●わたし● 2
◆
布田さんが倒れたと聞かされたのは、彼女と思い出横丁でお酒を飲んだあの日から約二週間後のことだった。この日は仕事も休みで、切れかけていたトイレットペーパーと洗剤を薬局まで買いに出かけていたところ、突然リュウくんから連絡が入り、彼女が入院している病院と部屋番号を伝えられた。
わたしはすぐに薬局を飛び出し、病院へ向かった。どうして布田さんが。二週間前に会った時は別に体調が悪そうには見えなかったのに。たしかに少し痩せてはいたけれど、それでも元気にビールを飲んでいたではないか。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。雄馬に続いて、布田さんまでいなくなってしまったら。そんな最悪の予感が思考の体積をみるみると埋め尽くしていく。
病院に駆け込み、受付を済ませる。来院者の記名をする際も気が急くあまり、つい乱筆になってしまう。エレベーターを使って四階に上がり、布田美代子の名前が入った病室のドアをガラガラと開けた。
「布田さんッ!」
声を弾ませ中に入ると、ベッドに上体を起こして横になり、開いた文庫本を団扇にしながら退屈そうに欠伸をする、いつも通りの布田さんの姿がそこにあった。
「おー、楓ちゃん、どうしたの」
布田さんは眠たそうな目を呑気にパチパチさせて、まるで街中で偶然友達と遭遇したみたいに、ひょいっと片手を持ち上げた。
「どうしたのって……布田さんが倒れたって、リュウくんが……」
「ちっ、児玉め。楓ちゃんには言うなって言ったのに」
「だ、大丈夫なの……?」
「大丈夫大丈夫。ちょっとバテちゃっただけだから。まぁ一応何日か検査入院が必要らしいんだけど、この通り、私は平気。ちょうど昨日の夜、少し用があって児玉と電話してたから、救急隊員の人があいつを私の恋人かなにかだと勘違いして連絡してくれたみたい」
「よかった……よかった、本当に」
ベッドのそばまで歩み寄り、へなへなと床に両膝をつく。布田さんが無事だったことへの安堵とか、布田さんの異変に気付いてやれなかった申し訳なさとか、後悔とか悔しさとか、いろいろな感情がポロポロと涙となって溢れ出す。
「なーんで楓ちゃんが泣いてるの」
「分かんない……分かんないよ……」
ふと、灰色の空を映した窓の手前の小さな棚に、綺麗な花が花瓶に生けて飾られているのに気が付いた。カーネーションだろうか、外の澱んだ天気をものともせずに凛と咲き誇るその姿は、これまで男社会を悠然と勝ち抜いてきた布田さんの姿とぴたりと重なり、美しかった。
「ああ、これね。さっき児玉が持ってきたのよ。この花を置いたらさっさと帰っちゃったけどね。仕事だってさ」
「そっか……」
窓辺の花から視線を外し、改めて、ベッドの上の布田さんを見やる。よく見るとやはり、二週間前に会った時よりもさらに増してげっそりとしている。
「相変わらずあいつも忙しい男だねぇ」
「いやいや、布田さんもだよ。布田さん、働きすぎなんだよ。自分では大丈夫と思ってても、疲労はしっかり体に蓄積していくんだから」
「はいはい、すいませんね。でもまぁ、その点については、もう大丈夫かな」
「だから、自分では大丈夫と思ってても……」
「そうじゃなくてさ。私、今の会社、辞めることにしたから」
「え?」
「辞めるの。退院したら、退職届を出すつもり」
「え……っと、え、なんで?」
あまりにも平然と布田さんがそう言うので、戸惑いのあまり、わたしの目から溢れ出ていた涙も話が違うとばかりに一瞬で引いた。
「別に急に決めた話でもなくてさ、前々から考えてはいたんだよね。最近の自分、なんだか停滞気味だなぁって」
「停滞って、停滞どころか順風満帆だったじゃん」
布田さんの会社は最先端のマーケティングを謳う企業にしてはいささか旧態依然としているらしく、重宝されるのは男ばかりで、女はいつもその引き立て役だと、いつだったか彼女自身が愚痴を漏らしていたのをよく覚えている。
それでも彼女は実力でその中をのし上がり、同期に差をつけ、上司を追い抜き、嫉妬や僻みを背中に浴びせられながらも、順調にステップアップを踏んできたのだ。どれだけ空気が停滞していても、彼女は自らそこに気流を生み出し、飛び立っていく、そんな強い女性なのだった。
「停滞と順風満帆は表裏一体なのかもねぇ」布田さんはあっけらかんと笑って言う。
「辞めて、どうするの?」
「アメリカに住んでる友達がね、アフリカとか東南アジアとかの貧困地区に向けたボランティアをしているの。それを手伝ってみようかなって」
