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第60話 血染めの懸垂下降

今話は文中に少々エグい描写があります。

苦手な方は文末まで読み飛ばしても問題はございません。


「それではサヨナラね、再見ツァイチェン


 怒りと恨みに満ちた声を上げる大門啓介に微笑みながらそう言うと悠然ヨウランは手すりを跨いでパラペットの縁に立つ。遥か下界には並ぶ警察車両、向かいのビルの外壁に反射する赤色灯の点滅が彼女の頬も赤く照らした。

 これからロープ一本でビルの壁を下りていくのだ、命綱などない。悠然ヨウランは今一度深呼吸して覚悟を決めた。

 こちら側の終端は大門啓介本人、その首だ。果たして荷重に耐えられるのだろうか。しかし彼女にはわかっていた、人間の身体からだというものは想像している以上に負荷に強いことを。それが彼女がかつて受けた教練の賜物だった。


「中国女、貴様だけは絶対に許さん。俺が死んでも貴様らの思い通りになるものか、俺だって二の手、三の手を打ってるんだ、後悔するぞ」


 いくら声を上げようが全ては無力、悠然ヨウランは下界を背にして立つとついにビルを蹴って降下した。懸垂下降、それは軍隊やレンジャー部隊がやる降下方法だった。ビルの壁を蹴っては小刻みに下りていく。それは彼女がまだ駆け出しの頃に組織の訓練施設で叩き込まれたものだった。ただしあのときの高さは数メートルだったし地面には分厚いマットが敷かれていた。もちろん安全確保のカラビナやハーネスも装備していた。しかし今は違う。彼女が命を預けているのは高英夫こうひでおが残したロープ一本だけだ。雑念を払え。悠然ヨウランは余計なことは考えずにひたすら下りることだけを考えていた。



 大門啓介は夜空を見上げていた。星明りよりもなお明るい歌舞伎町の街明かり、それに加えて赤色灯の赤い点滅、彼の前には星など見えずただ暗い闇が広がっているのみだった。一定のリズムで自分の首が絞まっていくのがわかる。あと何回かで頸動脈は圧迫されやがて頸椎も破壊されるだろう。しかし今の彼には不思議と苦しさは感じられなかった。

 眠い、とにかく眠い。それは彼自身の防衛本能がそうさせていたのだろう、大門啓介はゆっくりと目を閉じた。そこではまさに走馬灯の影絵の如く、彼の脳裏に幼いころの記憶が再生されていた。


 毎日のようにけなされ、からかわれてはひとり泣いていた亜梨砂と小学生離れした体躯の勇次の三人で連れだって日が暮れるまで小津山おづやま公園で過ごした日々、場面が暗転するとそこには得体の知れない武器を手にして独学で学んだ中国拳法を操る勇次がいた。彼を用心棒にして喧嘩に明け暮れる青春時代、その脇で淋しそうに二人を見ていた亜梨砂が突然踵を返して闇の中へと消えていく。

 啓介が彼女を引き留めようと伸ばした腕の先では決して裕福には見えない親子がこちらを見つめていた。その数が一組、二組と増えてゆきやがて彼をぐるりと取り囲む。無言の圧力で迫りくる彼らは啓介の地上げで家庭を壊された家族たちだ。みな口々に恨み言をつぶやいている。しかし反論しようにも声が出ない、このままでは押しつぶされる。わずかに空いた隙間、そこをむりやりこじ開けて人間の壁を抜け出した。

 すると再び闇の中、目の前がスポットライトに照らされるとそこに立つのはまだ幼い吾郎だった。声は聞こえないが彼が何を言ってるかは不思議と理解できた。「啓ちゃん」まるで弟のようだった吾郎がその名を何度も繰り返す。やがてその姿はソフトリーゼントの青年に変わる。彼は右手を小さく上げて別れの仕草を見せるとそのままこちらに背を向けて闇の向こうへと消えていった。

 スポットライトの明かりも消える。ついに啓介の視界は完全な闇に包まれるのだった。


 何度目かの圧迫感を首に感じて我に返る大門啓介、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「亜梨砂、勇次、待っててくれよな。俺をひとりにしないでくれ、頼むよ」


