ナイトマーケット
夜空に浮かぶ月は淡い銀色の涙を零すように、静かに街を照らしていた。夜風がそっとささやく音は、人々の身体に潜む忘れられた記憶を揺り動かす。そんな闇の深淵にこそ、俺は商機を見出す――俺の名はネムリ。悪夢を集める商人だ。誰も気づかないうちに人の脳裏に潜む不安や苦悶の欠片を買い取り、その借金を抱えながら生きている。
この世界では、夢と悪夢はただの睡眠の副産物ではない。心の深奥にある恐怖や孤独は、希少な〈感情エネルギー〉として取引される。夢売買市場と呼ばれる闇の世界では、希望の光すらも金で買えるが、代償として闇の深さを金額に換算することもある。人々は自分の魂の一部を売り渡し、夜毎に訪れる深淵をほかの誰かに委ねる。その伝播の輪を縫うように、俺は商売を続けてきた。
都会の片隅にひっそりと存在する地下取引所は、錆びた階段を数十段降りると見えてくる。重い鉄格子の扉を開けると、薄暗いランプの光が揺れ、煙草の煙が渦を巻いている。そこには金額を記す電光掲示板と、ガラスケースに並べられた結晶――悪夢の抽出物だ。茜色に染まった水晶のような結晶の中には、かぎりなく濃縮された恐怖や悲しみの断片が閉じ込められている。価格は、結晶の大きさと凶悪度で決まり、安いものだと千円程度、高いものは一万円を超えることもある。
厨房の奥には簡易席があり、夜食代わりに出される小鍋の中に、俺への差し入れとしてうどんが浮かんでいた。ユウヤや他の商人たちはスープをすすりながら、客の噂話や情報を交換する。誰も笑顔など浮かべず、どこか寂しげに箸を動かす様子は、まるで闇に棲む生き物の晩餐のようだった。
「おい、ネムリ。今夜はどんな悪夢を用意してくれた?」
馴染みの顔、情報屋のユウヤが地下室の奥から声をかける。薄い笑みを湛えた顔には、深い疲労が刻まれている。俺はポケットからビニール袋に包まれた小さな黒い結晶を取り出し、掌に乗せたままそっと息を吹きかけた。結晶の奥に封じられた怯えと絶望が、蒼くほのかな光を放ちながら微かに震えている。
「これはな、初期段階の〈悪夢〉だ。疲れ知らずの心を蟻地獄の如く引きずりこむ、精神を焼き尽くす焦熱地獄――」
俺はぼそりと言葉を紡いだ。ユウヤは頷き、眉間に皺を寄せる。「お前も情けなくねぇか? 他人の恐怖を紡ぎ合わせて利益を得るなんて。あいつらの悪夢を一ミリでも共有したことがあるのか?」
俺は瞼の奥で幼い頃の記憶を呼び覚ました。
母親が夜毎に嗚咽を零して眠れぬ夜、真夜中の台所で涙を拭う背中を、俺はただ傍で見守るしかなかった。翌朝、母の作る朝食の匂いすら、悲しみで塗りつぶされていた。あのとき――もしも俺が母の悪夢を買い取って、一緒に背負えていれば。甘く切ない悔恨が胸を揺さぶる。
「ああ、あるさ」。俺は頷いた。「子供の頃、母さんの悪夢を見た。狂った庭のように歪んだ世界で、俺の名前を呼ぶ声が響いたんだ。あれを俺が買い取れたら……」。言葉を飲み込み、俺は微かに唇を噛んだ。それが、悪夢商人としての運命の苗床だったことを、当時の俺はまだ知らない。
その夜、俺が商う悪夢はおよそ十種類。焦熱地獄や冷凍世界、無慈悲な闘技場の叫び、深海に沈む沈黙――どれもこれも、見る者の精神を食い尽くす禍々しさを秘めていた。しかし客の多くは、己の地獄をより鮮明に感じたい――生きた証を確かめるために悪夢を買うのだ。正気と狂気の境界を往来することで、心臓が鼓動を打つことを実感する。悲しき哉、人間は苦しみさえも貴重な感覚と感じるのだろう。
地下室の奥では、年配の男がひざを抱えている。目は虚ろで、長い銀縁眼鏡が暗がりにきらりと光った。ぼそりとつぶやく声が耳に届く。「…最近、悪夢が薄くなった気がする…」。どうやら彼は仕事のストレスか何かで心の奥底に隠されていた深い闇を売り渡し、今では無感情に近い状態らしい。俺は反射的に顔をしかめたが、これもまた商売の一環だと自分に言い聞かせる。