「アメリカ? アフリカ? 東南アジア?」
想像の斜め上をいく答えに、頭の理解が追いつかない。ただぼんやりと脳裏に朧げな世界地図が浮かんで、すぐに消えた。
「結構向いてると思うんだよね私、そういうの」
「布田さん、英語喋れるんだっけ?」
「ううん、全然」
「……いつから行くつもりなの?」
「まぁ今年中には諸々準備を済ませて出発したいなと思ってるよ」
「今年って、もうあと半年くらいしかないじゃん」と、わたしはつい駄々をこねる子供のように言い縋ってしまう。「リュウくんにも言ったの?」
「うん、昨日の電話ってのが実はそれでさ、あいつ、仕事でそういうボランティアの人たちに取材したりもしてたから、ちょっと話を聞いてみようかなって」
「それで、彼はなんて?」
「別に、おう、いってらっしゃいって」
「そんな、コンビニにアイス買いにいくんじゃないんだから」
「ははは、それウケる。たしかにそんな感じだった」布田さんはカラカラと笑い、そのまま優しく細めた目でわたしを見据えた。「でも、あいつはただ、物理的な距離とか時間的な距離とか、そういうのよりももっと大切なものを、本能的に知ってるんだと思うよ」
「なにそれ……分かんないよ……」
その後、しばらくわたしは布田さんの目を見ることができずに、窓辺で揺れる美しい花を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
◆
布田さんが運び込まれた病院は、偶然にもわたしや雄馬が通っていた大学のすぐ近くにあった。昼を過ぎて病室をあとにしたわたしは、よせばいいのに懐かしい大学周辺を見て回るように、駅までの道のりをわざと遠回りして歩いた。
なんとなく、布田さんが外国に行っちゃうという現実から目を逸らすために、過去の空間に逃避したいという想いがあったのだと思う。
しばらく当てもなく近くの商店街を歩いていると、目の前に思い出深い一軒のマクドナルドが現れた。十年前に雄馬がわたしに告白をしてくれた、あのマクドナルド。
『楓ちゃん、好きだ───』
あの日の雄馬の声がよみがえる。気付けばわたしは、よせばいいのに、店の中へと足を踏み入れていた。カウンターでコーヒーを買い、二階に上がる。当時わたしたちが座っていたテーブルにはすでに先客がいたので、窓際の一人席に腰を下ろした。
外は今にも雨が降り出しそうな嫌な天気だ。時期が来るといつも満開に華やぐ桜並木も、すっかりそのほとんどが葉桜になっている。最後に桜をまともに見たのはいつだっただろう。雄馬がいた頃は四季の一つ一つに毎年感動していたけれど、今となっては季節の移り変わりさえ感じない。いつのまにか冬が終わり、春が終わり、夏も終わって、また冬が来る。その繰り返しだ。
まだ少し熱いコーヒーをひとくち啜る。すると不意に、雄馬が亡くなる数日前の記憶が頭の中に浮かんだ。ドラマのオーディションを終えた翌日、わたしが初めて女優を辞めたいと雄馬に打ち明けた時の記憶だ。
その日、朝起きるとすでに雄馬は座卓に座り、二人分のコーヒーを淹れてくれていた。
「おはよう、コーヒーありがとう。雄馬早起きだね。今日は仕事休みでしょ?」
「うん、でもちょっと行くところがあって」
「そっか」出されたコーヒーをひとくち啜り、ホッと吐き出す息に声を包むようにして、「ねぇ雄馬?」と言った。
「どうした?」
「……あのね、わたし、昨日のオーディションがもしダメだったら、もう女優は諦めようかなって考えてるの」
ただの思いつきでそう言ったのではない。自分の進退については、少し前から考えていたことだった。
「え……?」
雄馬は驚いたように目を丸めていた。
どうして起きて早々こんなことを言い出したのかというと、前の日の夜、帰宅した雄馬が先に寝ていたわたしの耳元で、「今日のオーディション上手くいってますように」と何度も念じるように呟いてくれたからだった。
その瞬間、なんだか急に涙が込み上げてきて、わたしは寝返りを打つふりをして、彼の方から顔を逸らした。雄馬のその優しさに応えられない悔しさが募れば募るほどに、そんな優しい雄馬となら夢を諦めてでも一緒にいたいという想いが膨らんでいく。いつまでも雄馬と二人でいられるのなら、女優になんてなれなくていい。改めてその時、そう思ったのだ。
「ダメ……かな?」
「……ううん、ダメじゃないよ」雄馬は数秒考え込むように押し黙ると、儚げな笑みを浮かべて、そう言った。「楓の人生は楓のものなんだから、楓がそうしたいと思うようにするのが一番だと思う」
