●わたし● 3
◆
梅雨入りはまだまだ先だというのに、外は相変わらずの雨が続いている。窓を打つ雨の音で目を覚ましたわたしは、どろりとこぼれ落ちるようにベッドから下りると、洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。目の前の鏡を見ると、不健康そうなクマを目元に滲ませた自分の顔がそこに映っている。とても人様に見せられるような状態じゃないが、わざわざ今から化粧をする気にもなれなかった。
適当に支度を済ませて、部屋を出る。最寄駅から電車を二度ほど乗り換え、京王線の下高井戸駅で降車した。初めて降りる駅だが近くに大学があるらしく、駅前の商店街は雄馬と同棲していた頃の駅前の商店街とよく似ていた。
送られてきた地図を頼りに商店街を歩いていくと、正面右手側に全国チェーンのファミレスが見えてきた。途端に自分の足取りが重たくなるのが分かる。溜息混じりに中に入ると、店の奥角のテーブル席に見慣れた男性の姿があった。
「おう楓、こっちこっち」
「久しぶり、お父さん」
わたしは無表情のまま歩み寄り、お父さんの向かいの椅子に腰を下ろした。ワイシャツのボタンが弾けてしまいそうなくらいに膨らんだお腹や、口周りの汚い無精髭は相変わらず。聖母のように優しかったお母さんが、この人の度重なる浮気とギャンブル癖に愛想を尽かして離婚を言い渡したのは、わたしがまだ小学生の時だった。
やってきた店員にアイスコーヒーを一つ頼むと、お父さんはわたしのその注文と店員の了解の隙間に言葉を挟み込むように、「あ、俺はじゃあ、チョコレートパフェにしようかな」と調子良く言った。
スマホの液晶画面を表向きにしてテーブルに置く。時刻はちょうど昼の十二時。土曜の昼だからか店内はそれなりに混み合っている。
「いやぁ、本当に久しぶりだよな。一年ぶりくらいか? 今年の正月だってお前、会ってくれなかったもんなぁ」
「わたしだって別に、ヒマじゃないから」
「そうかそうか、ヒマじゃないのはいいことだ」
お父さんが下手くそな相槌を打つたび、顎下の贅肉がたぷたぷと揺れる。子供の頃はその肉の隙間に指を差し込みキャッキャと笑っていたけど、今はもう、それを見てもただ不快にさせられるだけだ。
「お前、今年でいくつになった? 四十か?」
運ばれてきたチョコレートパフェのクリーム部分を、まるで行儀を知らない幼子のようにスプーンの先でブスブスと混ぜ崩しながら、お父さんが言う。
「まだ三十だよ」
「うげ、もう三十かよ。おちおち若いなんて言ってられないな」
「別に言ってないし」
どうしてこんな人と結婚したのとお母さんに問い詰めたことも一度や二度ではない。けれどお母さんはそんな時、いつも困ったように眉を垂らして、昔はカッコよかったんだよ、今も良いところはあるんだよ、と笑うのだった。離婚後も、病気で亡くなる直前になっても、お母さんがお父さんの悪口を言うことは決してなかった。少しくらい悪く言えばいいのにと歯痒く思う反面、わたしはそんな優しいお母さんが大好きだった。お母さんの死後、しばらくお父さんの家で二人で暮らしたけれど、お母さんの言う「お父さんの良いところ」はついぞ見つけられないまま、わたしは大学進学と同時に、お父さんのもとから逃げるように家を出た。
「仕事はどうだ?」
「ボチボチだよ」
「どんな仕事してるんだっけ?」
「図書館」
「あぁ、そうそう、図書館だ、図書館」
顔にある穴という穴を広げて頷くせいで、見たくもない、パフェで汚くなったお父さんの口の中が目に入ってしまう。
「そんなおっきく口開けないで、汚いから」わたしは堪らず顔を歪めて、窓の外の方に視線を逃す。
「結婚はどうなんだ、そろそろしておかないとヤバいだろ」
