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◯ぼく◯ 2


 目覚ましのアラームで目が覚めた。朝の七時だ。隣を見ると、すでに楓はベッドにはおらず、キッチンからはコーヒーの香りが漂ってきていた。

「おはよう」

 気配でぼくの起床に気付いた楓が、コーヒーフィルターにお湯を注ぎ落としながら、にこりと笑う。彼女も今日は朝からバイトで、午後からは一件、新しいドラマのオーディションが入っているらしい。

「……おはよう」

「なに、まだ寝ぼけてるの?」

「寝ぼけてる、かもしれない」

 あまりにも普段通りの光景が目の前を流れていくので、昨日の夜の出来事はすべて、ぼくが今朝見た夢だったんじゃないかと疑ってしまう。

 いや───そう、あれは夢だったのだ。あの妙な男も、四日後にぼくが死ぬという話も、全部夢。現実ではない。

 そう思うとなんだか急に身が軽くなった気がして、ぼくはベッドから起き上がり、顔を洗うため洗面所に向かった。

 鏡に映る自分も至って普通だ。どこも変わったところはない。なんてことはない、いつもの朝だ。

 蛇口を捻り、バシャバシャと顔を洗う。傍らに畳んでいたタオルで顔を拭いて、ふたたび鏡を見る。

 と、その瞬間、

「うわぁあっ……!」

 鏡に映るその人物を目にした途端、ぼくは思わず叫び、音を立てて後ろに飛び退いた。壁に手をついた衝撃で棚に積み上げていたタオルの束が床にボトボトと崩れ落ちる。

 ぼくの隣に立っていたのは、昨日の夜、すぐそこの商店街で突然ぼくの目の前に現れた、あの謎の男だった。

「どう? 最後の願いは決まった?」

「な……なんで、ここに……」

「なんでって、また明日って昨日言ったじゃん」

「そうじゃなくて、なんで……だ、だって、こ、ここは、ぼくの家だぞ……」

「知ってるよ。だから僕はここにいるんだ」

 昨夜は夜闇に紛れてよく分からなかった男の顔が、洗面所の白色光に照らされ、今日はやたらと鮮明に見える。話し方からして年寄りではないと踏んではいたけど、思っていた以上に若そうだ。ぼくと同じくらいか、もしかすると、ぼくよりもずっと若いかもしれない。髪は短く中肉中背。だぼついた緑のセーターを着ている。

「じゃ、じゃあやっぱり、昨日のことは夢じゃなかった……って、こ、と……?」

「当たり前じゃん」

「それじゃあ……本当にぼくは、四日後に……」

「そう、死ぬ」

 全身にのしかかる重力が何倍にも膨れ上がったような気がした。肺が萎縮し、息が苦しくなる。寒さではないなにかに体が震え、ガチガチと歯が鳴る。

「そんなの……そんなの、困る、ぼくはまだ、死にたくない」と、そんな当たり前のことを言い返すのが、今のぼくにできる精一杯だった。

「困るって言われても、もう決まったことだしなぁ」

「なんでぼくが……そ、そんなの、理不尽だ!」

「それが死というものだよ」

「だって、だって……だって、ぼくはまだ……」

 ぼくはまだ、人生でやりたいことの半分も、いや十分の一も果たせていない。せっかく楓と婚約したのだ。まだまだ二人でいろいろな国を旅行したいし、美味しい料理を食べにいきたいし、それに、彼女が女優として華々しく成功する姿もまだ見られていない。他にもまだまだやりたいことはたくさんある。それなのに、こんなところで死ぬと言われて、素直に受け入れられるはずがないではないか。