この時、彼がどんな想いでそう答えたのかは、今となっては知る由もない。しかし結局はその時のオーディションで次の審査に通過したことで、どちらにせよわたしの夢は幸か不幸か延命されたのだった。
購入したコーヒーの半分も飲みきらないままわたしは店をあとにし、帰路に着いた。自宅マンションの最寄駅で電車を降りると、いよいよ雨が降り出してきていた。広げた傘に打ちつける雨音はなんだかこちらの命を抉り取ろうとする悪魔の足音のようで、傘を差して歩くたび、ただでさえ少ない気力が削がれていくような気がしてしまう。
駅前広場から片側二車線の大通りを渡り、そこからしばらく進んだ先に、わたしの住んでいるマンションはある。その道中、駅から大通りの横断歩道に向かって歩いていると、突然、前方からパパーッと金切り声のようなクラクションが鳴った。
思わず肩を弾ませた拍子に傘を手放し、足元の地面に落としてしまう。無防備になったわたしの体を無数の雨が瞬く間にずぶ濡れにしていく。心臓がめくり上がるような気持ち悪さを感じ、咄嗟に手のひらで口を抑える。正面を見ると、横断歩道の真ん中で立ち往生する若い男性の姿があった。どうやら歩きスマホをしていたせいで、信号が赤になっているのに気付かないまま渡ってしまったらしい。そこへちょうど車がやってきて、急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らしたのだろう。車の運転手は降りしきる雨など気にも留めずに窓から頭を外に突き出し、狼狽する若い男性に怒鳴り声を浴びせている。
「馬鹿野郎! 信号が見えねぇのかガキ!」
「す……す、すみません……!」
震えるように頭を下げる男性は、横断歩道を渡り切ったあとも、すでに走り去った車の運転手に向かってしばらく何度も頭を下げ続けていた。
「バカだよなぁ、まったく」
「あーあ、轢かれたら面白かったのに」
「ああいう奴が早死にするんだよな」
今の出来事の一部始終を見ていた野次馬のうちの何名かが、わたしの近くで呟くようにそう言うのが聞こえた。誰が言ったのかこの目でしかと確かめてやりたいけれど、首を左右に振る力さえ今は出てこない。心臓が痛い。息が苦しい。今にも過呼吸を起こして、その場に倒れてしまいそうだった。
気にしちゃダメ。わたしはなにも見ていない。わたしはギュッと目を閉じ、心の中でそう言い唱える。それでも尚、先ほどのクラクションの音が耳の中を駆けずっている。
雨はいつまでも降り止みそうになかった。
◆
家に帰ると、閉めて出たはずの玄関の鍵が開いていた。どうせ翔太が貸したままにしている合鍵を使って入ったのだろうと思いドアを開けると、案の定、沓脱ぎに彼の使い古したスニーカーが乱雑に履き捨てられていた。それでもわたしが驚いたのは、奥の方からムクムクと料理のにおいがしてきていたからだ。
「おー、おかえり」
リビングに入ると、似合わないエプロンを前に掛けた翔太が、キッチンカウンター越しに油のついた木製のヘラをひょいと掲げた。
「なにしてるの?」
「スーパーに寄ったら、ちょうど豚肉が安くなってたからさ」
「そうじゃなくて、なんでそれをわたしの家で料理してるの?」
「なんでって……」翔太はわたしの問いの意味をいまいち理解していないようだった。「たまには俺が楓に料理でも作ってあげようかな、と」
「…………」
肩にかけていたバッグを床に投げ置き、寝室のドアノブを掴む。雨に濡れたせいか、手のひらがひんやりと冷たい。
「あ、そうだ楓、昼はもう済ませた? もし小腹が空いてたらそこにおにぎり握ってあるから食べてもいいよ」
振り返ると、テーブルの上に不器用な形をしたおにぎりが二つ置かれていた。今日は朝からまだなにも食べていなかったので、わたしは礼も言わずそれを一つ手に取り、ひとくちかじった。白米の中の鮭の塩味が、たちまち口の中に広がっていく。
不意に冷たいものが頬を伝った。髪の毛に絡まっていた雨が垂れてきたのかと思えば、この日何度目かの涙だとすぐに気付いた。
まただ。いつもこうだ。こうして事あるごとにいちいち涙してしまう自分がいい加減腹立たしくなる。
「もう……やめてよ! こんなの作らないで!」
気付けばわたしは声を荒げて、手の中のおにぎりを床に投げ捨てていた。
「え、どうした、楓」
翔太がキッチンから駆け出て、キョトンとした目で、わたしの肩に手を伸ばしてくる。わたしはそれを振り払い、ふたたび声を荒げる。
「やめて、わたしたち、そんな関係じゃないじゃない!」
「関係って、俺は別に……」
「……お願い、今日はもう帰って」