「別にどうでもいいでしょ、そんなこと」
早くも表面張力を起こしたお父さんへの嫌悪感を胃の中に押し流すように、出されたアイスコーヒーをひとくち飲み込む。
この、いかにも前時代的な男性が今どこでどんな仕事をしているのか、それどころか新しい家庭があるのかどうかも、わたしはよく知らない。嘘か真か、こんな見た目をしているくせに若い頃から女性にはよくモテてきたそうだから、再婚はしていなくとも、それらしい相手の一人か二人はいるのかもしれない。
「ほら、前に言ってた、あの……なんていったか、付き合ってる男がいたろ。あいつと結婚はしないのか?」
「…………」
雄馬の存在はすでにお父さんにも話していたけど、その雄馬がもうこの世にはいないという話はまだしていなかった。そもそも恋人がいるという話をこの人にしたこと自体、失敗だったのだ。それ以来、お父さんはわたしに会うたび、人生の先輩風や父親風を吹かせてくるようになった。やれ結婚とはこうだ、男とはああだと、そうやってその都度聞かされるお父さんからの有り難い金言は、正直わたしにとっては───特に今は、ただ苛立ちを増長させるだけの不快なノイズでしかないのだった。
「たしか、一緒に暮らしてるんだろ?」
「……もう別れたよ」
咄嗟に、そんな風に嘘をついてしまう自分が馬鹿みたいで、情けない。
「別れた? お前それ、お前……なんてもったいないことを……。三十過ぎた女を貰ってくれる男なんて、そうそういないぞ?」
「お父さんには関係ない」
「関係ないことはないだろ。いいか、結婚ってのはな」
「……自分のせいで家庭を壊した人が、偉そうなこと言わないでよ」
「あぁ?」
「わたしやお母さんを苦しめ続けた人が、偉そうなこと言わないで……!」
両手で頭を抱えるように顔を俯し、思わず荒げたわたしの声は、外の雨音に紛れてすぐに消えた。乱暴に立てた膝がテーブルを揺らし、グラスのアイスコーヒーが驚いたようにピチャンと跳ねる。なにも知らないくせに分かったようなことばかり言うお父さんが腹立たしくて仕方なかった。
「な……なんだよ、そんな怒るなよ急に、なんか嫌なこと言ったのなら謝るよ」
今さら声を詰まらせ謝るお父さんだが、自分がなぜ怒られているのかは、どうせ分かっていないに違いない。
「……ごめん、でも、お父さんは心配しなくて大丈夫だから」
「あ……あそうだ楓」と、そこでお父さんは無理やり取り繕うように少し早口になって話題を変えた。「今日はお前に、お願いがあるんだよ」
「お願い……?」
「ほら、八月の二十日は母さんの命日だろ? 今年こそはさ、どうか二人で墓参りに行けねぇもんかな」
「ダメだよ、ダメに決まってるじゃん」
伏せていた顔を持ち上げ、眉をひそめる。性懲りもなくなにを言っているんだと、この人の神経を疑いたくなる。
「なんでだよぉ」
「なんでもなにも、今さらどんな顔してお母さんに会うつもりなの」
お母さんが他界してから十年以上が経った今尚、わたしはお父さんと二人でお母さんのお墓参りに行ったことがない。お父さんはお父さんで時々一人で足を運んではいるようだけど、二人で一緒にお墓を訪ねたことは一度もない。
「でも、俺ももう十分に反省したぜ?」
「一人で行くのは勝手だけど、わたしは絶対に一緒には行かないから」
「一緒に行かなきゃ意味がないだろ?」
「ごめん、何度お願いされても、それだけは無理」
表向きに寝かせたスマホに指先を当てる。画面が明転し、今の時刻が映し出される。十二時十五分。まだここに来てから十五分しか経っていない。だけどもう、我慢の限界。わたしは透明の筒に丸めて入れられた伝票を抜き取り、席を立った。アイスコーヒーとチョコレートパフェで1000円ちょっと。お父さんの分までわたしが支払うのは癪だけど、お父さんに奢られてしまうのはもっと癪だ。
