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◯ぼく◯ 4


 スマホのアラームが鳴るよりも先に、目が覚めた。なんだか長い長い夢を見ていたような気もするけれど、覚えてはいない。窓から射し込む朝陽が強張った頬を溶かしていく。朝の七時少し前だ。隣を見ると、楓はまだ気持ち良さそうに眠っていた。

 ベッドから起き上がる前に、天井を見上げてひと息ついた。今日一日が終わり、明日になれば、ぼくは死ぬ。受け入れたくはないけれど、受け入れなければならない現実がある。あの謎の男が神様に反旗を翻さない限り、ぼくは明日の死を免れられない。そしてあの男が神様に反旗を翻すなんてことは、万に一つもありえない。

 それなのに、こうして目が覚めても特別な感慨が湧いてこないのはなぜだろう。今日が最後の一日なのに、明日死ぬのに、それに対する恐怖もなにも感じない。すでに昨夜の時点で涙と一緒に残りの人生に対する下手な希望や期待もすべて捨て去ったということなのだろうか。期待しても意味はないと、本能でそれを悟っている。誰にも理解してもらえない暗澹たる気持ちを心に抱えたまま、ぼくは今日も未来のない一日を、ただひたすら明日の死に向かって厭世的に生きていくしかないのだ。

 昨夜、文字通り涙が枯れるまで泣き果たしたせいで、まぶたの上が鉛のように重い。ぼくは目頭を指で揉みほぐしながら、ベッドを降りた。

 今日はぼくも楓も朝から仕事なのだが、基本的にそういう日は、ぼくの方が少しだけ早く家を出る。キッチンに移り、いつものようにお湯を沸かしてコーヒーを淹れる。するとそのにおいに釣られて、楓もベッドから起きてくる。

「おはよう」

「んー……おはよう」

 静電気を食らったみたいに髪の毛を爆発させた楓が、欠伸混じりに片手を上げる。座卓を挟んで二人で向き合い、淹れたてのコーヒーをひとくち飲む。

「あ、そうだ」と、そこでぼくはふと思い出し、冷蔵庫の方を目で差した。「昨日、父さんが作ったカップケーキ貰ってきたんだった。今食べる?」

「え、食べる食べる、食べるに決まってる!」

 寝ぼけて細くなっていた楓の目が丸々と開く。ぼくはさっそく冷蔵庫から父さんのカップケーキを二つ取り出し、座卓の上にトントンと並べた。

「どうぞ、召し上がれ」

「いただきまーす」

 美味しい美味しいと頷きながら、木の実を口いっぱいに入れ込む小動物みたいにケーキを頬張る楓の姿を、ぼくは頬杖をついて、まじまじと見つめる。

「ねぇ楓」

「はに?」

「今日の夜、カレー作ろうか」

「へ! はへー! 作う!」

 口をリスにしたまま、嬉しそうに手を叩く楓。カレーは彼女の一番の大好物だった。

「今日は何時頃になりそう?」

 ぼくもコーヒーと一緒に父さんのカップケーキをひとくちかじる。不思議なもので、明日死ぬというのに美味しいものは自然と喉の中を通っていく。

「多分、コンビニが七時までだから、ここに着くのは八時くらいかな」

「分かった。じゃあぼくもその頃には家にいるようにする」

「でも、なんで急に?」

「別に、今ふと食べたいなって思っただけ」

「寝起きにしては、良いセンス」

「ぼくはいつだってセンスだけは良いんだよ」

「わたしと結婚するくらいだからね」

「そういうこと」

 それからしばらくして家を出る時間になり、ぼくは部屋着からワイシャツとスーツに着替え、最後に首元のネクタイにピンを留めた。ひと月前、プロポーズのお礼にと言って楓がプレゼントしてくれたネクタイピン。アングレカムという花の形を模している。アングレカムには「祈り」や「いつまでもあなたと一緒」という花言葉がある、らしい。なんとも楓らしい、素敵なチョイスだ。

 玄関に移動し、沓脱ぎに腰を屈めて革靴を履く。立ち上がりながら振り返ると、楓が目の前まで見送りに来てくれている。そんな彼女もまもなく家を出るので、すでに着替えも化粧も準備万端といった出で立ちだ。

「今日かなり冷え込むらしいよ。コート着ていけば?」

「ううん、大丈夫」

「じゃあ、また夜に」

「うん、また夜に」

 ぼくは楓の唇にそっとキスをし、玄関のドアノブに手を伸ばした。



 明日死のうがどうなろうが今を生きている限り、そしてぼくのその死がぼく以外の誰にも明示されていない以上、やらなければならないことは普段通りにやらなければならず、こなすべき仕事も変わらずこなさなければならない。

