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●わたし● 1


 春、どしゃ降りの雨の日に、わたしは雄馬と出逢った。その日のことを雄馬は覚えていないようだったけれど、わたしは今でもハッキリと思い出すことができる。

 その日は午後から突然雨が降り出し、朝から大学に出ていたわたしは傘を持ってきていなかった。いつもは折り畳み傘を一つバッグに入れているのに、その日に限って、それも自宅に忘れていた。ツイてないなぁと憂鬱になりながらキャンパスの出入口に佇んでいると、後ろから二人組の男性の楽しげな声が聞こえた。

 二人は外に出てくるや「なんでこんな雨降ってんの」「最悪、洗濯物干しっぱなしだ」なんて言い合いながら傘を広げて、わたしの横を通り過ぎていった。なんとはなしに彼らの後ろ姿を眺めていると、正門の手前で二人のうちの一人がふと立ち止まり、くるりと踵を返して、わたしのもとに駆け寄ってきた。

「傘ないの?」

「……へ?」

 不意に話しかけられ、ついマヌケな声を出してしまう。恥ずかしさから瞬間的に顔が赤らむのが分かり、咄嗟に視線を足元に伏せる。

「これ、使っていいよ。ぼくはあいつの傘に入るから」

「え? でも……」

「いいから。使って」

「ありがとう……」

 広げたままの傘を彼から受け取り、礼を言う。呆然と手のひらで包んだ傘の柄は、彼の体温でまだ少し温かかった。

「おーい、雄馬ー、ま・く・ら・ざ・き・ゆ・う・まー、なにしてんだよー」

 門の方から彼の友達がこちらに向かって叫んでいる。わたしは、その人が発した彼の名前を耳の中で大事に包んで、心の一番見つけやすいところにそっと置いた。

「おう、今行く!」彼が片手を上げて、返事をする。

「あ、あの……」

(楓───)

 刹那、そんなことあるわけないのに、目の前の彼に不意に名前を呼ばれた気がして、まだ少しだけ俯していた視線をハッと上げた。

「え……?」

「風邪、ひかないようにね」

「は、はい……」

「じゃあ、またね」

 優しさの中にもどこか憂愁を滲ませた顔でくしゃっと笑い、手で雨避けをしながら駆け足で友達のもとに戻っていく彼の背中を、わたしは、やはりただ呆然と見つめることしかできなかった。

 それからというもの、わたしはなにかにつけて彼の姿を見かけるようになった。教室に入って一番初めに目を向けた場所、食堂の向かい側のテーブル、大学キャンパスのエスカレーターの二つ前、生活のリズムはなにひとつ変えていないのに、まるでわたしの世界にある日突然彼が侵入してきたみたいに、彼は都度都度、わたしの前に現れた。

 そんなことを漠然と不思議に考えていたある日、受けていた哲学の授業で、世の中には「環世界」という概念があるという話を耳にした。この世のあらゆる生き物はそれぞれ個体特有の世界を持っているという考え方で、百年以上前に生物学者のユクスキュルという人が提唱したものらしい。

 たとえば犬は人間とは違う色彩感覚を持ち合わせているため、人間とは色の異なる世界を生きている。

 たとえば蝶は人間が知覚できない紫外線を見ることができるため、やはり人間とは異なる世界を生きている。

 ダニに至っては光と酸と体温という三つの要素だけで世界を構成しており、わたしたちが普段当たり前に感じている色や音も、ダニは一切知覚しない。知覚しないということは、それはその世界に存在していないということと同じだ。

 そんな風にして犬には犬の、蝶には蝶の、ダニにはダニの、人間には人間の、それどころか人間という括りさえ解体されて、わたしにはわたしの、あの人にはあの人の世界があり、生き物たちは、それぞれ主観的なその世界の中を生きているのだという。