「おい、待てよ楓」
急ぎ足でレジに向かおうとするわたしの背中を、お父さんが呼び止めてくる。
「なに?」
「次はいつ会える? 美味いカレー屋に連れてってやるよ。お前、子供の頃からカレー好きだったろ」
お父さんはお母さんを不幸にした。わたしのことも、ちょっとだけ。そんな人と会ったところで心が擦り減るばかりで良いことなんてひとつもない。だから、できることならもう会いたくないのだ。会いたくないのに───。
「また、連絡するから」
と、そう言ってわたしはふたたびお父さんに背を向け、店を出た。
◆
下高井戸駅から京王線に乗り、新宿で降りて、自宅の最寄り駅までの路線に乗り換えようとしたところで、ふと思い留まり、地上に上がった。
東口から新宿通りを三丁目方面に向かって歩いていく。しばらくしてケーキ屋のある十字路を右手に曲がると、生前に雄馬が働いていた映画館、『シネマ・グリュック』が見えた。建物の壁面にズラリと映画のポスターが飾られており、その横にあるガラス扉をよく見ると、「閉館のご案内」と書かれたA4の紙が張り出されている。
シネマ・グリュックが今年の冬で閉館になると報されたのは、去年の年末のことだった。ここ数年の経営不振の影響もあり、この劇場を管理している本社が、開館百周年を一つの区切りとすることにしたらしい。
それを雄馬の上司で、その時すでに劇場支配人の座は辞し本社に移っていた飛田さんという方が、わざわざわたしのもとまで報告しにきてくれたのだ。飛田さんは雄馬の葬式で誰よりも声を鳴らして泣いていたから、わたしもその存在自体は認識していたけれど、まさかその人がわざわざそれだけを言うために会いにきてくれるとは思ってもおらず、彼が雄馬の両親伝いにわたしの家に現れた時は、かなり驚いたものだった。
閉館の張り紙を見つめながら何気なくその時のことを思い出していると、目の前の扉の向こう側から、その飛田さんがひょこっと姿を現した。脇には筒状に丸められた映画のポスターが挟まれている。入口のポスターを新しいものに入れ替えるつもりなのだろう。
「あらら、楓さんじゃない」
飛田さんはわたしに気付くと、恰幅のいい体をポヨンと弾ませた。
「お久しぶりです」傘を畳んで頭を下げる。天気は相変わらずの雨模様だが、入口から少し張り出した庇が、わたしたちをその雨から守ってくれている。「この張り紙……本当にあと半年で終わっちゃうんですね、ここ」
「ああ、まぁね」
「寂しくなります」
「ここみたいな小さな映画館はもう、シネコンさんには歯が立たないからね。ま、時代の流れには逆らえないってことさ。……あ、そうだ!」と、そこで飛田さんが眉を浮かせて、パチンと手のひらを叩いた。「ちょうどいい。ちょっと前から少しずつ事務所の整理を進めているんだけどね、さっき雄馬のデスクを片付けてたら、なんか、あいつのノートが出てきたんだよ。せっかくだから持っていってくれないかな」
「ノート、ですか」
「日記帳みたいなやつでね。今持ってくるから、少し待ってて」
飛田さんはそう言うと一度建物の中へ戻っていき、しばらくしてまた、わたしのもとへ帰ってきた。彼に手渡されたノートには、たしかに表紙に雄馬の名前と「日記」の二文字が書き記されていた。
「雄馬……日記なんて書いてたんだ」
「日記っていっても、あいつが亡くなる数日前からの日付と短い文章が書かれてるだけで、ほとんどメモみたいなものだったけどな。楓さんの名前も、そこに出てきてたよ」
「わたしの?」
パラパラとページをめくってみると、たしかに、ほとんど白紙の中に数カ所だけ、懐かしい雄馬の文字でその日の日付と短い言葉が書き残されていた。
『12月1日
楓と二人で表参道のカフェへ。そこで不思議の国のアリスのグッズを衝動買い。』
