◯ぼく◯ 3
◇
暗い森の中を、一人で歩く夢を見た。ちょうど、ぼくの地元にある鐘山の森を夜中に楓と二人で歩いて、展望台から望む日の出の景色と共にぼくが彼女にプロポーズをした、あの日と同じような夢だった。
夢の中でぼくはしばらく森の中を練り歩き、やがて大きな岩の前で立ち止まった。この岩もまた、見覚えのある岩だった。
その岩に向かって突然、ぼくの腕が前に伸びた。伸びた、というのは、自分の意志とは関係なく、腕が勝手に動いたということだ。この時、ぼくの腕はぼくの腕ではなかった。ぼくの目はぼくの目じゃなく、ぼくの体はぼくの体じゃなかった。
ぼくの指先のようでいてぼくのではない指先が、ゴツゴツとした岩肌に優しく触れる。ぼくの皮膚のようでいてぼくのではない皮膚がそこにヒンヤリとした冷たさを感じる。
でも、感じているのは、他でもない、ぼく自身なのだ。
もちろん意味はまったく分からない。けど、すでにこれが夢だという自覚はあるので、さして驚くこともない。
その時、暗がりの頭上でシャボン玉のような泡が二つ、ぷかぷかと無軌道に浮遊しているのが見えた。二つの泡はたまに近づくもののぶつかりはせず、ギリギリのところですれ違ってはまた各々自由に宙を飛び回る。
ところがある瞬間、その泡たちは、まるでお互いの磁力に引き寄せられるかのように同じところを目指して進み、ぶつかり、そしてパチンと小さな音を鳴らして、弾けた。
すると突然、木々の隙間から鋭い横風が頬に吹きつけ、ぼくはその寒さのあまりにガバッと体を跳ね上げ、目を覚ました。
寝ぼけ眼で辺りを見渡す。楓と二人で暮らしている部屋だ。どうやら昨日、座卓でうたた寝をしたまま、毛布もかけずに夜を明かしてしまったらしい。指先に冷たさを感じて見てみると、昨日楓が作り置きしてくれていたおにぎりの皿を、まるで誰かの肩に縋りつくように掴んでいた。
楓はまだベッドで寝ている。時刻は朝の六時二十分だった。あと十分で楓のスマホのアラームが鳴る。今からお湯を沸かせば、ちょうど彼女が起きるタイミングで、淹れたてのコーヒーを出してあげられる。
冬の冷気で固まりかけた体でなんとかキッチンに移り、薬缶に水を入れ、ひと口コンロに火をつける。それから十分、時刻が六時半になると同時に楓のスマホが喚き出し、ぼくは二人分のマグカップを座卓に置いた。
「おはよう」
「おはよう、コーヒーありがとう。あれ、今日は仕事休みじゃなかったっけ?」
「まぁね。でもちょっと行きたいところがあって」
「そっか……」
なにか言いたげな目でこちらを見ながら唇をくちばしにしてコーヒーを飲む楓の姿に、ぼくは少し嫌な予感を覚えた。
「どうした? なにかあった?」
「え?」
「なんか言いたそうな顔してるから」
「あぁ……うん、えっとね……」楓は唇のコーヒーを親指で拭い、深く息を吸い込むようにしてから、言った。「あのね、わたし、昨日のオーディションがもしダメだったら、女優はもう諦めてもいいかなぁ……なんて思ってるんだ」
「え……」
思いも寄らないその一言に、ぼくは言葉を失ってしまう。
「いや、別にもう決めたってわけじゃないけど、けど……それも一つの道かなって。やっぱりダメ、かな?」
「…………」
「雄馬?」
「……ううん、ダメじゃないよ。楓の人生は楓のものなんだから、楓がそうしたいと思うようにするのが一番だと思う」
そう言ってあげる以外に、ぼくになにが言えただろう。あとわずか数日で死んでしまうこのぼくの言葉に、どれほどの力が残っているというのだ。
この時、ぼくはふと気が付いた。これまで楓がぼくと共有していた彼女の夢は、ぼくが死ぬと同時に、彼女一人に繋がれた重たい鎖になってしまう。彼女の尊い夢が、彼女を苦しめる呪いに変わってしまう。そんな状況なのに、夢を諦めるな、なんて無責任な言葉を軽々しく言えるはずがないではないか。
「なんかごめんね、朝からこんな話」
「ううん、大事な話だ」
「わたしたち結婚するんだし、そういうのもアリかなって。やっぱり、二人にとって一番良い答えを出したいもん」
