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第4話 ママと警部の課外授業

 ミエルの問いにママはしばしの思案をしたかと思うとやけに神妙な顔で重い口を開き始めた。


「この仕事はあなたたちに活躍してもらうようなものではないんだけど……でもショーコちゃんは事務方の仕事が多いし、いずれは必要になるだろうから知識として知っておいていいかも知れないわね」

「えっ、あたしがですか?」

「まあ、これも社会勉強みたいなものだと思って聞いて頂戴な」


 こうしてママは相庵あいあん警部と目配せを交わしつつ話し始めた。



 引地ひきち地区、かつては引地集落とも呼ばれていたそのエリアは谷戸と呼ばれる入り組んだ地形に存在しており現在の町名にその名は残されていない。しかし古くからその周辺に住む年寄り連中は今でも当地をそう呼び、なおかつその名を口にするときは少しばかり眉をしかめるのだった。

 遥か江戸の昔、その一帯は耕作に適しているとは言い難い土地であったが崖線のところどころから湧き出る水を求めてぽつりぽつりと集落ができていた。やがてどこからともなくやって来た流れ者たちが住み着き始め小規模な集落となる。しかし貧しいことに変わりはない、貧民窟が形成されていく様を役人たちが見逃すことはなかった。そして幕府の命の下、集落の人々に仕事が与えられる。それは牛馬の皮革を加工して防具や馬具を作ることだった。

 集落を流れる小さな川、その水は牛馬の血で常に赤く染まっていたと言う。屠畜という殺生を生業とする者たちは忌み嫌われ、その川もまた生き血の川と呼ばれていた。そしてこの「生き血」が訛ってやがて「引地ひきち」と呼ばれるようになるのだった。



 ここまでの話を聞いたミエルが思わず声を上げる。


「それじゃボクたちが歩いたあの道、引地道ひきちみちって書いてあったけどあそこって元々は川だったんですか?」

「ご名答。歩いてみてわかったでしょ、あの道ってやたらくねくねしてたのはそれが理由よ」

「それにしてもあの地名にそんな意味があったなんて……」


 ミエルはすっかり言葉を失っていた。隣でいっしょに話を聞いていた晶子も伏し目がちに黙り込んだままだった。

 すると今度は相庵あいあん警部がママの話を引き継ぐ。


「まあ、そんな土地だ、その上耕作面積も無いに等しいあの場所で集落の連中はどうやって食っていく? 結局当時は禁忌だった牛馬の肉を食うようになったんだ、何しろ商売に使うのは皮だけだしな、肉は余るわけだ。ところがいつしかそれが噂となってな、好事家こうずかを名乗る連中がお忍びで食べにやってくるようになったわけさ」


 そして警部の話はまだまだ続く。

 江戸から明治、大正と東京は近代化が進む過程で必要になってくるのが労働力である。やがて引地ひきち地区にも他所からの流入者、中には周辺国からの入国者も集まり、彼らを中心に食肉文化が隆盛していった。


「そう言えばやたらと焼肉店が多かった気がします」

「そうそう、歩いてて香ばしい匂いがしてたし」


 ミエルと晶子が警部の話にそう相槌した。再びママに話が戻る。


「私がみ地って言ったのはそういうことよ。元々あのあたりはそういう場所だったわけ。だから都心に近い立地なのにまともな再開発もされて来なかったのよ。その上戦後になってあのあたりには妙な連中、いわゆる活動家なんてのが住み着き始めてね、ますます手の出しようがなかったわけ。でもね、あれでも一応は都心部、そんな土地を放っておくわけがないでしょ。そこでようやっと自治体も重い腰を上げたわけ」

「自治体って、国とか東京都とかですか?」


 ミエルの問いにママは呆れたように答えた。


「それはもういろいろよ。所得の低い家庭には援助金を出して転居させて、代わりに空いた土地に施設を作ったりしてね、忌み地という過去の払拭を試みたのよ」

「施設ですか……」

「そう、公共の施設、それは集会場だったり斎場だったり廃棄物の一時処理場みたいなのとかね、いわゆるNIMBY(ニンビー)な物件よ」

「ニ、ニンビーって、そんなの聞いたことないし」

「それじゃあ今覚えなさいな。NIMBYってのはね、ノット・イン・マイ・バックヤードの頭文字、その施設の必要性は認めるけれど自分の家の周辺には存在して欲しくない、って意味」

「あ、なんとなく解ったし」

「でもだからってあの場所に集めなくっても……」

「ミエルちゃんも感じたんじゃないかしら、あの道沿いと崖の上との雰囲気の差みたいなものを。それがすべてなのよ。オシャレなエリアも閑静な邸宅街もみんなそういう犠牲の上に成り立ってるってこと。ハイ、課外授業はここまで」


 ママの独演が一段落するとまたもや相庵あいあん警部に話が戻る。


「おまえらの世代では学校でこんな話が出ることはないだろうが、かつてはちょいとハネッ返りな社会科教師なんかが自前の教材を使って教えてたこともあったんだ」

「警部さん、それってもしかして被差別……」

「おっと、ミエルよ、今のは聞かなかったことにしておいてやる。迂闊なことは言うんじゃない。ショーコちゃんもだ、いいな」


 警部の真剣な顔に圧倒されたミエルと晶子は黙って頷くしかなかった。そんな二人にママが微笑みかけながら話を続けた。


「それにしても、まさかとは思っていたけど既に先約はいたとはねぇ、あんな忌み地に」

「なあママ、ほんとにあんたも首を突っ込むつもりか? 相手はあのダイモングループだろ、今回ばかりはリスクが大き過ぎるぜ」

「でもね、そのくらいのリスクを覚悟しなくちゃひと儲けなんてできないのよ」

「しかし、あのダイモンエステートって不動産屋は連盟のフロント企業って噂もあるし、メイド喫茶のときとはわけが違うぞ」

「ふふ、貞夫さだおちゃん、蛇の道は蛇って言うでしょ、ここから先はこっちの問題よ」

「警察は民事不介入、だがな、子どもたちを巻き込むようなことだけはしないでくれよな」


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