『12月2日
カウンターで坂田くんにリュウのことを聞かれる。そしたらその夜、花園神社でそのリュウと偶然会った。いまだにゴールデン街で飲み明かしているらしい。』
『12月3日
』
『12月4日
昨日は両親に会いにいった。相変わらず元気そうで安心した。夜は楓とリュウと三人でイタリアン。夜は久しぶりに家でカレーを作って楓と食べた。楓の大好物のカレー。眠たくなってきた。どんな夢を見るだろう。良い夢だったら嬉しいけど』
本当に短くて、当たり障りのない文章だった。日記なんてそんなもんだと言ってしまえばそれまでだけど、こうしてその日一日の出来事を要約し、端的に文字に起こしてしまうと、どうしても淡白な印象は拭えない。
もっと他にもたくさんあったはずなのだ。取るに足らない些細な出来事が、わたしでさえ思い出せないようなことが、もっと他にもたくさん。
雄馬はどうして、こんな日記を書いたのだろう。
「これ、わたしが貰っていいんですか?」
「もちろんだよ。それは楓ちゃんが持っているべきだ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
「それしても……今年の十二月でもう二年が経つのか。時が経つのは早いものだな」
「ええ、でもわたしには、とても長く感じられました」
「……そうか」飛田さんは頷くように首を上下に軽く揺らすと、「あ、そうだそうだ」と明るい声で話題を変えた。「この張り紙にも書いてあるけど、年末にサヨナラ上映会ってのをここでするんだ。楓さんもぜひ来てくれよ」
「なにを上映するんですか?」
「俺もまだ詳しくは知らないけど、なんか、この劇場の百年の歴史の中で特に集客が多かったものを上映するつもりでいるらしい」
「へぇ、すごい。絶対に行きます」
「おう、楽しみにしといとくれ」
飛田さんが筒にしたポスターで手のひらをポンッと叩いたその音が、雨音の中でもなぜだかやたらと軽快に聞こえた。
◆
その後、わたしはシネマ・グリュックからそのまま駅を通り過ぎ、近くの花園神社に足を向かわせた。特別お参りがしたかったわけではない。ただ雄馬の職場の前で雄馬の元上司と話しているうちに、かつて雄馬がよく通っていたというこの神社に、わたしも足を運んでみたくなったのだ。
わたしもここには一度、雄馬と二人で来たことがあった。彼が亡くなる一ヶ月前、婚約の報告をするため彼の実家を訪ねた日の午前中だ。
ただの報告なんだからそんなに心配する必要はないと雄馬は言うけれど、定職にも就いていない夢追いのわたしとしてはやはり不安で、「雄馬の両親がわたしを受け入れてくれますように」と神様にお参りをしてから挨拶に行きたいと頼んだのだ。
結果として、わたしのそんな不安は雄馬の言う通り杞憂に終わり、彼の両親とはすぐに打ち解けることができた。そして雄馬は、あとになって神様にお願いする必要なんてなかったねととぼけるわたしに、「楓が神様にお願いしてくれたからだよ」と、クシャッと顔を崩して笑うのだった。
なにか大切なものを探して箪笥の引き出しを上から順に開けていくみたいに、昔の記憶がまた別の記憶をよみがえらせる。十年前の九月、大学近くのマクドナルドで、雄馬がわたしに告白をしてくれたあの日の記憶。
「ねぇ枕崎くん、お願いがあるんだけど」たしか、わたしの方からそう切り出したのだ。
「お願い?」
「今度からわたしのこと、下の名前で呼んでくれない?」
自分でもこの時は少し強引だったなぁと今でも思い返して笑ってしまう。口ではお父さんの苗字で呼ばれるのに抵抗があるからと説明したけど(実際にそれも嘘ではない)、本当はただ雄馬にわたしの名前を呼んでほしかっただけなのだ。