やがて、ある客の女性――白いドレスに薄い化粧を施したその女が近づいてきた。僕と目が合うと、小さく息を飲んだ。その視線には、深い悲しみと叫びが滲んでいる。震える声で言った。「あの子の悪夢を……」。彼女が欲していたのは、幼い少女の孤独と渇きが封印された結晶。ガラスケースに収められた結晶は、まるで手を伸ばせば砕け散りそうな繊細なガラス細工のように見えた。値段は高かった。八千円。彼女は震える手で金を握りしめ、ガラスケースを開くや否や結晶を抱きしめると、しばらく泣き崩れた。
俺はその場を離れ、角の柱に寄りかかって静かに見守った。胸の奥が締めつけられるような痛みを感じながら、それでも俺は手を差し伸べることはできなかった。ただの商人でしかない自分を責めたが、誰も救えない孤独には触れないほうがいい。むしろ、触れた瞬間に自分自身も壊れてしまいそうで恐かった。
取引が一段落すると、俺はバッグに結晶を仕舞い、一杯の苦いコーヒーを淹れた。薄暗い照明に照らされたカップから湯気が立ち上り、その香りが僅かに俺の脳を覚醒させる。コーヒーの苦みは、悪夢の余韻を少しだけ和らげてくれるようだった。
しかし、その夜、運命は牙を剥いた。
突然辺りが騒然とし、重装備の護衛部隊が地下室の扉を蹴破り、閃光弾を投げ込む。警告音と共に、異様な緊張が空気を切り裂いた。悪夢商人の取引は違法であり、権力者の陰謀によって犯罪組織の資金源とされているという名目で、一斉摘発が始まったのだ。
混乱する人々の間をすり抜け、俺は悪夢結晶を詰め込んだバッグを抱えて暗い通路を駆け抜けた。背後ではガラスが砕け散る音と、慌てふためく叫びが鳴り響く。重い装備を叩きつける足音が一歩一歩近づき、俺の鼓膜は痛むほどに響く。
崩れかけた階段を駆け上がり、廃ビルへ飛び込んだ。錆びた鉄骨と崩れ落ちたコンクリートの臭いが鼻をつく。雨粒が肌を打ち、視界を濡らす。遠くでサイレンの音が近づき、人々が「逃げろ!」と叫ぶ声が闇夜に紛れて聞こえた。廃ビルの二階からさらに上ると、屋上の縁に辿り着く。そこはコンクリートの埃と雨の匂いが混ざり合う場所だった。
屋上の淵に立つ俺の手には、一つだけ残った最後の悪夢の結晶が握られている。これを売り払えば、一カ月は家賃や食事に困らない。しかし、覚悟を決めてこの結晶を手放せば、きっと誰かがその闇に飲まれるだろう。あの結晶には、俺の妹が最後に見た悪夢が詰まっている。それは――幼い娘が見た、家族を炎に包まれて奪われる悪夢。妹は一度も目覚めることなく、この世を去ったのだ。
「……もうやめよう」。俺は雨に打たれながら呟いた。言葉は静かだったが、その決意は揺るぎない。誰かの苦しみを商売にし、それで金を稼ぐ行為は、何一つ救いにならない。だからこそ、俺はこの結晶を抱えたまま屋上の淵に飛び降りた。
ガチャンと瓦礫に叩きつけられる音と共に、紫の光が闇に砕け散る。その瞬間、空気が一瞬で凍りつき、世界が静止したようだった。俺は拳を握り締め、頭上に広がる夜空を見上げた。母と妹への後悔、何度も背を向けた自責の念が胸を満たす。しかし、同時に小さな希望が芽生えた。
空から降り注ぐ雨粒が、まるで祝福のしずくのように俺の肌を伝う。世界は再び動き出し、遠くから風鈴のような鈴の音が聞こえたような気がした。
やがて警察のヘルメットがちらつき、護送される未来が迫っていることを感じたが、構わない。俺は本当の意味で「自由」を手に入れたのだから。夜明けが近い。雨は止み、東の空が淡い朱色に染まり始めた。雲の隙間から射し込む朝陽は、ビルの隙間を優しく縫い、世界を温かく照らす。
俺の胸には、まだ誰にも見せたことのない小さな笑みが宿っていた。その笑みは、過去の闇を手放したことで初めて得た光の証だ。
ネムリはそのまま屋上の縁に座り込み、初めて深い安らぎに包まれた眠りへと堕ちていく。ここからが本当のスタートだ――悪夢の代わりに、今度は希望を紡ぐ旅が始まるのだから。