「参ったなぁ、まずはそれを信じてもらわないことには始まらないんだけどなぁ」

「だ……だいたい、君は一体、何者なんだ、神様がどうとか言ってたけど、ど、どうせ新手の詐欺師かなにかなんだろ……?」

「僕は歴とした神様の遣いだよ。そして、君が死ぬ前に君の願いを一つだけ叶えてあげるのが僕の仕事だ」

「嘘だ、そんなの……そんなの、信じない」

「すぐに信じることになる」

 男が意味ありげに笑い、くるりと後ろを振り返る。すると、それとほぼ同時に洗面所のドアがガチャリと開き、廊下から楓が怪訝そうな目をしてこちらに顔を覗かせた。

「雄馬? なにしてるの?」

「か、楓、警察に電話してくれ! 変な奴が家に入り込んでるんだ」

 恐々と声を震わせながら、そばにいる男の顔を指で差す。しかし楓はぼくの指先を目で辿ると、怪訝そうにしていた目をさらに怪訝に細めて、首を傾げた。

「ん? なに言ってるの?」

「こ、ここ、こいつだよ。こいつが家に……」と、そこまで言って唾を飲み込む。背筋がサッと冷えるのを感じた。「まさか、楓、こいつが見えないの?」

「だから、こいつって誰のこと?」

「そんな……」

「なにやったって無駄だよ」男がぼくを小馬鹿にするように歯を見せる。「この子に僕の姿は見えていない。僕が自らの意思で彼女に見てもらおうとしない限りね。それどころか、たとえば君が君の死や僕の存在を彼女に伝えようとしても、彼女にそれは伝わらない。彼女はなにも認識しない。つまり、彼女に助けを求めたってどうしようもない」

「い、意味が、意味が分からない……」

「それじゃあ少しだけ、デモンストレーションを見せてあげよう」

 そう言って、男がパチンと指を鳴らした、その直後、怪訝にしていた楓が両手を口まで跳ね上げ、「キャッ……!」と短い悲鳴を上げた。

「こんにちは、楓ちゃん」男がわざとらしい笑みを浮かべて、片手を振る。

「だ、誰……?」楓の視線は、間違いなく男の姿を捉えている。

「僕は神様の遣い。君の婚約者に、死を宣告しにきたんだ」

「な、なに、どういうこと……?」

「君は知らなくていい。どうせすぐに忘れてしまうんだから」

「楓になにをする気だ……!」

 訳も分からず男の肩に手を伸ばす。男は伸びてきたぼくのその手を振り払い、もう一度パチンと指を鳴らす。

 すると、その瞬間、楓は恐怖で強張らせていた顔をすっと緩めて、まるで何事もなかったかのようにぼくの方に視線を戻し、ふたたび怪訝そうに目を細めた。

「雄馬、いつまで顔洗ってるの。仕事遅れちゃうよ」

「な……」

 驚きと絶望。それだけではない。他にも言葉にならない言葉が頭の中を駆け巡り、ぼくは水面でエサを求める魚のように、ただ当てもなくパクパクと口を動かすばかりだった。



 その後、自分がどうやって支度を済ませ、マンションをあとにし、満員電車に揺られて職場まで辿り着いたのか。正直さっぱり覚えていない。脳が処理しきれない量の感情と思考が頭の中に混沌と入り乱れたまま、習慣化されたいつもの道のりを呆然と辿り、気付けばいつも通りの仕事の雑務に追われていた。

「───さん? 枕崎さん?」

 何度か名前を呼ばれて、ハッとする。手の中にはなぜか、受付のレジスターに溜まったお札の束が握られている。

「あ、ごめん。どうした?」

「いつまでお金数えてるんですか。もしかして足りないんですか?」

 いつもバイトで入ってくれている大学三年の坂田くんが、呆れるような、からかうような目をこちらに向けてきている。

「え? あぁ、いや、大丈夫。お金は合ってる」

 ぼくは慌ててお札をレジに戻して、取り繕うように微笑んだ。

「それならいいですけど。あ、そういえば枕崎さん、児玉龍の新作読みました?」

「あー、読んだよ、一応。デカルトとかフッサールとかいろいろな哲学者の名前が出てきて、正直ぼくには少し難解だったけど」

 幼馴染としての気恥ずかしさからか、ついつい手厳しくなってしまう。今や人気小説家の一人に数えられるリュウとは小学生の頃からの付き合いで、大学を卒業するまで、子供時代のほとんどを一緒に過ごしてきた親友だ。大学一年の時に小説家としてデビューを果たした早熟の天才。当時から楓とも仲が良く、今でもたまに三人で食事に行ったりしている。

「どんな人なんですか、児玉龍。友達なんですよね」

「どんな人……うーん、まぁ、典型的な陽キャって感じかな。酒好きで女好きで」

「最高じゃないですか」

「最高かな?」

「最高ですよ。男のロマンって感じがします」

「ま、いろいろな意味で最高ではあるのかもな」

 すると、店の入口が鈍重な音を立ててゆっくりと開き、外から一人の男が入ってきた。誰かと思えば、緑のセーターを着た、あの男だ。男は肩で風を切るように体を揺らして、ぼくがいるカウンターの前までやってきた。