 わたしはこの時、同じ教室の片隅に座る雄馬を横目に感じながら、強く思った。「運命の出逢い」というものが本当にあるのだとしたら、それはきっと、たとえば水溜りに浮かんだ泡と泡が近づき一つの泡になるように、誰かと誰かの環世界が偶然ぶつかり、それらが合わさり、一つになることを言うのだ、と。それまで漠然と抱いていた直感の通り、傘を貸してくれたあの日から、雄馬がわたしの環世界の中に入ってきたのだ。

 だけど雄馬は、まだわたしを知らない。彼の環世界にはまだ、わたしは存在していない。わたしたちはまだ、運命の出逢いを果たしていない。

 そんな折、チャンスは唐突にやってきた。七月の学期末テストの日、雄馬がわたしの隣の席に駆け込んできたのだ。どうやら寝坊してきたらしく、ひどく慌てた様子で自分のバッグを漁っている。

 胸が、ドッ……ドッ……と弾むのを感じた。飲み込んだ生唾が食道を伝って胃に落ちていく音が嫌に鮮明に耳に響いた。今しかない。今を逃せば、もう二度とわたしは彼の環世界には入れない。

「筆箱、忘れたの?」声をかけるが反応はない。多分、緊張のあまり声が出ていなかったのだろう。改めて、狼狽する彼に声をかける。「……シャーペン、これ使って」

「あ……ありがとう」

 今にも口から心臓が飛び出てきてしまいそうだった。みるみると体が熱くなり、手のひらもじっとりと汗ばんでいる。それを悟られないよう、必死に笑顔を取り繕う。彼が消しゴムも持ち合わせていないと分かれば、考えるよりも先に自分の筆箱の中から買ったばかりの消しゴムを取り出していた。定規でそれを二つに切り、片割れを雄馬の机に置く。すると、たった100円そこらの消しゴムの価値がたちまち十倍にも百倍にもなったような気がして、なんだか心がじわりじわりと満たされていくのを感じた。

「テスト、頑張ろうね、枕崎くん」

 思わず彼の名前を口にしてしまい、咄嗟に唇を引き結ぶ。ろくに話したこともないのに急に名前を呼ばれて、きっと不気味に思わせてしまったかもしれない。恥ずかしさのあまり、相手の顔をまともに見られない。ところが雄馬はそれには特別反応を示さず、ただ申し訳なさそうに眉を垂らすばかりだった。

「うん……でも、ごめん、こんなことまでしてくれて」

「いいのいいの。優しさは巡りめぐって自分に返ってくるものだから」素直にこの間の傘のお礼と言えばいいのに、ついつい回りくどくなってしまう。

「ありがとう……じゃあせめて、せめてこのあと、お礼にどこかでアイスでも奢らせてくれない?」

「お礼なんていいよ、気にしないで」

「だけど、んー……してもらいっぱなしじゃ申し訳ないし……」

「……分かった、じゃあ、奢ってもらおうかな、アイス」

 テストが終わると、わたしたちは二人で大学のカフェテリアに移動した。そこでの会話が思いのほか弾んだおかげで、連絡先も交換することができた。それから何度か二人で会うようになり、九月の三日に大学近くのマクドナルドで雄馬の方からわたしに告白をしてきてくれた。断る理由なんてなかった。

 その後、大学卒業と同時に同棲を始め、四年後の十一月一日、つまり二年前のわたしの誕生日に、彼から結婚しようとプロポーズされた。当然、その時も断る理由なんてひとつもなかった。

 夜が朝になる瞬間の空、歌うようにざわめく木々、生まれたての朝陽に目を細めながらわたしを見つめる雄馬の顔。森の中を歩いたせいですっかり疲弊した足の筋肉痛さえ愛おしく思えるほどに、わたしはあの時───わたしはあの時、人生で一番、幸せだった。



 キラキラと華やいでいた当時の記憶を、また夢に見てしまった。目が覚め、重たいまぶたを持ち上げると、隣で眠る翔太の寝息がズーズーと聞こえた。上体を起こし、手のひらで乱暴に顔面をこする。はぁっと寄る辺のない溜息を吐き出し、窓の外を一瞥すると、サラサラと雨が降り落ちていた。