 シネマ・グリュックの事務所でパソコンと向き合い、明後日に予定している上映作品についての打ち合わせの確認メールを、取引先の配給会社に送信する。明日ぼくが死ねばこの打ち合わせもおそらく延期になるか、少なくともそれなりの調整が必要になるだろうけど、今の段階でそれを相手に告げたところでどうにかなるわけでもない。

「枕崎くん」

「はい、なんでしょう」

 支配人デスクから飛田さんに声をかけられ、液晶画面に向けていた目を後ろに向ける。ブルーライトに痛めつけられた目が天井から降り注ぐ蛍光灯に悲鳴を上げて、咄嗟にまぶたを瞬かせる。すると、そこに映る飛田さんのふくよかな体が一瞬、二重にぼやけて見えた。

「スケジュール、もう出来た?」

「あ、草案出来てます。今出しますね」

 エクセルを印刷したA4用紙を飛田さんに渡す。そこに載っているのは、再来週分の映画館のタイムスケジュールの草案だ。現在、この映画館で一番客入りが良いのは先週上映を始めたばかりのイギリスのラブロマンス映画なので、今回はその上映回数を一日四回から五回に増やし、その分、先々週からスタートしたフランスのドキュメンタリー映画を一日三回から二回に減らしている。

「あらら、やっぱりこれ減っちゃうんだなぁ」

 飛田さんもその変更にすぐに気付くと、分かりやすく渋面を浮かべて、幅の広い額に二重三重の皺を寄せた。

「残念ですけど、現状削るとしたらそれしかないかな、と」

 もちろん、グッズの売れ行きや配給会社との契約の兼ね合いもあるにはあるが、映画館自体の開館時間が限られている以上、一つの作品の上映回数を増やせば自ずと、別の作品の上映回数を減らさなければならなくなる。

「俺は好きなんだけどなぁ、この映画」

「ぼくも好きでした」

「でもまぁ、仕方ないな」

「はい、仕方ないです」

 草案の用紙に飛田さんからのサインを貰うと、パソコンのデータファイルを「草案(仮)」から「草案(済)」に変更する。まだこれが決定稿になるわけではないが、これをもとに再来週の上映スケジュールや職員のシフトを本格的に詰めていくことになる。

 と、その時、今際の際のセミの最期のひと鳴きのようなブザーが鳴った。スクリーン1で上映している映画がまもなく終了することを報せるアラームだった。

「お、そろそろお客さんが出てくるな」

「じゃあぼく、ちょっと行ってきます」

 脊髄反射で事務所をあとにし、受付にいるバイトの子たちにひとこと断りを入れて、まだ暗い劇場内へと体を滑り込ませた。

 扉の内側に背中をつけて、映画のキャストやスタッフの名前がスクリーンの下から上へと流れていくのを、じっと見つめた。邦画らしいしっとりとしたBGMに乗って数えきれない量の人の名前が、永遠に続くのではないかと思えるほどに長々と、もったいぶるかのように、流れていく。

 ふと、あの中にぼくの名前があったらどうなるだろう。なんてことを思う。もちろんあるはずはないのだけれど、もし仮にそこにぼくの名前があったら、自分でも探し出せないくらい小さく書かれた「枕崎雄馬」の文字を、楓や、リュウや、父さんや母さんは、ちゃんと見つけ出してくれるだろうか。

『あっ、見ろよ、雄馬の名前、あそこだ、あそこにある!』

 そう言ってスクリーンを指差すリュウの姿が頭の中にすぐに浮かんだ。それを横から楓が呆れるように『わざわざ言わなくても見えてるから』とたしなめる。そんな二人を、父さんと母さんが微笑ましげに見つめている。

 そんなことを考えているうちにエンドロールが終わり、劇場がフッとまぶたを持ち上げるように明転した。閉じた扉を開放し、その前に立って、出てくる客たち一人一人にお辞儀をしていく。

「お、君もこの映画が好きなんだな」

 最後に出てきた男性の客がぼくを見て、おやっと意外そうに眉を浮かせた。三日前にも別の映画を観にきてくれた常連の中年男性だ。

「え? どうしてですか?」

「だって君、泣いてるから。エンドロール見て泣いちゃったのかなと」

「え……」

 咄嗟に目元に指先を当てると、昨夜ですっかり枯れ果てたはずの涙が一滴、たしかに片方の目尻から頬に向かって垂れ落ちていた。

「客は相変わらず少ないけどさ、俺も最後は泣いちゃったよ。この映画は名作だよ、うん間違いない」

「名作、ですか」

「うん、少なくとも俺は、そう思うね」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、ぼくも嬉しいです」

