって。で、この近くで楓ちゃんが行くとしたら、ここしかないだろ? それで、俺たち二人で何回か遊歩道を行ったり来たりして楓ちゃんを探してたんだよ」
「だけどこの暗さだし、なかなか見つからなくて参っていたら、森の中から楓ちゃんの泣き声が聞こえてきて、だから私たちもここからずっと楓ちゃんの名前を呼びかけてたの」
「そっか……、さっき聞こえたのは二人の声だったのか……」
「とにかく無事でよかった。もう行こう。おっちゃんもおばちゃんも下の駐車場で楓ちゃんを待ってる」
「ありがとう……本当にありがとう……」
布田さんの胸に頭をうずめて、礼を言う。
正直に言って、これで雄馬の死を克服できたとは思わない。多分、これから先も彼のことを思い出しては泣いてしまうだろう。
でも、少なくとも今は、今だけは、生きていてよかったと、そう思える。死ななくてよかったと、そう思える。
雄馬は今もまだ生きていたのだ。ずっと、わたしの中で。だからわたしは死なない。わたしが死んだら、雄馬もそこで死んでしまうから。
布田さんの心臓の音と、わたしの心臓の音が、徐々に共鳴していく。涙でボロボロになった顔を上げると、ちょうどその時、夜空の中心で綺麗な星がキラリと瞬くのが見えた。