 床に投げ捨てたブラジャーをつけ、ハンガーからワイシャツとスラックスを引き抜き、寝室を出る。着替えながらダイニングテーブルの椅子に腰かけ、スマホの時間を確認すると、朝の六時半となっていた。この家に越してきてもう半年が経つけれど、いまだに我が家という実感がない。仮住まいというのか、ホテルに長居をしているような感覚だった。

 スマホのメールアプリにマネージャーからの通知が一件、届いていた。その内容は見るまでもなく分かるが、見ないわけにもいかないので、仕方なく親指で画面をタップし、メールを開く。『残念だけど、今回も』まで読んで、すぐに消した。『駄目だった』まで読んだら泣いてしまいそうだった。『次また頑張ろう』まで読めば叫んでしまいそうだった。

 子供の頃から、女優になるのが夢だった。キッカケはよくある単純なもので、幼稚園のころ近所のおばちゃんに『楓ちゃん、女優の誰々に似ているね』と言われて、ついその気になってしまっただけのことだった。大学では演劇サークルに所属し、卒業するとコンビニとバーのバイトを掛け持ちしながら、ひたすらオーディションを受け続けた。一応、芸能事務所にも籍を置き、CMの端役や再現ドラマ、ミュージックビデオにチラホラと出演させてもらったこともあるけれど、自らを女優と名乗れるほどの成果は依然として挙げられていない。それどころか今はもう、誰かに肩を叩かれ、『もう諦めな』と言われるのを待っているだけのような気もしている。わたしの夢は夢というより、今や呪いに近いのかもしれない。

 寝室から翔太が出てきてわたしに「おはよう」と言うと、そのまま欠伸混じりにキッチンに移り、コーヒーを淹れはじめた。彼は恋人ではなく、二ヶ月ほど前から時々家に現れては体を重ねるだけの、いわゆるセックスフレンドという関係なのだと思う。雄馬の死後一年間は他の男性と話すだけでも拒否反応を起こしていたのに、二人で暮らしていた部屋を出て、今の部屋に越してきてからというもの、心の大事なところに挿していたピンが外れたみたいに、わたしは好きでもない相手に体を許すようになってしまった。そしてそのたびに雄馬のことを思い出し、自己嫌悪と空虚感に押し潰されてしまいそうになるのだった。

「仕事は何時から?」

 向かいの椅子に腰を下ろした翔太が、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップをこちらにずいと差し出してくる。

「十時。だから、九時にはここを出なきゃ」

「お、それじゃあ、あと一回はできるな」

「ごめん、今はそんな気分じゃない」

「ちぇっ」

 わたしが断るといつも翔太は子供のようにいじけてみせる。そんな、とても二つ下とは思えぬ情けない姿に、わたしもついつい甘くなってしてしまう。

「……じゃあ、30秒ゲームで決めよう。わたしが勝ったら今日はもうナシ。翔太が勝ったらあと一回」

「望むところだ」

 目を閉じたま秒数を数えて、どちらがより30秒に近く止められるかを競うゲームで、スマホのストップウォッチ機能を使えば簡単にできる。

 まずはわたしが目を瞑り、適当に心の中で30秒数えて、ストップを押す。タイムを見ると26秒07で、およそマイナス3秒だ。今度は翔太がわたしの手からスマホを引ったくり、心の中で数えればいいものをわざわざ口に出して「1……2……3……」とカウントしていき、「30ッ!」と叫ぶと同時にストップを押す。画面を見ると、35秒01となっていた。

「はい、わたしの勝ちね」

「また負けたぁ」

 悔しそうに頭を抱える翔太の背中をポンポンと叩き、わたしは、彼が淹れてくれたコーヒーをひとくち飲んだ。



 その日の夜、仕事を終えたわたしは新宿駅の西口にある思い出横丁に足を運んだ。横丁の狭い通りはいかにも昭和然としていて、古き良き飲み屋が所狭しとひしめいている。スマホが指し示す焼き鳥屋を見つけて中に入り、急勾配の階段を昇って二階に上がると、布田さんは壁際の席に座って、すでにビールを一杯飲み干していた。