「今やってる映画のチケットを一枚」

「……なにしに来たの」

 チラリと隣の坂田くんに横目を向けると、彼は直前までぼくと話していたことなどすっかり忘れたみたいに、ぼくに背を向け、別の業務に勤しんでいる。

 なるほど、つまり、そういうことなのだろう。今、この瞬間は、ぼくと目の前にいるこの男を取り巻く空間だけが切り離され、別の次元に隔離されているような状況なのだ。

「わざわざ映画館に来てチケットをくれと言ってるんだから、映画を観にきたに決まってるでしょ」

「君、映画なんて観るの?」

「君がなかなか最後の願いを決めてくれないから、暇なんだよ」

「1800円」

「おいおい、僕から金取るのかよ」

 男は不服そうに舌打ちをし、薄汚いズボンから裸の千円札を二枚取り出すと、お釣りも受け取らないまま劇場の中へと入っていった。あそこでいま上映しているのは、フランス産の恋愛映画だ。先ほど上映開始のアナウンスを終えたばかりだから、ちょうど今ごろ予告を終えて、本編が始まったところだろう。

「付き合いは長いんですか?」

 いつのまにか坂田くんがふたたび、ぼくの方に顔を向けてきている。

「……え?」

「児玉龍とですよ。いつぐらいからの友達なんですか?」

「あぁ……うん、小学生の頃から、かな」

「へぇー、すごいですね。俺も有名人の友達欲しいなぁ」

「ねぇ、坂田くん」

「はい?」

「ビックリすること言ってもいい?」

「なんですか?」

「……ぼく、あと少ししたら……死ぬ、かもしれない」

 どうして彼にそれを打ち明けようと思ったのかは、自分でも分からない。ただ、もうこれ以上、一人でこのことを抱え込むのは限界だった。精神が耐えられない。誰でもいいから、誰かにこの事実を吐き出したかった。たとえそれが無意味であっても、だ。

「死ぬって、どういうことですか? どこか体でも悪いんですか?」

 思いのほか坂田くんはぼくの言葉を真剣に受け止めてくれたらしく、心配そうに眉根を寄せて、こちらの具合をうかがうように顔を近づけてきた。

「昨日の夜、変な男に話しかけられて……そう言われたんだ」

「変な男……?」

「うん……」

「変な男が、枕崎さんはあと少ししたら死ぬって言ったんですか?」

 信じているのか疑っているのか、あるいは頭でも打ったかと憐んでいるのか、その真剣な眼差しからだけでは、彼の感情は読み取りきれない。

「そう……」

 弱々とこうべを垂らして顎を引く。すると、ちょうどそのタイミングで、また新しい客がやってきた。坂田くんはその客の対応を手早く終えると、ふたたびぼくの方に向き直り、つるりとした頬を緩めて可愛げに笑った。

「へー、すごいですね、俺も有名人の友達欲しいなぁ」

「…………」

 ぼくは唇を噛み締め視線を俯し、込み上げてくる涙を、なんとか堪えた。



 夕方の五時を過ぎる頃には、すでに外は陽が落ちはじめていた。職場を退勤したぼくは駅へは向かわず、そのまま近くにある花園神社に足を伸ばした。

 花園神社は、まさに新宿の新と旧とを抱き合わせたような場所に立つ大きな神社で、鳥居の目の前には巨大な靖国通りが左右に貫き、拝殿の裏手側にはこの街の真髄とも言うべきゴールデン街が、地元民だろうが観光客だろうが酔客であれば誰でもござれとばかりに蜘蛛の巣を張り巡らせている。

 拝殿前の広い階段に腰を下ろして、鳥居越しに赤く染まっていく新宿の景色を、寂しげな冬の風に吹かれながらしばらく眺めた。どうしてここに来たのだろう。ただなんとなく、内なる本能にここへ向かえと言われたような気がしたのだ。

 赤焼けの美しい空を見ているうちに、ふと、八年前、ぼくが楓に告白をした日のことを思い出した。あの日、大学近くのマクドナルドの窓から眺め見た外の景色も、今と同じように綺麗な赤色をしていた。

「ねぇ枕崎くん、お願いがあるんだけど」

 映画館で映画を観た帰りだった。小腹が空いて立ち寄ったマクドナルドで、ポテトをちょぼちょぼと咀嚼しながら、唐突に楓がそう切り出したのだ。

「お願い?」

「今度からわたしのこと、下の名前で呼んでくれない?」

 突然そんなことを言われて驚いたけれど、あとから聞けば彼女の両親は彼女が幼い頃に離婚していて、その後は母親と二人暮らしをしていたのだが、その母親が高校の時に病気で早逝し、以降は不承不承ながら父親の世話になってきたのだという。

 その父親というのが随分とまぁ自堕落な男で、離婚の原因も、その父親の不倫が原因だったらしい。そういった事情もあり、楓は父方の苗字で呼ばれるのに少なくない抵抗感があるとのことだった。