 苦笑混じりにお辞儀をしながら、ぼくは自分の足元を見つめて、はたと気付いた。

 あぁなんだ……───。

 やっぱりぼくはまだ、死にたくないらしい。まさに今、ぼくの目から溢れ出るこの涙が、そのなによりの証拠だ。

 ぼくはまだまだ、生きていたいのだ。分かりきっていたことだけど、改めてそう感じる。

 しかしそれでも、迫りくる明日の死からは逃れられない。

 だけど生きたい。

 生きなければならない。

 生きていられる。

 この矛盾の先にある一つの答えを、ぼくはようやく、見つけたような気がした。



 いつも通り夕方の五時過ぎに仕事を終えると、ぼくは自宅マンションではなく、そのまま実家近くにある鐘山に向かった。ひと月前にぼくが楓にプロポーズをした、あの山だ。鐘山という名前は実は正式名称ではなく、見た目がお寺の鐘のようにずんぐりとしていることから、そう呼ばれるようになった俗称らしい。本当の名前はぼくもリュウも、多分、父さんも母さんも誰も知らない。

 鐘山の麓から伸びる急勾配の石階段を昇っていくと、山の中腹辺りに森の入口を差し示す看板が立てられており、そこに設られた薄暗い遊歩道を突き抜けた先が、山の反対側にある展望台となっている。

 ひと月前、ぼくはそこで楓にプロポーズをするため、真夜中に彼女を引き連れ、ここにやってきた。鐘山の展望台から望む日の出の景色は昔から地元でも有名な場所だったから、プロポーズをするなら必ずここでと、結婚を決意した頃からずっと心にそう決めていたのだ。

 ところがしばらくしてぼくたちは、自分たちが遊歩道を見失い、いつのまにか暗い森の中に迷い込んでしまっていることに気が付いた。辺りを照らすのは自分たちのスマホのライトくらいで、木々の枝葉に隠れて月も見えない。冬の虫たちがぼくたちを揶揄うようにりんりんと笑い、足を地面に踏みしめるたび枯れ枝の折れる音が、パキ、パキ、と不気味に鳴った。

 ひときわ目立つクスノキの下に巨大な岩を見つけたのは、森の中を当てもなく彷徨い歩きはじめて三十分ほどが経った時のことだった。ぼくの身の丈の半分はあり、横幅もぼくと楓が横に並んでちょうど同じくらいの、大きな岩だった。

 今回、ぼくがこの森にふたたび一人で来たのも、実はその岩をもう一度見るためなのだ。迷い込んだ森の中で偶然見つけた、巨大で、どこか神秘的な岩。あの岩には、ぼくと楓がそこにいた「しるし」が、今もまだ残されている。

 もちろん、あの岩がこの森のどこにあるのかなんて覚えているはずもなく、さらに今はすでに陽も沈んでしまって視界不良の状況なのだが、どうせぼくは明日死ぬ身だし、逆に言えば今日森に迷って死ぬことはないのだから、とりあえず、まずは深く考えずに付近を歩き回ってみることにした。

 しばらく木と木の隙間を縫うようにして進んでいると、不意に後ろからパキッ……と木の枝を踏む足音が聞こえた。

「えっ?」

 咄嗟に首を後ろに捻るが、近くには誰の姿も見当たらない。ただの空耳だろうか、あるいはひと月前の自分たちの足音の記憶が今と重なり、耳に反響したのかもしれない。

 気を取り直して前に向き直り、ふたたび森の中を進んでいく。すると、しばらくしてまた、今度は一度目よりもさらに近い背後で地面の木の枝がパキッ……と鳴った。後ろを振り返る。誰もいない。

 その後もぼくが歩くたび後ろから木の枝を踏む音が鳴り、やがていよいよその足音に背中を追いつかれそうになった時、視界前方にそびえる大きなクスノキの下に、目指していた巨大な岩が忽然と現れた。

「なんか、不思議なパワーを感じる岩だね」当時の楓の声が耳の奥側によみがえる。「なんだか神様が宿っていそうな、そんな感じ」

 あの時と変わらずそこに昂然と座す岩に向かって、ぼくはゆっくりと腕を伸ばした。指の先で少し触れると、岩肌は氷のように冷たくなっていた。ちょうど今指で触れた下の辺りに、石で削って書かれた短い文章があった。ひと月前、ぼくが落ちていた石で書き刻んだ文章だ。

