第45話 新しい依頼
ダイモングループ主催の闇カジノ、賭けに興じる様子を見渡せるラウンジのその奥に用意されたVIP席を陣取っているのは大門啓介と彼が従える数名の黒服たちだった。しかしソファーに身を沈めているのは大門啓介ただ一人、他の面々は彼を警護するように席の周囲を固めていた。
バーテンダーの楊蘭華がリクエストに応じてよく冷えたシャンパンを用意する。軽い破裂音とともに開栓されたのを合図に大門啓介は人払いをせんと蘭華までも下がらせた。
「今夜のショーはお休みです。カジノはまだ営業を続けますがラウンジも予約済みにします。ですから君も下がってください」
「かしこまりました。それでは失礼させていただきます」
彼が上階から下りて来るなんて滅多にあることではない。それも来賓もなく彼一人なのだ、蘭華は持ち場に戻りはしたが大門啓介の様子が気になって仕方がなかった。
黒服たちが囲む隙間から彼がスマートフォンを手にするのが見える。蘭華は会話の断片を掴んでやろうとカウンターの中から聞き耳を立てていた。しかし下階のカジノで勝負のたびに上がる歓声が彼女の思惑の邪魔をする。
「没办法」
蘭華は小さなため息をつくと視界に大門啓介が入る立ち位置に移動してテーブル席を拭くふりをしながら読唇術を試みた。
不敵な笑みを浮かべながら会話する大門啓介、蘭華はかろうじてではあるがいくつかのキーワードを読み取ることができた。それは「伊集院」、「娘」、「取引」だった。これだけでもう十分だ、ついに大門啓介は伊集院の娘を誘拐したのだ。これが高峰勇次が蘭華に話していたこと、そして勇次が大門啓介と袂を分かつ原因でもあったのだ。
しかしこれぞ千載一遇のチャンスではないか。カジノ客への対応、大門啓介本人の護衛、そこに今度は伊集院の娘、限られた人数での警備は分散されて手薄になるはずだ。ならばその隙を突いてカジノの顧客情報をいただいてしまえばいい。さあ善は急げだ。
蘭華は早々に片付けを終えると黒服に囲まれたVIP席に向かって一礼してその場を後にした。
スタッフルームに向かう途中で蘭華は高峰勇次に一報を入れる。
「勇次、言ってた通りになったね、大門が伊集院の娘をさらったよ。さっき取引の電話をしてたから娘は今このビルのどこかにいる、警備も手薄になるね」
「よし、わかった、俺もそっちに向かう」
「急ぐね、データをいただいたらこことはもうサヨナラよ。あとはウチと勇次でうまくやるね」
蘭華はスタッフルームで勇次の到着を待っていた。そのときベストのポケットに入れた彼女のスマートホンが着信を知らせる。電話の相手は彼女が所属する組織の上司だった。蘭華は真名である悠然を名乗って電話を受ける。
「喂,我悠然,怎么了」
悠然のミッションはダイモングループに取り入ってカジノの顧客データを奪取することだった。此度の電話はそれに加えて新たな命令、その内容は大門啓介に捕らえられた者を救出することだった。
「君にとってはたやすい仕事だと思う。しかし今回は少々厄介なのだ」
上司は抑揚のない口調で悠然への指示を述べた。
確かにそれは面倒な話だった。伊集院の娘の救出までは思っていた通りだったがしかし自分がそれを実行するのではなく救出にやって来る者を支援しろと言うのだ。それにしてもなぜそんな面倒なことを。あまりにも不可解な指示に悠然は少しばかり沈黙してしまった。
すると上司はその様子を敏感に察したのだろう、彼女の疑問にすかさず答える、依頼の主は連盟でもなければ伊集院でもないと。そして相変わらず抑揚のない声で部下である彼女を諫めた。
「君は任務の遂行だけを考えればよい、余計な詮索はせぬことだ」
「明白了,老板」
淡々としていながらも有無を言わせぬ上司の様子に悠然は素直に答えた。彼女は理解していた、とにかくこの街、そしてこの世界では粛々と命令をこなすことこそが長生きの秘訣なのだと。
間もなく高峰勇次もここにやって来る。ならば与えられたこのミッションを利用して勇次の変節が果たして本物なのかどうか、本当に使える男なのかどうか、それを見極めてやろうではないか。
さあ、ここからは悠然ではなくバーテンダーの楊蘭華だ。彼女は今一度姿勢を正すと頭を切り替えて高峰勇次の到着を待つのだった。
ダイモンエステートビルのエントランス前、そこでは明日葉晶子が今は捕らわれの身であるミエルから送られてくる動画を小ぶりのタブレットであるファブレットなるデバイスで受信していた。彼女はミエルに仕込まれたカメラによるミエル視点の映像のモニタリングのみならず、受信したデータをママのオフィス管理下のクラウドサーバーへと中継する役割も担っていた。
とにかく動くな、中継役の任務を全うせよ、それがママからの指示だった。しかし晶子の目の前、今から三〇分ほど前の出来事が彼女の気持ちを浮足立たせていた。その出来事とはクラスメイトの伊集院祥子の誘拐、いやそれが誘拐と決まったわけではないが、とにかくギャング風の若者数名に囲まれてビルの中へと消えて行ったのだ。それはどう考えても尋常とは思えなかった。
一方、ミエルから届く映像は誰もいない広い空間のまるで静止画のような光景が続くばかりだった。こんなものをいつまで見ていなければならないのか。いたたまれないほどの動悸と苛立ち、それがピークに達しようとしていたときに事態は一転する。晶子のポケットの中でスマートフォンが受信のバイブレーションに震えたのだ。ファブレットから目を離さないようにもう片方の手でスマートフォンを耳に当てる。
「ショーコちゃん、この電話の理由、あなたならもう理解できてるわよね。今しがた伊集院会長から依頼を受けたわ、娘さんを大門のところから連れ戻して来て頂戴」
「はい!」
晶子は周囲のひと目も忘れてその場で姿勢を正すと元気よく返事した。
「ところでショーコちゃん。あなたはまだまだ素人の女子高生、このミッションは危険が過ぎる。だからヘルプをつけてあげたわ」
「はあ、ヘルプですか」
「そう、助っ人みたいなものね。とにかくこの依頼、実行はあくまでもうちの事務所、要はショーコちゃんの成果にしておきたいのよ、そういうこと」
ヘルプとは誰だろう。ミエルも高先生も捕まったままだ、それ以外だとするともしかして恭平さんだろうか。確か道場の師範代って言ってたし、あの人が来てくれるのなら心強い。しかしママからの返事は意外なものだった。
「お金で動く連中だからあまり信用できないんだけど背に腹は代えられなくてね、仕方なく依頼したのよ」
「えっ、恭平さんじゃないんですか?」
「違うわ。そもそもダイモンのこともビルの状況も知らない恭平ちゃんの出番じゃないでしょ。だから内情に詳しいのを雇ったのよ」
内情に詳しい?
晶子の頭に一抹の不安がよぎった。そして続くママからの言葉を耳にしたとき晶子の不安は確信に変わるのだった。
「中国人なんだけどね、日本語は問題ないし拳法も使うらしいから腕っぷしも安心、なにより相手は女性だから、ショーコちゃんともうまくやれると思うわ。とにかく健闘を祈ってるから、あとはうまくやって頂戴」