「……ああ、そうだね」
どうしようもなく、涙が溢れ出てきそうだった。だけど、そんなぼくと同じくらい、楓も泣き出してしまいそうな目をしていた。彼女が相当の覚悟を持って打ち明けてくれた想いを、ぼくは正面から受け止めてやることができない。どれだけ必死に全身を広げてみても、彼女の想いはぼくの体をすり抜けていく。それが悔しくて悔しくて仕方なかった。
「あ、そうだ」と、ぼくはそれをごまかすように、かすかに震える口で無理やり明るい声を出した。「今夜、リュウが夜ご飯に誘ってくれてるんだけど、楓も一緒に行かない?」
「うん、行く行く!」
楓も無理に声を明るくしてくれているのがよく分かるから、余計に胸が締めつけられる。
「じゃあまたあとで詳細が分かったら連絡入れる」
「やったね、今日の仕事にも俄然やる気が出る」
「リュウのことだから多分、めちゃくちゃ美味しい店に連れてってくれるはず」
「ふふふ、楽しみ」
楓は目を糸にして微笑み、持ち上げたマグカップで口元を隠した。
◇
楓が部屋を出ていくのを見届けたあと、ぼくもさっそく身支度を始めた。といっても両親に会いにいくだけだから、身支度というよりはむしろ、心の支度と言った方がいいのかもしれない。とうに見飽きた両親の顔でも、今日で見納めになると思えば気持ちは忙しない。当たり前だが、婚約者として楓を家に連れていった時よりも緊張している自分がいる。果たしてどんな顔をして二人に会えばいいのか分からなかった。
自宅の最寄駅からまずは新宿に向かい、そこから別の路線に乗り換え、三十分。東京郊外の駅で降り、さらにそこからバスで数分揺られた先に、ぼくの実家のマンションはある。住所こそ東京都だが、国道を逸れた途端に広がる長閑な景色は、いかにも関東の片田舎といった風情がある。
十三階建てのマンションを下から仰ぐと、今のぼくの鬱々とした感情を嘲笑うかのような快晴の空が、どこまでも青々と広がっていた。そこからまっすぐ視線を下った三階のところに見えているのが、ぼくの実家のベランダだ。父さんのトランクスが風に吹かれて、ヒラヒラと心地良さそうにそよいでいる。
時刻は午前十時を少し過ぎている。エントランスの自動ドアを抜け、二基並んだエレベーターの前に立つ。すると、ちょうどそのタイミングで目の前の扉が左右に開き、中から若い女性と小さな女の子が手を繋いで降りてきた。数年前に一つ下の階に越してきた親子らしいが面識はない。ぼくは軽く頭を下げて挨拶し、閉じようとする扉の中に体を滑り込ませた。
頭上の階数ランプが「3」のところで点灯し、チン……と情けない音を立てて、ふたたび扉が左右に開く。目を閉じ、息を深く吸い込む。アスファルトと土埃が混じったような、ここでしか嗅いだことのない古巣のにおいを肺に溜め込む。目で見なくても、体がちゃんと覚えている。エレベーターを降りて大股で八歩目。高校を卒業するまでの十七年間、毎日往復し続けた外廊下。そこから望む地元の景色。すぐ近くに鐘山が見える。あの山の森の反対側にある展望台で、ぼくは楓にプロポーズしたのだ。体の向きを変える。303号室の部屋番号。その下に取り付けられた「枕崎」の表札。これまで幾度となく開閉してきた茶色の玄関。そして、これからも幾度となく握るはずだった銅色のドアノブ。
そんなこと、今まで一度も考えたことはなかった。だけどあの男に死の宣告を受けてからというもの、なにかにつけてそんなことばかりを考えるようになった。生まれてきたばかりの赤ちゃんが経験する一つ一つの出来事がすべて新たなものであるように、これからぼくが経験する出来事はすべて、ぼくにとって最後のものになりうるのだ。
気を取り直してドアフォンを押そうとすると、玄関の向こう側から聞き慣れた母さんのハミングが聞こえた。両親には今日ぼくがここに来ると事前に伝えているから、多分、ちょうど食事の用意をしてくれているところなのだろう。母さんは昔から料理をする時、必ずなにかを口ずさんでいた。父さんは父さんでその歌が始まると、いつも決まって下手くそなダンスや踊りを披露してくれた。若い頃から二人は呆れてしまうくらいに仲の良い、絵に描いたようなおしどり夫婦だった。