「おー、楓ちゃん。すぐにここ分かった?」

「なんとか。思い出横丁なんて、学生の時ぶりかも」

 布田さんの向かいに腰を下ろして、ちょうどやってきたアジア系の店員さんにビールの追加をお願いする。

「ごめんね、我慢できずに先食べちゃってた」

「ううん、いいの。わたしもお腹ぺこぺこ」

 布田さんは大学の演劇サークル時代の先輩で、歳は彼女が一つ上。大学卒業後も世話になりっぱなしで、雄馬が亡くなり、ずっと続けていたバーとコンビニのバイトも辞めて、廃人同然の生活をしていたわたしに、今の職場を紹介してくれたのも彼女だった。

「仕事はどう? もう慣れた?」

「なんとかね。思ってたより大変だけど、そのおかげでなんとか今も生きていられてるって感じかな」

 自虐をしたつもりではなかったけれど、今のわたしの状況を考えれば自虐以外のなにものでもないなとも思う。

 わたしは今、新宿と渋谷の区境いにある図書館で契約社員として働いている。もちろん司書の資格は持っていないが、司書でなくても図書館で働くことはできるらしいのだ。今までコンビニとバーのバイトしかしてこなかったわたしにとって、図書館での仕事はまるで別世界のようなものだったけれど、とにかく今は落ち着いた環境で働けること自体が有り難かったし、なにより今回はバイトではなく、契約とはいえ社員として雇用してもらっているので、収入の面でも比較的余裕を持つことができている。

「もしツラくなったら、私のことは気にしないで、いつでも辞めていいんだからね」

「うん、大丈夫。今のところは」

 布田さんは大学四年の時点で演技の道はスッパリと諦め、就職活動に邁進し、マーケティングの会社に就職を果たした、わたしからするとスーパーキャリアウーマンだ。その会社が公共図書館の指定管理も併せて行なっていて、その繋がりでわたしを今の職場に推薦してくれたのだった。

 それからしばらくして、二人分のビールが運ばれてきた。テーブルの上には先に布田さんが注文していたしめ鯖とモツ煮の皿が置かれている。

「ぷはー、やっぱりビールは美味いねぇ」

 布田さんはしめ鯖を肴にジョッキの半分をひと飲みすると、昭和の親父のように気持ちよく唸った。

「相変わらず、いい飲みっぷりだね」

「飲まなきゃやってらんないよ。このストレス過多の現代社会じゃさ」

「……あれ、でも布田さん、少し痩せた?」

「そう? そんなことないと思うけど」

「なんとなく、首のラインが細くなった気がする」

 最後に布田さんと会ったのは三週間くらい前だっただろうか。昔から彼女はスタイルが良くて、街を歩けば誰もが一度は振り返るレベルの美人だったが、それにしたって今は少し痩せすぎているような気がしないでもない。この二年間で十キロ以上痩せてしまったわたしが言うことでもないのだけれど。

「まぁ、三十超えると食も細くなるからね。そういう意味では、たしかに少し痩せたかも」

「ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」

 ここに来てからまだ一度も箸を取っていないわたしが、すでに二切れ目のしめ鯖を口に頬張っている彼女にそんなことを言うのは、なんだかすごく滑稽な気がした。

「いやいや、私のことなんかより、私は楓ちゃんが心配だよ。最近どうなの? なにか楽しいことあった?」

「うー……ん」仔犬のように弱々と鳴いて、小首を傾げる。

「前に言ってた彼、翔太くん、だっけ? 彼とはどうなの?」

「別に、特に変わりなく、今まで通りって感じかな」

「翔太くんはきっと、楓ちゃんのことが好きなんだと思うけど」

「どうだろうね。わたし、彼がなにをしてる人なのかもよく知らないし」

「児玉とは今も会ってるの?」

「ううん、リュウくんとは最近全然会えてない」

「ま、彼も売れっ子作家だからねぇ」

 そう言って、布田さんは二杯目のビールをぐびっと飲み干す。彼女とリュウくんは約一年半前、雄馬の四十九日を終えたあとに、リュウくんがわたしを元気付けるために開いてくれた会で知り合い、意気投合したらしい。今でもたまに二人で飲みにいくと言うから、人と人との出逢いというのは、本当に分からない。