『ゆうま、かえで、ここにあり』

 当時、どこか神聖な雰囲気の漂うその岩にどうしてそんなことをしたのか、自分でも正直よく分からない。なんとなく、深い森の中を彷徨い、生まれて初めて死というものを目前に実感したことで、なんでもいいからここに自分たちが生きていた証を残しておきたいと、そう思ったのだと思う。

「あ、あれ」

 と、そこで楓が岩の奥の方を指差して言う。

「あれ?」

 彼女の指先を目で追うと、遠くの方でチカチカと瞬く光が見えた。この森の終着地点。目指していた展望台の外灯の光だ。ようやく森を抜けられる。世界で一番美しい景色があそこでぼくたちを待っている。ぼくと楓はお互いに顔を見合わせ、気付けば二人で競い合うように、その光に向かって駆け出していた。

「───これ、なに?」

 いつからそこにいたのか、相変わらず神出鬼没の謎の男が、ぼくの左肩に顎を乗せるようにしながら、そう訊ねてきた。

「これは……ぼくと楓がここにいた〈しるし〉だよ」

「へぇ、よく分かんないや」

「そうだろうね」

「なんだよ、冷たいなぁ」

「……ねぇ、確認だけどさ」

「うん?」

「ぼくの死を示唆することや、君の存在を仄めかすようなことを言っても、相手には伝わらないんだよね?」

「その通り」

「逆に言えば、ぼくの死を示唆したり君の存在を仄めかしたりするようなことじゃなければ相手には伝わる」

「なにが言いたいのか分からないけど、そうなるね」

「分かった。それで十分だよ。ありがとう」

 肩をすくめるようにして礼を言い、ポケットの中からハンカチを取り出した。吐息混じりにネクタイの結び目を少しだけ緩める。ひとしきり森の中を歩いたことで、首元にはじんわりと汗が滲み出ていた。



 地元の駅から電車を乗り継ぎ、自宅マンションに戻ってくると、すでに楓も帰宅し、ちょうど風呂から上がって部屋着に着替えているところだった。スマホを見ると、夜の七時半を少し過ぎている。多分、今夜はカレーを作るから彼女も急いで帰ってきてくれたのだろう。

「あ、おかえり雄馬」

 脱衣所から出てきた楓がぼくに気付いて片手を上げる。少し顔を火照らせた彼女の髪からは新しいシャンプーの良いにおいがした。

「ただいま。楓もおかえり。ごめん、少し遅くなっちゃった」

「ううん、大丈夫。あ、カレーの材料、駅の商店街で買っておいたよ」

「あ、ぼくもそこで買ってきちゃった」

「あらま。まぁでも、多いに越したことはないし」

「ま、それもそうか」

 一度汗を流すためシャワーを浴びてから部屋着に着替えて、リビングに戻る。すでに玉ねぎを刻みはじめている楓の隣でぼくもなにか手伝いたいけど、手狭なキッチンでそれをしようとすると、ただ彼女の邪魔をしてしまうだけになる。いつか広々としたキッチンのある家に引っ越したいね。喉の先まで出かけた言葉を飲み込み、冷凍庫から作り置きしていた米を取り出してレンジに入れる。

「次に引っ越すとしたら、広いキッチンがある部屋に限るね」

 不意に楓がぼくの内心と同じようなことを言い出したので、ぼくは思わず肩を跳ね上げてしまう。

「え? あ……ああ、うん、そうだね」

「まぁでも結婚して落ち着いたらって考えると、早くても来年の今頃かなぁ」

「うん……そうかもしれないね」

 しばらくしてカレーが完成すると、ぼくたちは座卓に向き合い腰を下ろした。もくもくと湯気立つカレーの奥で、楓がキラキラと目を輝かせている。

「いただきますっ!」

「いただきます」

 スプーンを手に取り、出来たてのルーとご飯を口いっぱいに頬張る楓。ぼくも彼女に倣ってひとくち食べる。家でカレーを作るのは随分と久しぶりだが、やっぱり楓の作るカレーはどの店よりも美味しい。

「美味しい?」

 食べながら訊ねると、

「うん、はいほう」

 楓は食べながら破顔し、

「そうか、よかった」

 ぼくもそれに釣られて口元を緩めた。胸の辺りがじんわりと温かくなる。幸せそうにする楓を見ているだけで、ぼくも彼女と同じくらい幸せを感じられる。生きていてよかったと、そう思える。