そういえばあれはまだぼくと楓が付き合う前、初めて大学の外で二人で会った時のことだった。まだお互いのことなどなにも知らない状態で、ぼくが両親の笑い話やリュウのバカな話をしていると、楓がクスクスと面白そうに笑った。「なにか変なこと言った?」と訊ねると、彼女は「ううん、そうじゃなくて」と言って、かぶりを振った。
「なんていうか、誰かに自分のことを紹介する時、まず真っ先に両親や友達との楽しげな話ができる人生って、すごく素敵だなと思って」
「そう……かな?」
「うん、だって今の話を聞いただけでも、枕崎くんのこれまでの人生が充実してたってことが充分に伝わってきたもん」
「それ、喜んでいいやつ?」
「もちろん。喜んでいいし、誇ってもいいやつ」
自分にとって当たり前のことすぎてそれまで脳裏にもよぎらなかったけれど、たしかにぼくのこれまでの人生は周りの人たちのおかげで随分と充実していたように思う。明るい家庭環境のなか育ち、頭を空にして笑い合える親友に恵まれ、そして、人生のすべてを捧げたいと思える女性に出逢うことができた。理想的な人生だ。だからこそ、捨てがたい。いま死んでしまうには、あまりに惜しすぎる。
ドアフォンを押すと、すぐに「はいはーい」とこちらに近づいてくる声が聞こえた。ガチャリと玄関が開かれる。中から母さんが顔を出す。そのすぐ後ろには父さんの姿もある。父さんはすでにワイシャツとスラックスを着ていて、あとはネクタイを締めて上着を羽織ればすぐに仕事に出られるような格好だ。
「おかえりっ、雄馬」母さんは恥ずかしげもなくぼくの体を抱き寄せる。
「ただいま、母さん。相変わらず今日も歌ってるね」
「あら、外まで聞こえてた?」
「うん、めちゃくちゃ聞こえてた」
「おかえり、雄馬。外、寒くなかったか?」
母さんの後ろから父さんが言う。額が少し汗ばんでいるところを見るに、多分、今日も母さんの歌に合わせて踊っていたのだろう。
「いや、そこまで寒くはないかな」母さんの肩越しにぼくは答える。「それより、仕事は大丈夫なの?」
「お前が帰ってくるって言うから、急遽、会社に連絡して午前休をもらったんだ」
「自由だなぁ」
父さんは都内の小さな広告代理店でかれこれもう四十年近く働いていて、詳しくは知らないけれど、今はそれなりにいい役職に就いているらしい。ちなみに、父さんの最大の自慢は二十年近く前、自分の目利きでCMに推した当時無名の俳優が、のちのちハリウッドのレッドカーペットを歩いたことだそう。母さんも昔は同じ職場で働いていたそうだけど、ぼくが生まれたのを機に退職し、専業主婦になった。
「とにかく上がれよ、コーヒー飲むだろ」
「お、サンキュー」
玄関を上がり、父さんがコーヒーを淹れてくれるのを待つ間、ぼくは母さんとリビングのソファに腰を下ろした。キッチンから香る出汁のいいにおいの正体はおそらく、母さんの得意料理の親子丼だろう。
「調子はどう?」母さんが訊ねる。
「まぁ、ボチボチだよ」
ぼくは肩をすくめて本当のことをはぐらかす。二日後に死ぬなんて話を実の母親にできるはずもなく、したとしても母さんはまず信じないだろうし、そもそもしたところで、またあの謎の男の謎の力によってなかったことにされてしまう。
「楓さんは元気?」
「元気だよ。今日も朝から仕事に行ってる」
「それならよかった。元気が一番だからね」
ソファの手前に年季の入ったローテーブルが置かれていて、そこに、父さんが淹れてきたコーヒーが三つ並んだ。ソファもぼくが小学生の頃にこの家にやってきた年代物だ。当時は親子三人でもすっぽり座ることができたが、さすがに大人三人が座るとなると窮屈になる。向かいの床に移動しようかと一瞬思ったけれど、すぐに思い直して肩をすぼめるようにしながら、温かいコーヒーをひとくち飲んだ。