「いいけど、えっ……と、じゃあ、楓……ちゃん? なんか恥ずかしいな」

「うん、でも、やっぱりそっちの方がいい」

「それじゃあ……、楓ちゃんもぼくのことは下の名前で呼んでよ」

「えー、雄馬くん?」

「よし、これでおあいこだ」

「ふふふ、なんか気恥ずかしいね」

「うん、やっぱりちょっと照れくさい」

 余裕そうに笑う楓と違って、この時のぼくは今にも心臓が爆発してしまいそうなくらい、ドキドキしていたのは言うまでもない。初めて彼女の口から放たれたぼくの名前は、自分の名前とは思えないほど崇高に思えた。

「あっ」と、そこで楓が自分の手元のトレイを見下ろし、声を上げた。

「どうした?」

「はい、これ」

 トレイの上で残り二本になっていたポテトの一本を指でつまんで、ぼくのトレイの上にひょいっと置く。

「え、くれるの?」

「うん、ちょうど残り二本だったから」

 その瞬間、ぼくの頭の中で無数の文字が、アルミホイルの上のポップコーンみたいに、ポンポンと無軌道に弾け飛んだ。その中からいくつか文字を掴んで、なんとか脳内で組み立てたものを、ぼくは無意識のうちに口に出して言っていた。

「───楓ちゃん、好きだ」

「え?」

「ぼくと、付き合ってください」

 言った直後に、はたと我に返る。カッと顔が赤くなるのが分かる。

「……はいっ」

 一瞬の間のあと、水面に打ち上がる飛沫のような笑顔で頷く彼女の姿を、ぼくは生涯、忘れないだろう。

 その後、楓と付き合うことになったとリュウに報告した場所が、そういえばこの花岡神社のこの階段だった、ような気がする。学生の頃から裏手のゴールデン街がリュウの溜まり場だったから、ぼくも彼に付き合わされてよくここに来ることがあったのだ。

「───あれ、雄馬じゃん。なにしてんだよ、こんなところで」

 不意に後ろから、今まさに思い出していた声で名前を呼ばれて、ぼくは肩を跳ね上げ振り向いた。

「リュウ……? こそ、なんで、ここに……?」

「なんでって、そりゃお前、飲みにきたに決まってんだろ。ここら辺はおれにとっては庭同然だからな」

「……そりゃあそうか」

「で、お前はなにやってんだよ、ここで」

 言いながらリュウはぼくの隣に腰を下ろすと、手に下げていたコンビニのビニール袋から缶ビールを二本取り出し、そのうちの一本をぼくに寄越した。彼と会うのは、二週間ぶりくらいだろうか。今から店に飲みにいくというのに、その前にコンビニの酒で一杯やってしまうところが、いかにもこの男らしい。

「ぼくは別に……黄昏てただけだよ」

「楓ちゃんは?」

「楓は今頃、新しいドラマのオーディションを受けてるところだ」

 いや、時間的にはすでに受け終わっているだろうか。もしかするともう家にも帰っている頃かもしれない。

「ふぅん……さてはお前、楓ちゃんと喧嘩したな?」

「なんでそうなるんだよ」

「おれは嗅覚でそういうのがすぐに分かるんだよ」

「別に喧嘩なんてしてないよ」

「早いとこ謝って、仲直りしろよな」

「だから喧嘩はしてないっての。てかなんでぼくが悪いことした前提なんだよ」

 あまりのくだらなさに思わず吹き出して笑ってしまう。と同時にぼくは、ぼくが今日、本能に導かれてここにやってきた理由も、少し分かったような気がした。

 要するに、ぼくはこの親友に、リュウに、会いたかったのだ。わざわざ連絡するでもなく、ただ偶然ここで出くわし、その偶然性の中に潜む必然性に身を依りかけ、足場を失くしたかのようにグラグラと揺らぐ自分の心に、ほんの少しだけでも安定感を与えたかったのだ。

「あ、そうだ、ちょうどいいや」とリュウが言う。「雄馬、明日の夜って時間あるか? できれば楓ちゃんも」

「明日の夜? 明日の夜は……」

 明日は終日仕事は休みで、楓のバイトも夕方までのはずではある。だけど、時間があるかどうかと言われると、よく分からない。なにせぼくは謎の男に死の宣告を受けた男なのだ。残された時間はもうほとんどない。

「久しぶりに三人で夜飯にでも行こうぜ。この間、めちゃくちゃ美味いイタリアンを見つけたんだ」

「分かった。楓にも伝えとく」

「おう、よろしく」

 と、そう言って腕を持ち上げた拍子にリュウの手からビールの缶がすべり落ち、カランカランと軽快な音を打ち鳴らしながら、みるみると階段の下に転がっていった。リュウは慌ててそれを追いかけ、数段下のところで拾い上げた。