「いいけど、じゃあ、楓ちゃん? なんか恥ずかしいね」
「うん、でも、やっぱりそっちがいい」
初めて雄馬に下の名前を呼ばれた時の、あの多幸感。
「それじゃあ、楓ちゃんもぼくのことは下で呼んでよ」
「えー、雄馬くん?」
初めて雄馬を下の名前で呼んだ時の、あのときめき。
「よし、これでおあいこだね」
慣れた様子で言う雄馬とは対照的に、この時のわたしの心臓はバクバクと青天井に高鳴るばかりで、頭も真っ白になっていた。
「ふふふ、たしかに、なんだか気恥ずかしいね」
笑ってごまかしてはみるけれど、わたしは恥ずかしさのあまり、彼の顔さえしばらく直視することができなかった。
「うん、ちょっと照れくさい」
そのあと雄馬が突然、なにか閃いたような顔でわたしに好きだと言ってきたのは、ちょうどトレイの上のハンバーガーとポテトをお互い食べ終えた頃だったはずだ。どうしてあのタイミングで雄馬はわたしに告白をしたのか。何度か理由を訊ねたことはあるけれど、彼がその答えをわたしに教えてくれることは、ついぞなかった。
雨で濡れた神社の階段にハンカチを敷き、わたしはそこに腰を下ろした。道中にコンビニで買ったメロンパンをバッグから取り出していると、前方からピチャピチャと水溜りを踏む足音が聞こえた。
「あれ……もしかして、楓ちゃん?」
聞き慣れた声に肩を弾ませ視線をやると、階段の少し下のところに、傘の柄の湾曲した部分に本屋の袋をぶら下げて立つリュウくんの姿があった。
「リュウくん……? なんでここにいるの……?」
見下ろすわたしの口から、掠れた声がこぼれ出る。
「なんでって、この辺に住んでるんだからそりゃいるだろ。今は本屋の帰りだ」
リュウくんはそう言うと、雨でお尻が濡れてしまうのも厭わず、わたしの隣に腰を下ろした。
「そういえば引っ越したんだったね」
「おう、半年くらい前にな」
「もしかして会うのって、そのことをわたしに報告してくれた時以来?」
「あー、そうかもしれないな」
「久しぶりなんだね。……食べる?」
わたしは取り出したメロンパンを半分にちぎり、その片割れをリュウくんにあげた。
「お、サンキュー。ちょうど小腹が空いてたんだ」
「それ、なんの本買ったの?」
リュウくんの太ももの上に場所を移した本の袋を目で差して訊ねる。
「ああこれ、これはな、量子力学の本だ」
「リョウシリキガク?」
なんとなく聞いたことがある言葉のような気もするけれど、気がするだけで、全然ピンとは来ていない。
「分量の量に子供の子、力に学ぶで、量子力学。まぁ物理学の仲間なのかな。担当がさ、次は量子力学をテーマにした小説を書いてくれって言うんだよ」
「でも、リュウくんって理系じゃないよね?」
「根っからの文系。だからこうやって勉強してるんだよ。つっても、いまだに全然理解できてないけどな」
「へぇ。で? どんな学問なの、その量子力学って」
「うーん、おれもよく分かんねぇんだけど」言いながら、リュウくんはひとくちメロンパンをかじる。「たとえばさ、量子力学の世界には非局所性っていう言葉があって、これは、お互いに遠く離れた場所にある物体と物体が瞬間的に影響し合う現象なんだけど、いわゆるテレパシーとかテレポーテーションとか、そういうSF的な話だと思っていたものが、実は科学的に実証できるんじゃないかって、そういう話だ。多分だけど」
「……全然意味が分からない」
「俺も分かんねぇんだって。でもさ、たとえばA地点でなにかがピカッと光る時、おれたちはなにもしていないのに、そこから遠く離れたB地点でも同時になにかがピカッと光るところを想像したら、なんか、ゾクゾクしないか?」
「うーん……」
「なんだよ楓ちゃん、元気ねぇな」
リュウくんがもどかしそうに眉根を寄せる。たしかに、わたしから訊ねておいて今の反応はないよな、とは思う。
「そう? 最近、いろいろあったからかな」
「いろいろ? あぁ、布田ちゃんのことか」
「それもあるけど」
「それもって、他になにかあったのか?」
「これ」
右手で差していた傘を左手に持ち替え、バッグの中から先ほど飛田さんに貰った雄馬のノートを取り出す。リュウくんにそれを渡すと、彼は片手で器用にページをめくり、少し怪訝そうな目でわたしを見返してきた。
「これ……雄馬の、日記か? 意外だな、あいつが日記をつけてたなんて」
「わたしも意外だった。でもなんか、それを読んでわたし、不思議な感覚になったんだよね」
「不思議な感覚?」
「なんというかさ、雄馬は本当はそこにもっと別のなにかを書きたかったんじゃないのかなって思うの。もっとたくさん、いろいろあったから」
「いろいろって?」
「それはわたしも覚えてはないけど……」
自分でも支離滅裂なことを言っている自覚はある。だけど、それでもやっぱり心のどこかでちょっとしたモヤモヤを感じてしまう。喩えるなら、いつもの道を歩いているとき不意にどこからともなく懐かしいにおいが漂ってきて、嬉しい気持ちになると同時に、それをどこで嗅いだのかどうしても思い出せずにモヤッとしてしまう、あの感覚に似ているだろうか。
「ふー……ん」リュウくんは鼻から息を吹き出すと、開いていたノートを畳んでわたしに返した。「でも結局、思い出ってのはそういうもんなんじゃねぇの?」
「そういうもん?」
「文字っていう客観的に記号化された概念だけでは表せないもの、両手で掬い上げた砂が指の隙間からサラサラとこぼれ落ちていくみたいに、言葉の網目から抜け落ちてしまった何気ない出来事にこそ、思い出というものの本質は詰まっているんだ」
「なにそれ、リュウくん、なんか哲学者みたい」
「人間はみんな哲学者だよ」
「……ねぇ、リュウくん」
バッグの中にノートを戻し、視線を太ももの上に俯して言う。
「ん?」
「なんで雄馬は、わたしのことを好きになってくれたのかな」
「うーん……」と、リュウくんはひとこと唸り、食べかけのメロンパンを顔の前まで持ち上げた。「そりゃあ、これだよ」
「メロンパン?」
「楓ちゃんは自分のメロンパンを躊躇なく隣の人に分けてあげられる。雄馬はきっと、楓ちゃんのそういうところに惚れたんだと思う」
「躊躇なくって、別にただのメロンパンだし。ていうかわたし、雄馬にメロンパンを分けてあげたことなんてないと思うけど」
「まぁなんにせよ、雄馬も多分、楓ちゃんという存在になにかを感じたんだよ。運命的ななにかをな」
「よく分かんない」
「ああ、恋も量子力学も、分からないことだらけだ」リュウくんはそう言うと、残りのメロンパンをひとくちで平らげ、立ち上がった。「さて、おれはそろそろ行くよ」
「帰るの?」
「なに言ってんだ、今から飲み屋で女の子をナンパしに行くんだよ」
「まだ夜にもなってないのに。まぁ好きにすればいいけど」
「ああ、好きにする」
「でも、ナンパに今の量子力学の話を使うのはやめといた方がいいよ」
「え、なんで?」
「多分、引かれるだけだから」
「惹かれる、の間違いだろ」階段を昇りきったリュウくんが、拝殿を背にしてくるりとこちらに体を向ける。気付けば雨は止んでいて、分厚い雲の隙間からうっすらと小さな太陽が滲んで見えた。「そうだ楓ちゃん、雄馬がなんで楓ちゃんを好きになったのか、そんなに気になるなら俺なんかに訊くより、ここの神様に相談するといい」
「ここの神様に?」
「ああ。きっと楓ちゃんの話なら、いくらでも聞いてくれる」
「なにそれ、意味分かんない」
「ここの神様は、楓ちゃんのことが大好きなんだよ」
そのままリュウくんはわたしをその場に残し、奥にあるゴールデン街へと姿を消した。