突然癇癪を起こしたわたしに、なによりわたし自身の体が驚いている。感情を司る神経信号が路頭に迷うかのように口角の片側がぴくぴくと震え、体は冷えているのに、額から背中からと汗が吹き出してきた。
「楓……」
「お願いだから、一人にさせて……」
「……じゃあさ、ここはひとつ平等に、30秒ゲームで決めよう」わたしを憐れむように眉を垂らした翔太が人差し指を立てる。
「30秒ゲーム……?」
「そう。俺が勝ったら楓は俺の料理を食べる。楓が勝ったら、俺は今すぐこの部屋から出ていく。どう?」
「そんなの、したくない」
「楓だって、困ったらいつも30秒ゲームをしようとするだろ?」
「……分かった。その代わり、わたしが勝ったらすぐに帰ってね」
「ああ、約束する」
まず初めに翔太がスマホを取り出し、目を閉じて、時計のストップウォッチをスタートさせる。「1……2……3……」と相変わらず口に出してカウントしていき、「30ッ!」と言ってストップを押す。タイムを見る。28秒51だ。
次いでわたしがスマホを受け取り、スタートを押す。ズズズと鼻を啜りながら心の中で数字を数え、30を迎えたタイミングでストップを押す。タイムを見る。翔太よりも約3秒早い25秒05。
「全然ダメだった……」
「全然ダメだね」
「うん……」
消え入るような声で呟きスマホを突き返すわたしに、翔太は、なにかを諦めたように薄く微笑み、腰に手を当て肩をすくめた。
「もういいよ、今日は俺が帰る。楓の都合も聞かずに来て、ごめん」
「……ううん、こちらこそごめん」
「シャワー、早く浴びなね。雨で少し濡れてる」
「…………」
「じゃあ、また連絡するから」
「うん……」
少し寂しげに部屋を出ていく翔太の背中を見送りながら、わたしは、この先もう二度と彼の方から連絡が来ることはないのだろうと、そう思った。
◆
部屋の片隅にへなへなと腰をついて呆然としているうちに、窓の外はすっかり夜になっていた。わたしは心を無にして散乱したおにぎりの後始末をすると、キッチンから漂う冷めた料理のにおいを背にして、ダイニングテーブルの椅子に座った。雨雲の隙間から時折射し込む朧げな月明かりだけでは頼りないけど、今は部屋の電気をつける力さえ沸き起こらない。あれだけボロボロと涙を流し続けていた目も、今は砂漠のように渇いている。涙が枯れるとは、こういうことなのだろう。
ちょうど正面に見えている窓台に立て置いた一枚のキャンバスを、重たくなった目でぼうっと見つめた。雄馬が亡くなる数日前にネットで注文した、不思議の国のアリスのキャンバスアートだ。アリスや公爵夫人と一緒になって、画角の左下にニヤリと笑うチェシャ猫が描かれている。
どうして雄馬がこの絵を買ったかというと、その日訪れたカフェの壁にこれと同じ絵が飾られていたからで、どうしてそのカフェの絵に二人して注目したかというと、それを見て、大学の頃に物理学の教授がチェシャ猫銀河群の話をしたのを思い出したからだった。
『───素敵だと思いませんか? 遥か遠くのチェシャ猫銀河群は時空を超えて、私たちに笑顔を届けてくれているのです』
たしか、猫が笑っているように見えるチェシャ猫銀河群だが、実は口と目の部分はそれぞれ違う銀河の放つ光で、それが宇宙の質量の影響で時空が歪むことによって、わたしたちのいる地球からは一匹の猫が笑っているように見えると、そんな話だったはずだ。
結局、雄馬が注文したあの絵は、彼の死後ひと月ほどしてから、わたしたちの部屋に届けられた。封を開け中身を取り出すと、たしかにキャンバスアートのチェシャ猫は笑っていたけれど、それを見たわたしは、とてもじゃないが笑うことなどできやしなかった。
今日までの一年半、何度も捨てようと思った。けど、どうしても捨てられずに、まだそこにある。あのチェシャ猫がわたしに笑顔を届けてくれる日を、わたしはまだ、諦めきれずにいる。
「───明日にでも届くと思ってたのに、注文から配達まで最長で一ヶ月程度かかるかもしれないって書いてある」
「───え、そんなに?」
「───そんなん、届く頃には今のテンション忘れちゃってるよ、絶対」
「───でもそれ、まさにチェシャ猫銀河群だね」
「───どういうこと?」
「───だってほら、いま雄馬が注文したその絵は、一ヶ月っていう長い時間をかけて、わたしたちに笑顔を届けてくれるわけでしょ? チェシャ猫銀河群じゃん」
「───なるほど、たしかに」
耳の奥の奥の方で、あの日の会話がよみがえる。わたしは目を閉じ、届くはずもないのに、窓台のキャンバスアートに手を伸ばす。