「酒の飲み過ぎで手元が覚束なくなってるんじゃないか?」

「間違いないな」リュウは肩をすくめてそう言うと、下からぼくを見上げて、「ははは」と笑った。「なんか今のお前、神様みたいだな」

「はぁ? なんだよいきなり」

「拝殿を背にして、夕陽に赤く照らされて、神様みたいだ」

「相変わらず、訳の分からないことばっか言うな、お前は」

「人とは違う感性を持ってるんだよ。伊達に小説家やってないからな」

 リュウが階段を昇り直して、ぼくの横を通り過ぎていく。

「もう行くの?」

「おう、お前は早く家に帰って、さっさと楓ちゃんと仲直りしてこい」

「だから、喧嘩なんかしてないって」

 リュウはぼくに背を向け片手をひらつかせると、そのまま渡り鳥が自分の巣の中に帰っていくように、裏手のゴールデン街へと去っていった。



 家に帰ると、楓はすでにベッドで静かに寝息を立てていた。バイト終わりにオーディションを頑張ってきたのだ、まだ夜の七時過ぎだが疲れて眠ってしまうのも無理はない。部屋の明かりは就寝灯ひとつで薄暗いけど、このまま電気はつけないでおこう。

 ネクタイを緩めながら座卓を見ると、手作りのおにぎりが二つ、サランラップに包まれ置かれていた。まだ少し温かい。その下にかまされたディズニーの付箋を抜き取り、そこに書かれた文字を見て、ぼくは笑みをこぼした。

『おかえり、お仕事おつかれさま』

 そして、その下には下向きの半円二つと上向きの半円が一つ。ちょうど昨日、カフェで話していたチェシャ猫の笑顔マークだ。

「ただいま、楓」

 ベッドのふちに腰を下ろすと、枕に顔の片側をうずめる楓が、「んん……」とかすかに反応した。床に膝立ちになり、毛布から少しだけはみ出た手を握る。オレンジ色の就寝灯が、彼女の寝顔を優しく暖めている。そんな彼女の鼻先に顔を近づけ、ぼくは小さな声で囁いた。

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 あの男の死の宣告が現実ならば、今回のオーディションの結果が出る頃にはもう、彼女の隣にぼくはいない。だからせめて、祈るくらいのことはしておきたかった。

「今日のオーディション、上手くいってますように」

「今日のオーディション、上手くいってますように」

「今日のオーディション、上手くいってますように」

 すると楓はむず痒そうに体をくねらせ、ぼくから顔を背けるように寝返りを打った。ぼくの吐息がくすぐったかったのか、あるいはぼくの儚い声が、彼女の心地良い夢の嫌なノイズになったのかもしれない。

「今のなに?」

 部屋の暗影に立つ男が、ぼくに訊ねる。もはや彼が突然現れることにも、ぼくは驚かなくなってしまっている。

「…………」

 口を結んでなにも答えずにいると、男はクスクスと笑って、ぼくの隣にどしんと座った。

「大丈夫だよ、僕との会話はこの子には聞こえない」

「……おまじないだよ」

「おまじない?」

「昔、父さんが教えてくれたんだ。この世の大抵のことは、自分の思考と意志次第でどうにでもなる。だから人は、こうして心の底から強く念じるんだ」

「あぁ、ただのインチキね。でも、そんなものは通用しないってことくらい、今の君ならよく分かるんじゃないの?」

「そんなことはない。ぼくは今でもこの力を信じてる」

「あ、そう。なんでもいいけど」

「なんでもいいなら、口を挟まないでくれ」

「はいはい。ま、とりあえず君の最後の願いが決まったら教えてね。なるはやで頼むよ、なるはやで」

 男は退屈そうにそう言うと、立ち上がってドアから部屋を出ていくでもなく、ぼくの目の前からスッと消えた。

「そう……ぼくは、信じてるんだ」

 最後に呟くようにひとりごちると、ぼくは座卓に場所を移して、楓が握ってくれたおにぎりを食べた。中の具は、ぼくの一番大好きな鮭だった。珍しく冷蔵庫から缶ビールを取り出し一本空けると、途端にぼくにも睡魔が押し寄せてきた。今すぐにでもベッドに入りたいけど、シャワーも浴びていない体で楓の隣に行くのは忍びない。

 十分、いや五分だけ。ぼくは重力の赴くままに座卓の上に突っ伏した。重たくなったまぶたを閉じる。とにかく今は少しだけ、このツラい現実に暗幕を垂らしていたかった。






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