ソファの背後にダイニングがあり、さらにその奥が手狭なキッチンとなっている。正面には数年前にぼくがプレゼントした液晶テレビが置かれ、向かって右手が先ほど外から仰ぎ見たベランダだ。
「そうだ雄馬、カップケーキ食べるか?」父さんがふと思い出したように手を叩く。
「もしかしてまた父さんが作ったの?」
「ああ、昨日の夜にな」
「そりゃあ食べないわけにはいかないね」
ここ数年、父さんはケーキ作りにハマっている。職場でも重鎮になり、精神的にも時間的にもいくらか余裕ができたのが主な理由だろうけど、一番はやっぱり、それを食べた母さんが褒めてくれるのが嬉しいからだと、ぼくは勝手に推察している。
冷蔵庫から取り出してきたカップケーキを父さんから受け取り、さっそくひとくちガブリと食べる。月並みな表現だが外はカリッと中はジュワッと、かなり美味い。うんうんと頷きながら親指を立てると、それを見て父さんは嬉しそうに破顔した。
「美味いだろ。隠し味はカルダモンだ」
「カルダモンって、あのカレーとかに使うやつ? なに父さん、いよいよスパイスにも手を出しはじめたの?」
「凝り出すと、ついついな」
「最近じゃ家にいる時は大抵なにか作ってるのよ」
母さんは呆れるようにそう言うけれど、それが嫌じゃないのは表情を見るだけでも十分に伝わってくる。
「母さんの真似して、歌いながらな」
「じゃあその時は母さんが?」
「もちろん、踊るわよ。こうやって」
腕を折り曲げ、昔のツイストのように肩を揺らして踊る母さんがあまりにも変で、ぼくは思わず口の中のカップケーキを吹き出して笑った。
◇
カップケーキをぺろりと平らげると、ぼくは一旦二人のもとを離れて、隣の部屋に足を移した。リビングを出て短い廊下を進んだ先、ぼくが高校を卒業するまで使っていた部屋だ。ベッドのシーツや勉強机に埃は被っていないようだけど、壁に貼り付けたスターウォーズのポスターは四隅の一つがベロンと剥がれてしまっている。
高校三年の時、大学に進学したら家を出たいと言うぼくの願いを、両親は快く了承してくれた。いや、正確にはそこまで快くではなかったかもしれない。第一志望に合格という条件付きで、ぼくは一人暮らしを認めてもらったのだ。部屋の窓枠に今でも残るベトベトは、「絶対合格」の紙を貼り付けた時に使ったセロテープの跡だ。
勉強机の片隅に置かれた粘土細工は、ぼくが中学生の時に図工で作ったオリジナルのキャラクター。背中のところに「二年三組枕崎雄馬」とある。雄馬。つくづく、ぼくらしくない、いかにも雄々しい名前だよなぁ思う。フローリングの床にできた、なにかで引きずったような傷跡は、小学生の時に石で引っ掻いた時のものだ。自分では何気ないイタズラのつもりが、母さんにびっくりするくらい怒られたのを今でもよく覚えている。親に頬を叩かれたのは、後にも先にもその時だけだ。
窓の外のベランダはそのままリビング側の窓へと繋がっている。ぼくがマンションの目の前の通りを学校に向かって歩いていく時、母さんは毎日、時には父さんも一緒に、そこから身を乗り出して手を振り、いってらっしゃいと見送ってくれた。小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、ずっとそうだった。
愛されていたのだなぁと、心の底から、そう思う。
しばらくベッドに体を横にならせて昔のことを思い返していると、父さんがドアをノックしぼくを呼びにきた。そろそろ俺も仕事に行くから、その前に少し早いが三人で昼飯を食べようとのことだった。
リビングに戻ると、すでにダイニングテーブルの上には三人分の親子丼が用意されていた。父さんと母さんがキッチン側に並んで座り、父さんの対面にぼくは座った。
「そういえばさっきふと気になったんだけど」
相変わらず世界一美味い母さんの親子丼を口いっぱいに頬張りながら、ぼくは両親の顔を交互に見やった。
「気になった? なにに?」
「いや別に大したことじゃないんだけど、ぼくの名前、なんで雄馬なのかなって」
「あれ、話したことなかったっけ」
母さんがキョトンとした目で、父さんと顔を見合わせる。