 しばらくしてトイレに行こうとすると、この店にはトイレがないから一度外に出るしかないと言われて、仕方なく外の通りの公衆トイレに向かった。

 ところが、いざそこに到着してみると、ドアの前にすでに三人も人が並んでいたので、わたしは諦め、店に戻った。

 すると、急勾配の階段を昇っているうちに、なぜだか急に涙が溢れ出てきた。二階へ向かうこの階段が果てしなく感じた。涙を拭い、やっとの思いで階段を昇りきると、布田さんが三杯目のビールをちょうど飲もうとしているところだった。

「あれ、早いね」

「うん、なんか混んでた」

 戻ってきたわたしの顔を見るなり、布田さんはすぐになにかを察して、わたしの背後の壁に貼り付けられたメニュー表を指差した。

「肝心の焼き鳥を頼むの忘れてたから、適当に頼んどいたよ」

「うん、ありがとう」

 そうやって布田さんがせっかくわたしの視線を逸らしてくれたというのに、後ろの壁に顔を向けた途端に、なぜだかまた、涙が溢れ出てきた。何度手の甲で目をこすっても、今度の涙は収まることなく流れ出てきて、止めようがない。

 布田さんはなにも言わなかった。ただわたしが泣き止むのを待ってくれた。しばらくしてようやく涙も落ち着き、逸らしていた顔を正面に戻すと、彼女は何事もなかったかのようにしめ鯖を口にし、「あぁ、美味しい」と呟いた。

「ねぇ、布田さん?」

「んー?」

「……わたし、変わったよね」

「変わった? なにが?」

「昔のわたし、こんなんじゃなかったよね」

 雄馬がいなくなってからというもの、わたしの中にあるありとあらゆるものがガラリと変わった。性格も、環境も、時間の流れ方も。もうあの頃のようには笑えないし、あの頃のようには生きられない。雄馬が亡くなってから一年半。だけどわたしにとってはまだ、昨日今日の出来事なのだ。それなのに、わたし以外の世間は今も尚、何食わぬ顔でいつも通りの時間を消化している。

「そうは言っても、そもそもさ、変わらない人なんていないんじゃない?」

「そうかな……」

 そんなことはない、と思う。少なくともわたしの目に映る布田さんは、学生の頃からなにひとつ変わらない、強くてカッコよくて優しい布田さんのままだ。

「たとえば……ねぇ知ってる?」と、布田さんは自分の皮膚の感触を確かめるように、片方の手でもう片方の手のひらを揉んだ。「人間の体ってね、毎日毎日、何十億個もの細胞が作り替えられてるんだって」

「サイボウ?」

唐突に話が変わり、頭の中で細胞という漢字を引くのに数秒かかってしまう。

「そ、細胞。つまり昨日の自分と今日の自分はまるっきり同じじゃないの。でもほら、私は私でしょ? 少し痩せても、髪を切っても、私は私。多分、次に会う時もね。私は日々体の内側から変わっていくのに、私自身はなにも変わらない」

「そう……なのかな?」

「要するにさ、変わりたくなくても否応なしに人は変わる生き物なんだよ。みんな、大切な自分という存在そのものを変えないために、少しずつ少しずつ変わっていくの」

「あー……あっ、もしかして布田さん、髪切った?」

 思いも寄らず揺れた内心をごまかすように、わたしは彼女の髪を目で差した。そういえば肩まで伸びていた彼女の髪が、ほんの少しだけ短くなっている。

「遅い!」

 布田さんはぺちんとわたしのおでこを軽く叩くと、「すみませーん、ビール追加で」と、一階にいる店員さんに向かって、大きな声を上げた。







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