第56話 明日葉晶子のナビゲーション
高英夫は悠然の忠告を素直に受け入れて早速バルコニーの手すりから下界を見下ろした。警報の原因である火元は見つからなかったのだろう、大挙してやって来た消防車両の多くは数台の調査用ワンボックス車を残して去っていた。しかし代わって増えていたのは警察車両だった。赤色灯の瞬きと野次馬を整理するメガホンの声、ダイモンエステートビルはすっかり警官隊に包囲されていた。
「こりゃあチャイニーズ小姐の言う通りだ、迂闊に出て行こうものなら即刻逮捕されちまう」
さてどうしたものかと思案する高英夫をよそにミエルは悠然の動きをぼんやりと見つめていた。そんな彼の脇腹を晶子が肘鉄で小突く。
「あんた何見てるし。まさかあの女が気になってる?」
「い、いや、あの人これからどうするのかなって。だって急いで逃げなきゃなのはあの人もいっしょだろ」
「フン、放っておけばいいし、あんなヤツ。それよりあんたも何か考えなさいよ」
「考えるったって、逃げ道も抜け道もないし、他に考えられるとしたら向かいのビルに乗り移るくらいだけどあれだけ離れてたらとても無理だし」
するとミエルのつぶやきに即座に反応したのは高英夫だった。
「ミエル少年、それ、いただきだ。さすが理系少年、いや、理系女子か」
「高先生、こいつはそもそも男子だし。変態女装M男男子っしょ」
「ははは、そりゃいいや。語呂も悪くないし、ショーコちゃん、なかなかいいセンスしてるぜ」
この期に及んでまるで緊張感のない三人の会話を小耳にしながら悠然は失神して脱力している大門啓介の身体を手すりに寄り掛からせる。続いて手にした手錠を使ってその場に拘束した。
彼女のことだ、もし大門を殺す気ならば面倒な手間などかけずにさっさと片付けてしまうだろう、高峰勇次をそうしたように。しかし今はそうではない、いったい何をするつもりだろう。ミエルは悠然の不可解な行動が気になって仕方がなかった。
「少年、ミエル少年、こいつを使うぞ」
高英夫の呼びかけでミエルは現実に引き戻された。目の前では高英夫がショーで使う赤いロープを手にして勝ち誇ったような顔を見せていた。彼が手にするロープの先端にはフックが付いている。そう、それはいつもミエルを逆さ吊りにするあのロープだった。
「このフックを向かいのビルの手すりに引っかけるんだ。それで十分な張力が確保できたならばあとはミエル少年を吊り上げるときに使うこの滑車だ。それで向かいのビルまでひとっ跳びってな」
とは言うもののまだまだ解決すべき問題は残っていた。ロープをどうやって向かいのビルに届かせるのか、もし仮に届いたとしても三人をどのようにして送るのか。
そのときミエルの中で何かが閃いた。彼の脳裏に今夜の出来事がフラッシュバックする。目の前にあるのは自分を苦しめたツイスターゲームの残骸、そこに解決策はあった。
「高さん、ドローンですよ。ツイスターゲームでボクに散々ひどいことをしてくれたあのドローンを使うんです」
「おおっ! なるほど、絶好調だなミエル少年」
「えへへ、実はさっきからずっと気になってたんです」
すると床に転がるドローンを興味津々で眺める晶子も話に加わる。
「ねぇミエル、もしかしてあんたこのドローンをお持ち帰りしようなんて考えてたんじゃないの?」
「え、いや……で、でも男の子はそういうのに興味を持つものなんだよ。特に理系ならなおのこと……」
「ほんとにもうべらべらと。とりあえずあんたは口よりも先にこっちを動かすし」
まさに水を得た魚の如くミエルは嬉々として操作用のリモコンを拾い上げた。見よう見まねで操作してみると軽いモーター音とともに小型のドローンが宙に浮いた。
「バッテリーも大丈夫そうです。よ――し、がんばれ、がんばれ」
ドローンは晶子の目の前を横切って高英夫の足元に着地する。
「ノリノリだなミエル少年。それに初めてにしてはうまく操縦できてるじゃねぇか。これならイケるかもな」
「ミエル、あんたにかかってるんだからね、しっかりやるし」
そう言って晶子はミエルの背中を軽快に叩いた。
ミエル、晶子、それに高英夫の三人はルーフバルコニーの手すりに張り付いていた。
「高さん、向かいのビルまで一〇メートルはありそうですけど、ロープの長さは足りますか?」
「少年は散々縛られたからわかるだろ、あれは二つ折りにして使うんだ。血管や関節を傷めねぇようにな。それに凝った縛り方にすればするほど長さがいる。だから余裕で二〇メートルはあるんだ、問題ねぇ」
「わかりました。よし、今度こそ本番。ミエル、行っきま――す!」
フックが付いたロープの先端を本体下部に固定されたドローンが歌舞伎町の夜空に飛び立つ。機体は正面を一直線に、最短コースで進んでいった。ここまでは良し、問題はここから、さてビルの手すりにフックを引っかけることができるのか。ミエルの視力は決して悪いわけではなかったが、それでも緊張のあまりなかなかうまい具合にいかなかった。
もし失敗して落下させてしまったらすべてが台無しだ。なにより退路が完全に断たれてしまうのだ。そんな緊張感でミエルの露出した肌には玉のような汗が浮かんでいた。
「ミエル、もう少し右に。それで高度も少しだけ上げるし」
ルームの中から大声を張り上げたのは晶子だった。あの下品なゲームのとき、ミエルのあられもない姿がルーム内の巨大スクリーンに映し出されていた。そんなことは知らない晶子であったが、ミエルがドローンを動かしたとき同時に搭載カメラの映像がスクリーンに映し出されていることに晶子は気付いていたのだった。
「そうか、ボクもあのスクリーンに映されてたっけ。ナイスだよ晶子」
「よそ見はいいからさっさとやるし!」
晶子が映像を見ながらミエルをナビゲートする、ミエルは晶子を信じてリモコンを操作する。そしてついにフックが向かいの手すりに引っかかった。
「ミエル、そこでストップ、ドローン止めるし」
「了解!」
通りを挟んでたわむロープの手ごたえを確かめんと高英夫がそれを軽く引っ張る。問題ない、フックはしっかりと噛んでいた。
「よし、あとはこちら側だ。少年少女、手伝ってくれ」
向こうとこちら、双方のビルはほぼ同じ高さだった。高英夫は少しでも傾斜を確保しようとロープをバルコニーの手すりにではなくルームとバルコニーを仕切る掃き出し窓の枠にそれを括り付けた。テントで野営をするときに用いる結索法で張力を調整する。高英夫の合図に合わせてミエルと晶子が体重をかけてロープを引き絞り、高英夫がそれをうまい具合に固定していく。こうして十分な張力と傾斜を得たロープの逃げ道が完成した。
高英夫はショーでミエルを吊り上げるのに使う滑車を手にしてロープの上で滑らせてみる。続いて滑車に蝋を塗り込みながら彼は意を決したように言った。
「う――ん、君ら二人は小柄だしなぁ、まあ、なんとかなるか」
まさか三人揃ってぶら下がろうと言うのか。高英夫の言葉にミエルと晶子はいささか不安げな様子で互いに顔を見合わせるのだった。