「ない……はず?」少なくとも記憶にはない。
「塞翁が馬だよ」と、父さんが言った。
「塞翁が馬?」
たしか悪いことが転じて良いことになったり、良いことが転じて悪いことになったり、要するに物事はなにがどうなるか分からない、みたいな意味の中国の古事だった気がする。
「昔から俺、この言葉が好きでな。どんなにツラいことがあってもそれがいつか幸福に転じると思えば、なんとなく頑張れる気がするだろ。だから塞翁が馬から馬を取って、そこに男の子の雄をくっつけて、雄馬になったんだ」
「なるほど……」頷きながら、口の中の米を飲み込む。
「幸福といえば……幸せになるためのコツ、雄馬、覚えてるか?」
「覚えてるよ。思考と意志でしょ?」
答えると、父さんは嬉しそうに顔を広げた。
「おお、その通りだ。この世の大抵のことは、自分の思考と意志次第でどうにかなる。思考と意志は幸せになるための最重要アイテムなんだ。自分自身で考え、意志を持って生きてさえいれば、どんなにツラいことがあってもいつかは幸せになれる。俺はそう信じてる。なぁ、母さん」
「そうね。お父さんがそう言うんだから、そうなんでしょ」
「分かった、改めて肝に銘じておくよ」
それからぼくは母さんの親子丼を二度おかわりし、その後、父さんが仕事に出かけるよりも先に、長年住み親しんだ我が家を去ることにした。なんとなく、先に逝く身としてここは自分の方から離れていかなければならないような、そんな気がした。
「じゃあね、母さん、父さん」
玄関まで見送りにきてくれた二人に向かって別れを告げる。込み上げてくる涙は無理に笑ってごまかした。沓脱ぎの前で微笑む母さんの後ろで、父さんが廊下の壁に右の肩を寄りかけ腕を組んでいる。
「またいつでもいらっしゃい」
「うん」
「今度は楓さんも連れてこいよ」
「うん」
「じゃあ、またね」
「うん」
少しずつ閉じていく玄関のドアが、大好きな二人の姿を見えなくしていく。もう二度と会えない両親の笑顔が、次第にドアの向こうに隠れていく。本当はもう一度玄関を開けて、二人の胸に飛び込みたいけど、それをしてしまったら、いよいよ心が壊れてしまう。
完全にドアが閉じると、ぼくはそこに額を押し当て、堰き止めていた涙を流した。声に出してしまうと二人に聞こえてしまうから、唇を結んで押し殺す。数秒経って顔を上げ、ドアに付いた涙の跡を手のひらで拭い、エレベーターに向かって歩きはじめる。
一階に降りると、ちょうど来る時にすれ違った親子とまた自動ドアの前で鉢合わせた。二人で買い物にでも出ていたのだろう、母親の方の腕には食材が詰まったトートバッグがぶら下がっている。
この日二度目のお辞儀をして横を過ぎようとすると、母親が少しためらいがちに「あの」とぼくを呼び止めた。「もしかして、三階の枕崎さんのところの息子さんですか?」
「え? あ、はい、そうですけど」
「やっぱり! さっきすれ違った時にそうじゃないかなって思ったんです」
「そうでしたか。すみません、いつも二人がお世話になってます」
三度目のお辞儀は面と向かって、深々と頭を下げた。視線を下げたところでちょうど女の子と目が合い、彼女がニコッと微笑みかけてきてくれたので、ぼくもニコリと不器用に微笑みを返した。
「あんまりお話ししたことはないんですけど、よくご夫婦で楽しそうにしているところをお見かけするので、羨ましいなぁと常々思ってたんです。それで、そんなお二人とそっくりな男性が横を通られたので、もしやと思って、つい声をかけちゃいました」
「そっくりですか」
これまで親子で似ていると言われたことはあんまりなかったからか、今さらそう言われても、いまいちピンと来ない。
「そっくりですよ。今の笑った顔なんて特に」
「なんか、案外嬉しいもんですね」
「ふふふ、嬉しいですよね」
開いたままにしていた後ろのエレベーターが、痺れを切らしてドアを閉じはじめる。母親はもう一度ぼくにお辞儀をすると、「ダメダメ、まだ行かないで」と慌てて娘の手を引き、ぼくの傍らを過ぎ去っていった。