 彼が出ない声を振り絞ってそうつぶやいた直後、彼の首はこれまでにない圧力とともにいやな音を発した。大門啓介の口からだらりと舌が伸びる。同時にその目も裏返らんばかりに白目を剥く。そして彼の鼓動もまた停止するのだった。



 頭の上と腰のあたりとでロープをしっかりと掴んで身体からだを支えながらビルに対して垂直に置いた足でその壁を蹴る。同時に両手の力を緩めて数十センチ降下する。悠然ヨウランは頭上を過行く窓の数を数えていた。


「今は五階、あともう少し。大門ダーメン大人ダーレン、あともう少しの辛抱ね。加油(頑張れ)加油(頑張れ)


 ワンフロアを三ステップで、これを繰り返すこと八回、悠然ヨウランはようやっと三階までたどり着いた。そろそろロープが終端を迎える。しくじらないようにと注意を払ったそのときだった、彼女の身体からだが突然数十センチ降下した。思わず声を上げる。そしてすぐさま両腕でバランスをとりながら足を壁に垂直に立ててバランスを取り戻す。


「抜けたのは肩か、それとも首か。とにかくあと少しだけ持ちこたえるね」


 今の衝撃は大門啓介の身体に異常が起きたためだろう。それは手錠で拘束された肩が抜けたのか、それとも締め上げられた首が抜けたのか。しかし彼女にとってそんなことはどうでもよかった。とにかくあと数ステップ、それで車寄せの陸屋根に到達だ。悠然ヨウランは余計なことを考えずに数十センチずつの降下を繰り返した。

 残すところあとワンフロア―、着地点まで二メートル弱のところでロープは終端を迎えた。悠然ヨウランは足元に注意しながらそのまま軽やかに飛び降りる。こうして彼女は命がけの長旅を終えたのだった。


 悠然ヨウランはダイモンエステートビルを見上げる。ルーフバルコニーから垂れ下がる赤いロープはまさに彼女にとっての命綱、それが夜風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。彼女はその場でジャンプしてロープの終端を掴み取る。着地と同時に少しだけ伸びたロープに手応えを感じた。一回、二回と軽く引いてみる。そして三回目、力を入れてそれを引くといやな感触に続いて手応えも失われた。そして彼女の傍らにもう一方の終端が落ちて来た。

 ロープの赤に紛れているが血塗れているのがわかる。そして彼女の足元には湿った音とともにべったりとした血糊が広がったのだった。



 すべてを終えた悠然ヨウランは屋根の上から周囲を見渡す。すぐ目の前には赤色灯(またた)く警察車両が並びエントランス前では制服の警察官がずらりと並んで入口をふさいでいた。彼女は警備が手薄なエントランス脇に降り立った。その音に気付いた警官が彼女に声をかける。


「君、どこから来たんだ。まさかこの屋根の上からか?」

「……」


 悠然ヨウランは答えなかった。ここは日本語が解らない演技でもして乗り切ろう。黙っている彼女に警官はなおも詰問する。


「君、君はこのビルの関係者だね。ちょっと話をきかせてくれないか」


 悠然ヨウランは彼に向かって中国語でまくし立てた、それもかなりの早口で。


「なんだ、日本語解らないのか。お――い、誰か中国語が解るのいるかぁ」


 警官は振り返って中国語ができる者を呼ぶ。そして「ちょっとそこで待っていなさい」とこちらに向き直ったとき、そこに悠然ヨウランの姿はなかった。


 深夜の非常線をくぐって悠然ヨウランは歌舞伎町の目抜き通りに出る。ここから先に警官隊はいない。彼女は何事もなかったような顔をして先を急ぐ。するとそこには路上に停車する黒いミニバンがあった。

 彼女が近づくと後部座席のドアが開く。降りて来たのは長身の青年、悠然ヨウランのパートナーである小王シャオワンなる青年だった。


大姐(ねえさん)辛苦了(お疲れ様です)

谢谢(ありがとう)小王(シャオワン)


 軽い挨拶を交わした悠然ヨウランは持ち出したノートパソコンを小王シャオワンに手渡して後部座席に乗り込んだ。小王も後について乗り込むと車はゆっくりと発進する。仕事を終えた悠然はシートに身を委ねて大きなため息をつくのだった。


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