 その後もいつもと変わらない何気ない会話を弾ませているうちに、気付けばぼくはカレーを食べ終え、楓の皿もほとんど空になりかけていた。

「……ねぇ、楓」

「なに?」

 楓が口にスプーンを咥えたまま、ぼくの方に目を向ける。

「ぼくと結婚するって決めてくれて、ありがとうね」

 こんなことを言ったところで、どうせ楓はすぐに忘れる。あの謎の男の謎の力によって、なかったことにされてしまう。そんなことはもう、嫌というほど分かっている。分かってはいるけど、それでも、自分の気持ちを口にせずにはいられなかった。今を逃したらもう二度と言えなくなる。正真正銘、今がラストチャンスなのだ。

「どうしたの、急に」

 楓の眉毛が怪訝そうに真ん中に寄る。

「改めてね、言っておこうと思って。大好きだよ、楓」

「……なに? なにかあった?」

「なにもないよ」ぼくはかぶりを振った。「そう、なにもないんだ」

「……変な雄馬」

「変かな?」

「変だよ」

「変だよね」

 手にしたスプーンを皿に置き、ふぅっと深く息をつく。このあとなにが起きるかは分かりきっているけど、それでもいい。もう充分、満足だ。

「でも、ありがとう。わたしも大好きだよ」

 楓は口元に微笑みを湛えてそう言うと、しかし次の瞬間には何事もなかったかのようにキョトンとした目で、

「なに? あ、カレーおかわり?」

 と、空になったぼくの皿に手を伸ばすのだった。



『12月4日

 昨日の日記を改めて読み返してみて、もはや日記の形にすらなっていないなと今さら気がつく。なので気を取り直して昨日のことから。昨日は両親に会いにいった。相変わらず元気そうで安心した。最後の別れはすごく辛かったけど、昔みたいに二人に見送ってもらえて幸せだった。夜は楓とリュウと三人でイタリアン。今日はいつも通り仕事だったんだけど、明日死ぬからか、思わず泣いてしまった。夜は久しぶりに家でカレーを作って楓と食べた。楓の大好物のカレー。どれだけ不本意な状況であっても、自分の最後のばんさんが大好きな人と一緒に食べる大好きな人の大好きな食べ物というのは、もしかすると人間として、これ以上ない幸せなのかもしれない。美味しそうにカレーを食べる楓を見て、そう思った。今、楓は先にベッドで眠っている。だからぼくはこれをひとり座卓に座って書いている。この日記を書くのも今日で最後だ。ぼくは明日死ぬ。やり残したことはたくさんあるけど、結局、それが人生というものなのだろう。仮に明日死なずに10年後、20年後に死んだとしても、ぼくはきっとやり残したことを思い返して後悔するだろう。ぼくも眠たくなってきた。どんな夢を見るだろう。良い夢だったら嬉しいけど、まぁなんであれ、明日の朝、隣で楓が寝ていてくれればなんだっていい。明日も良い一日になりますように』


 時刻は夜の十一時。ベッドで寝静まる楓を横目に書き終えた日記を仕事鞄に仕舞い込み、ぼくは、手持ち無沙汰に部屋をうろつく謎の男に声をかけた。

「君に叶えてもらう最後のお願い、やっと決まったよ」

「お! やっとか。どぉれ、聞かせてみな」

 男は嬉しそうに声を弾ませ、ぼくの隣にどかっと座った。

「よくよく考えて、これが一番だと思う」

「うんうん、そんなのはいいから、早く言いな」

「過去に、戻してほしいんだ」

「は?」

「行きたい過去があるんだよ」

「過去って……あのね君、いくら過去に戻ったところで、君が明日死ぬという未来は変えられないよ?」

 男の眉毛が拍子抜けしたようにぐにゃりと歪む。散々悩んだ挙句に出した答えがそれかと呆れているのだろうか。

「分かってるよ。ただ一日、いや、その瞬間だけでいいから、もう一度その時に戻って、感動を味わいたいんだ。まさか出来ないなんて言わないよね?」

「そりゃあ出来るけど、そんなんでいいの?」

「うん、それがいい」

「で、どの過去に戻りたいのさ」

「ぼくと楓が初めて出逢った日」

「ふーん。本当に最後のお願いがそれでいいんだね?」

「うん、いい」

「分かった。じゃあそれにしよう。これから君はあの子と出逢った日に戻る。出逢いが終われば、またこの世界に戻ってくる。それでオーケー?」

「オーケー」

「よし、じゃあそういうことで」

 男はぼくの眼前に腕を突き出すと、3、2、1と数えて、指を鳴らした。





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