「そっくり……か」
緩んだ口元を指先で揉むようにしながら歩き出し、エントランスを抜け、マンションの目の前の通りに出る。
すると、頭上から、母さんの声が聞こえた。
「おーい、雄馬ー」
見上げると、母さんと父さんがベランダから身を乗り出して、ぼくに向かって手を振ってきていた。
「母さん……」
息ができないくらい胸が苦しくなり、ふたたび目元が熱を帯びはじめる。
「気をつけて帰れよ、仕事もほどほどにな」
「父さん……」
だけど二人の目に映る最後のぼくが泣いてしまっていては忍びないので、ぼくは精一杯に笑顔を浮かべて、上にいる母さんと父さんに手を振り返す。
「いつでもまた来なさいねー」
「今度はもっと美味いケーキ作っといてやるから、期待しとけよ」
そうやっていつまでも笑い続ける二人の顔は、たしかに親子でそっくりだなぁと、ぼくは自分でも、そう思った。
◇
その後、ぼくは実家の近くの墓地に足を向かわせ、祖父母の墓に手を合わせたあと、一度自宅マンションに戻り、服を着替えてから最寄りの駅で仕事終わりの楓と合流した。リュウがスマホに送ってくれたイタリアンの場所は、ぼくたちの駅からは直通でほんの二駅先のところにあった。
「あれ、リュウくんは?」
「いつも通りだよ」
「また遅刻かぁ」
「六時に児玉で予約してるから、先に入っててくれだって」
店に入ると、ぼくたちは出迎えてくれたウェイターに連れられ、奥のテーブル席に腰を下ろした。いわゆる高級レストランというわけでもなさそうで、それでいて安っぽい華美な装飾もされておらず、落ち着いた大人の店といった感じで、いかにもリュウが好きになりそうな雰囲気の店ではある。
「そういえば今日さ、実家に帰ったついでに爺ちゃん婆ちゃんのお墓参りにも行ってきたんだけど、そしたらまた、アイツが飛んできたんだよね」
「アイツって、もしかしてアイツ?」
「そう、アイツ」
「すごいね、なんでいつも雄馬のところに来るんだろう」
二人して首を傾げて不思議がっていると、約束の時間から十五分ほど遅れて、リュウがぼくたちのテーブルに姿を見せた。
「なになに、なんの話?」
「あら、リュウくん。今日は珍しく早いね」楓がわざとらしく皮肉を言う。
「そうだろ? 今日は午後から打ち合わせがあったんだけどな、これがあるから早めに切り上げてきたんだ」
「打ち合わせって、また新しい小説?」
「いや、今日はなんか、映画化の相談的な、そんなやつ」
リュウは着ていたコートを雑に丸めて、ぼくたちの向かいの椅子に腰を下ろした。
「え、リュウくんの映画、小説になるの?」
「まぁな。あ、でもこれまだ誰にも言っちゃいけないやつだから、内緒な」
「すごいじゃん、おめでとう」
控えめにパチパチと拍手する楓の隣で、ぼくも少し遅れて手を鳴らす。リュウの小説が映画になる。それはもちろん親友として、幼馴染として、この上なく嬉しい。しかしその一方で、それを手放しで喜ぶことができない自分もいた。
人生に一度あるかないかの記念すべきその瞬間を、ぼくは彼らと一緒に祝えない。これまでずっとリュウの一番近くにいたはずなのに、こんな大事な時に限って、近くにいられない。それどころか彼の小説が映画化される頃にはきっと、ぼくは果てしなく遠い世界の住人になってしまっているのだ。それが悲しくて、苦しくて、切ない。もったいないというのか、あぁ、まだ死にたくないなと思ってしまう。
やがて、注文した料理が次々とぼくたちのテーブルに運ばれてきた。サラダにスープにピザにパスタに、舌の肥えたリュウが勧めるだけあって、どれもこれもが絶品ばかりだ。
「それで? さっきはなんの話をしてたんだよ」と、リュウがステーキを器用に切り分けながら、改めてぼくに目を向けてくる。
「さっき?」
「俺が来た時、二人してなんか楽しそうに話してただろ」
「あぁ、さっきここに来る前、一人で爺ちゃんたちのお墓参りに行ってきたんだけど、そこでぼくの指先に大きな黒い蝶が止まったんだ。前にも同じようなことがあったから、不思議なこともあるもんだねって」
