第9話 白と黒、そして赤の情景
午後八時、コスプレパブ「パラダイス」の店内にはビートの効いたBGMが流れ始めた。それとともにフロアを仕切る黒服がマイクパフォーマンスを始める。
「今宵お越しくださいましたお客様にお送りしますショータイム、本日は八時、一〇時、そして午前零時と三つのステージをご用意しております。このたび長い、長い巡業から帰ってまいりましたあの緊縛師、高英夫が三年ぶりにお見せします魅惑の演技をどうぞお楽しみくださいませ。それでは登場です、高英夫、そして亜梨砂、皆さま、盛大なる拍手でお迎えくださいませ!」
白い肌に黒いボンデージ調のランジェリーが映える女性の名は亜梨砂、そして緊縛師高英夫は設営のときと同じく黒いレザーパンツに革ジャン姿の出で立ちだ。彼らの登場とともにバックで流れる音楽もストリングス主体の妖艶な曲調に変わる。二人はやけに恭しく頭を下げると早速演技を始めた。
高英夫は十分になめした赤い荒縄でまずは亜梨砂の手首を後ろ手に拘束する。続いて縄を首から股間へ通して締め上げる。恍惚の表情で小さな声を上げる亜梨砂、そこからは見る見るうちに乳房、腹と縄を這わせてあっという間に亀甲縛りが完成した。白い肌に黒い小さなランジェリー、そして赤い荒縄、スポットライトに照らされたその姿は普段のこの店とは趣が異なるどこか淫靡な雰囲気を醸し出していた。
続いて縄のもう一方の終端、これは頑丈な鉄パイプで組まれた拘束具にフックで留められたものだが、それを利用してテコの原理で亜梨砂を締めあげると、あっという間にその身体を吊り下げてしまった。
客席からは驚嘆のどよめきが沸き起こる。ヘルプとしてカウンター脇で待機しているミエルもまた彼らの演技に見入る観客の一人となっていた。
男は黒い鞭を手にしている。数本の鞭を束ねたいわゆるバラ鞭はその音こそ派手ながらも打たれる相手へのダメージは少ない。男が鞭を鳴らすたび女は恐怖に慄いた表情を浮かべる。そしてついに白い肌へと鞭が振り下ろされた。
「あ――っ」
女は思わず声を上げる。散々鞭の洗礼を浴びせた男は続いて女の左足を掴んでパイプで組まれたフレームの最上段に括りつけた。真っ逆さまに吊られる女、男はもう片方の足をもフレームの上段に縛り付ける。ついに女は一八〇度開脚の状態となり、黒い小さな革で隠された股間が露わになった。
客席からはまたもやどよめきが沸き起こる。皆これから始まるサディスティックな拷問劇に期待を寄せているのだ。
男は眉ひとつ動かさずに女の敏感な部分に鞭を振り下ろした。
「あうっ、あ――っ!」
苦悶に満ちた表情で叫ぶ女、男は容赦なく二発、三発と振り下ろす。そして四発目が放たれる直前に男は少しばかり眉を顰めたかと思うと振り上げた手を下ろしてしまった。
客席からは期待を裏切られたようなざわめきが、その空気を敏感に察した男は鞭の柄を女の股間に押し当てて急場をしのいだ。しかし女の反応は鈍く、いつもの阿吽の呼吸はそこにはなかった。
男は小さく舌打ちすると最後の一発を振り下ろす。断末魔の如く女が上げる悲鳴で演技は幕を閉じた。
さあ、ここからがお楽しみだ。縛られた女を引き連れて男は客席を回る。もちろん客は手にしたチップを女の衣装や縄の間に差し込んでいくのだ。そしてこれが彼ら二人にとってギャラとは別の重要な収入源だった。
しかし今日はあっさりと女の縄を解いてしまった。いささか不機嫌な様子でぶっきらぼうに一礼するとワンテンポ遅れて女も慌ててお辞儀をする。そして男は女を振り返ることもなく楽屋代わりのバックヤードへと引っ込んでしまった。
慌てたのは店のスタッフたちだ。まるで取り繕うようなマイクパフォーマンスで初回の演技終了を告げると店内のBGMは再びアップテンポなビートに戻っていった。
部屋の中は険悪な空気に満ちていた。白いガウンを羽織った亜梨砂は高英夫と目を合わせることなく終始俯いたままだった。一方の高英夫も彼女を気遣うこともなくずっとソッポを向いていた。
「お疲れ様でした。軽い食事とお飲み物をお持ちしました」
そんな沈んだ雰囲気の中、明るい声とともにトレイに載せた料理を持って来たのは体操着姿のミエルだった。その声をきっかけにして高英夫が亜梨砂に声をかける。
「さっきのことはさておいてとりあえず腹ごしらえだ……って、おいおい変わり種のお嬢さん、こいつは何って料理なんだ?」
「えっと、エッグ、エッグベネディクトって言います」
「どれどれ、それじゃひとつ頂くとするか」
そう言って高英夫は小さな皿に盛られた料理を口にする。
「おっ、こりゃいいな。軽い割には腹にもたまりそうだ。お嬢さん、シェフによろしく伝えてくれ。ほら、亜梨砂もどうだ。食えば気持ちも落ち着くぜ」
しかし亜梨砂は俯いたままだった。こんなときに彼女を刺激するのは逆効果なのは彼が一番よく理解している。高英夫は小さなため息だけをつくと大きめのカップで湯気を立てている熱いコーヒーを口に流し込んだ。
すると今度は今まで俯いていた亜梨砂がゆっくりと立ち上がる。そして「ちょっと外の風にあたってくるわ」の言葉を残して部屋を出て行ってしまった。
今日の亜梨砂はいつもの彼女とは違っていた。高英夫のひと振りひと振りに対する反応がことごとく鈍かったのだ。それも一番の見せ場である開脚逆さ吊りでの一幕は彼にとっても許しがたいものだった。とは言え彼が彼女を責める気などは毛頭なかった。何よりこの後に二回のステージが控えているのだ、とにかく彼女の中にわだかまる何かを一刻も早くなんとかしなくてはならない。
「もしかしたら……」
高英夫はここ数日のことを思い返してみた。
一昨日に亜梨砂のスマートホンが鳴った。電話の相手は彼女の父親だった。家を飛び出してからすっかり疎遠になっていた父親だ、確かに少しばかりの動揺は見せていたが電話を切った後はいつもどおりの彼女だった。そして今日、二人が暮らす部屋に小さな小包が届く。それを受け取ってからだった、目に見えて彼女の様子が変わったのは。
問いただすべきか、やり過ごすべきか、彼は逡巡する。しかしそんなことよりも問題なのはこの後に控えるステージをどうするかだ。今の亜梨砂にあと二回の演技なんてとても無理だ。しばし考えた高英夫は何かを思いついたように顔を上げる。そしてミエルを見て言った。
「変わり種のお嬢さんに頼みがある。ちょっと話を聞いてくれないか、もちろんギャラは出すからさ」