長き歴史の中で、人は古くから夢を神聖視してきた。夜な夜な神殿に奉納された夢の捧げものは、未来予知や癒しの力を与えると言われた。しかし、時代が移り、人々の心は荒廃し、やがて夢は市場の商品の一つとなった。天上の賛美歌が耳に届かないまま、悪夢は地下に蠢く闇取引所のメインディッシュとなった。
しかし、俺がこの商売に足を踏み入れたのは、そんな壮大な歴史や哲学ではない。幼い頃、母親の不安定な心が隠し切れなくなった頃、俺は初めて夢の深淵を垣間見た。眠りにつくたび、母の悲鳴が夜を切り裂き、俺は枕を濡らして呟いた――「お願いだから、俺に悪夢をくれ」それが良かれ悪しかれ、後の俺の運命を決めた。
あの日、俺はまだ八歳だった。学校からの帰り道、古本屋で見つけた一冊の書物がきっかけだ。タイトルは『夢と魂の交易論』。そのページをめくるたび、次第に世界が揺らぎ、夜という夜が得体の知れぬ糸で紡がれていくのを感じた。誰かの悪夢を少しだけ預かるだけで、心の重荷を分かち合えるのではないか――そんなお節介心が空回りし、いつしか俺は「悪夢商人」として闇へと染まっていった。
そうして十年。俺はひたすら夢の闇を売買し続けてきた。だが、商人という立場はいつも孤独だ。取引は瞬時に終わり、客がガラスケースを後にすれば、そこに残るのは薄っぺらい空虚だけだ。かつて母の悲しみを遮断できなかったあの日から、俺は人の心の痛みに背を向け続けてきた。たとえ一瞬でも誰かの恐怖を共有すれば、壊れてしまうと思い込んでいたのだ。
しかし、ある夜、俺はふと立ち止まった。地下取引所からの帰り道、路地裏に咲く一輪の花が目に留まった。濡れたアスファルトに映るその花は、夜の闇に翻弄されながらも美しく凛として咲いていた。思わず立ち止まり、靴紐を直しながらぼそりと呟いた――「お前、まだここで咲いているのか」。何気ない言葉だったが、それこそが夜の静寂に小さな光を灯すように感じた。
俺はそうして立ち止まった自分に気づき、初めて自分の内側にも光が残っていることを思い出した。悪夢を買い取ることばかり考えてきたが、自分自身の“希望”を買い取る方法を忘れていたのだ。
そしてその夜、一斉摘発が起こった。護衛部隊の襲撃を受け、俺は最後に残った「妹の悪夢」を抱えて廃ビルの屋上へと逃げ延びた。雨粒に打たれながら、俺はようやく過去の自分と対峙した。母の呪縛と、妹の最後の叫び。どれだけ金を稼ごうと、家族の傷は癒えない。だからこそ、俺はこの結晶を破壊しなければならなかった。
結晶はガチャンと瓦礫に叩きつけられ、紫の光が夜空に溶けていった。まるで夜の闇が一片ずつ解かれるように、俺の胸にも重石が落ちる感覚があった。母と妹に対する贖罪と、自分への赦しが、そのとき同時に生まれたのだ。
廃ビルの屋上で、俺は初めて笑った。人生でこんなに無邪気に笑ったことは、いつぶりだろうか。心の奥から溢れ出す暖かさは、まるで春先の雨のように優しく、そして確かに俺を抱きしめた。
やがて警察のヘルメットがちらつき、護送されるという未来が迫っていたが、構わない。俺はもう二度と、他人の闇を奪って金を稼ぐことはしない。取引所の仲間も、ユウヤも、みんな泥にまみれて追いかけっこしているだろう。だが俺には、これから紡ぐべき物語がある。
夜明けが近い。雨は止み、東の空が淡い朱色に染まり始めた。雲の隙間から射し込む朝陽は、ビルの隙間を優しく縫い、世界を温かく照らす。俺の胸には、まだ誰にも見せたことのない小さな笑みが宿っていた。その笑みは、過去の闇を手放したことで初めて得た光の証だ。
ネムリはそのまま屋上の縁に座り込み、初めて深い安らぎに包まれた眠りへと堕ちていく。ここからが本当のスタートだ――悪夢の代わりに、今度は希望を紡ぐ旅が始まるのだから。
朝陽の光が完全にビルを染め上げると、俺は目を覚まし、伸びをした。空気は清々しく、どこか新しい香りがした。ネムリ――それが、かつての俺の名だ。今日からは、夢を売るのではなく、自分自身の夢を取り戻す。そう決めた瞬間、世界は少しだけ輝きを増した気がした。