それはひと月前、婚約の報告をするため、楓の母親のお墓を訪ねた時のことだった。墓前に花を供えて手を合わせていると、どこからともなく大きな黒い蝶が飛んできて、ぼくの指先にひらりと翅を休めたのだ。その時はただ漠然と「神秘的だねぇ」なんて言っていたのだが、それと同じことが今日、ぼくの祖父母のお墓の前でも起きたのだった。
「ほら、黒い蝶って死者の魂ってよく言うでしょ?」
少しだけ頬を紅潮させた楓が、ワイングラスをくゆらせる。手前味噌だが、その所作ひとつとっても映画のワンシーンのように画になっている。
「ああ、西洋では特に古くからそう信じられてきたらしいな」
「でも、なんで黒い蝶が死者の魂なのかな? 黒はなんとなく死を連想させるけど、蝶のどこに死の要素があるの?」
「それはほら、まさに今、雄馬が言った通りのことだよ」リュウが物知りげな顔で口角を上げる。「蝶ってのは花のにおいに寄ってくるだろ? そんでもって、墓地には必ず花があるから、自ずと蝶もそこにやってくる。大切な人を弔う時にどこからともなく花に向かって飛んでくる蝶の姿が、昔の人には死者の魂に思えたんじゃねぇのかな」
「なるほど……」
もしかすると死者たちの目には、半分死んでいるような状態の今のぼくの姿が仲間のように見えたのかもしれない。だから彼らは、ぼくを迎えにきたのだ。なにをしてる、お前はもうそっちの人間じゃないだろう、と。
だとすると、黒い蝶は死者の魂というよりはむしろ、神の遣いだというあの謎の男の仲間に近いような気がしないでもない。
「相変わらず博識だよね、リュウくんって」
楓が心から感心するように顎を揺らすと、リュウは満更でもなさげに鼻の穴を広げて、これ見よがしに溜息をついた。
「そうなんだよなぁ。それなのにどうして彼女ができないんだろうか」
「でもリュウくん、モテるじゃん」
「モテるけどそれは一時的な憧れや性欲がベースにあって、心の底からおれを愛してくれる人ってのは、なかなかいない」
「贅沢な悩みね」
「昨日もちょうど一人にフラれてきたところだ」
「それってでもさ、結局、リュウくん自身が相手を心の底から好きになろうとしてないからじゃないの?」
「うーん、そうなのか?」
「そう。つまり、リュウくんが悪い」
「ははは、おれか、悪いのは」
楓のその言葉に、リュウは膝を叩いてケタケタ笑い、楓もそれに釣られて愉快げに笑い、ぼくだけが弱々とぎこちなく笑った。
やっぱり、この三人でいる時間は楽しい。けど、今この瞬間を楽しいと思えば思うほど、迫りくる死への実感もまた、膨らんでいくばかりであった。
残された時間は瞬く間に過ぎていき、夜の八時を過ぎたところで今日の食事会はお開きとなった。リュウはこれからまた仕事の打ち合わせに行かなければならないらしい。
「次、いつ会おっか」
ほろ酔いの楓が店の前でスマホを取り出す。マフラーで半分隠れた口からはふわふわと白息が立ち昇っている。
「まぁまた、近いうちにでも」リュウもコートのポケットに手を突っ込んで、背中を寒そうに丸めている。
「ダメダメ。こういうのはその場でスパッと決めなきゃ、結局なあなあになって終わっちゃうんだから」
「じゃあ年明け。来年の年明けにまた集まろう。二人の一月の予定が分かったらまた連絡してくれ。その中でおれも大丈夫な日があれば、そこにしよう」
「よし、決まり! 新年会だね!」
楓が嬉しそうにピョンピョン跳ねる。彼女のその愛らしい姿をそばで見ていて、ぼくは余計に胸が締めつけられる。楓も、リュウも、まだ知らない。その新年会が開かれることはないと知っているのは───それどころかこうしてまた三人で集まることさえもう二度とないと知っているのは、この中でただ一人、ぼくだけなのだ。
◇
マンションに帰宅したぼくは、久しぶりに楓を抱いた。今日彼女を抱かなければもう二度と抱けないという生物学的本能に突き動かされたというのも間違いではないけれど、ただ、ぼくの今の想いを彼女に直接伝えられない以上、その想いを表現するには自分の体を使うしか方法はなかった。
その後、先に寝た楓に毛布をかけて、ぼくは座卓の前に胡座をかいた。新調した大学ノートを広げ、そこに今日の日付を書き込んでいく。
「なにしてるの?」
唐突にあの男がぼくの後ろに現れ、肩越しにノートを覗き込むようにしながら、興味もないくせにそう訊ねてきた。
「別に、ただの日記だよ。君に死の宣告を受けた日からの日記を、ここに書き残しておくことにしたんだ」
日記といっても、その時のぼくの率直な気持ちを思い返して書き殴っただけのもので、すでに先ほど、食事に行く前の空いた時間で昨日と一昨日の分は書き終えている。
「そんなの書いたって、楓ちゃんに読んでもらうことはできないよ」
「分かってるよ。そんなの、分かってる」
投げやりに答えて、乱暴にシャーペンをノートの上に走らせる。途中、筆圧が強すぎて何度も芯が折れた。文字を間違え消しゴムで消そうとすると、勢いのあまりページがくしゃっとひしゃげてしまった。感情に任せて消しゴムを遠くに投げ捨ててしまいそうになるが、ちびたその消しゴムを見つめて、すんでのところで思い留めた。ノートの上の消しカスを払おうとすると、ページの余白のところにポタッ……と水滴が一粒こぼれ落ちた。なにかと思えば、いつのまにかぼくの目から滴り落ちた重たい涙だった。
一、二時間はそうしていただろうか。止めどなく溢れる涙がこれ以上ノートを濡らしてしまわないよう、ぼくは両手で顔を覆うようにしながら、後ろで退屈そうに鼻歌を唄う男に声をかけた。
「ねぇ、今までにもぼくみたいな人間はいたの?」
「みたいなって?」
「神様に選ばれて、死の宣告を受けた人間だよ」
「そりゃあたくさんいるよ。これまでも、そして、これからも」
「その人たちは、その……どんな感じだった? 自分が死ぬってなった時」
「うーん、まぁ、大抵はみんな、今の君と同じような感じかな。みんな、驚いたり悲しんだり怒ったりするけど、最終的には自分の死を受け入れて、諦める」
「諦め……」
ふと手のひらを顔から離すと、あれだけ溢れ出ていた涙が止まっていた。ぼくの心から「生きる」という欲求が枯れ果てたのだと思った。沈む夕陽を誰にも止められないのと同じで、ぼくも自分の運命には逆らえない。自分の気持ちをこのノートに精魂尽き果てるまで書ききったことで、ぼくはそれをようやく悟ったのだ。
「さて、いよいよ明日が君にとって一日をフルで過ごせる最後の日だ」男が、どこか達成感を滲ませた声で手を叩く。「そろそろ最後の願いも決まったんじゃない?」
「ううん、まだ決まってない」
「……おいおい、マジで頼むよ。神様に怒られるのは僕なんだぜ?」
「分かってるよ。必ず答えは出すから。もう少し待って」
ぼくは閉じた日記を仕事用のバッグに押し入れ、静かに寝息を立てる楓を起こしてしまわぬよう、ゆっくりとベッドの中に体を潜り込ませた。就寝灯を切ると、部屋はすっかり真っ暗になった。
『12月3日 水曜日
あと2日でぼくは死ぬ。正直に言って、死にたくない。当たり前だ。まだまだ人生これからだと思ってた。まだまだやりたいことはたくさんあった。まだまだやり残したこともたくさんある。楓といろいろな国に旅行したかった。楓が女優として今よりももっと活躍する姿を一番近くで見ていたかった。楓が主演した映画をシネマ・グリュックで流したかった。リュウの小説をもっと読みたかった。リュウの映画を観にいきたかった。リュウと二人でもっとバカしたかった。アホみたいなことでもっと笑いたかった。楓との子供がほしかた。幸せな夫婦生活を送りたかった。父さんと母さんにもっと感しゃを伝えたかった。受けてきた恩に比べて、ぼくは二人にまだほとんどなにもできていない。恩返しがしたかった。もっと良い息子でありたかった。もっとみんなで一緒にいたかった。死にない。死にたくない。死にたくない。もっと生きたい。なんでぼくが死ななくちゃいけないんだ。意味が分からない。死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない』