第33話 ピロートークと血濡れの輪
サイドテーブルに置かれた二つのグラス、中の氷もすっかり溶けてオン・ザ・ロックがぬるい水割りとなってしまっていることが二人の過ごした濃密な時間の長さを物語っていた。
筋肉質の背中に彫られた龍を楊蘭華の白く細い指がなぞっていく。傍らのグラスを手にして口にするそれはすでに香りすら感じられなくなっていた。
「おう、これはもうダメね。作り直すよ」
そう言ってベッドを下りようとする蘭華の腕を掴んで肩を引き寄せると勇次は彼女を強く抱きしめた。小ぶりだが形のよい乳房が勇次の逞しい胸板に押し付けられる。同時に彼が彼女と唇を重ねると二人は再び舌を絡み合わせた。
汚れ仕事、勇次がそう呼ぶのは十中八九人を殺めることだった。夜の引地地区での仕事を終えた後も彼は馴染みのコールガールを呼びつけて欲望のままに戯れあった。そして今夜、勇次は一目見たときから気に入った蘭華を相手に欲求を満たしていたのだった。
勇次が蘭華に身を委ねたとき、まず目についたのは右足の付け根に彫られた小さな紅い花のタトゥーだった。彼がそれを指先でなぞると彼女は敏感に反応して声を上げる。そして勇次はその花弁に唇を重ねながら独り言のようにつぶやいた。
「俺も入れてみるかな、蘭の花ってのを」
既に勇次は蘭華の虜になっているのだろう、その言葉を耳にした蘭華はまたもや不敵な笑みを見せるとすぐに彼の耳元で囁いた。
「それならウチも龍を入れることにするよ」
ベッドでぼんやりと天井を見つめる勇次をよそに蘭華は飲み残しのグラスを空けて二杯目を用意した。サイドテーブルに新しいグラスを置くと蘭華は勇次のジャケットで隠された彼の得物に興味を示した。
「おい、オモチャじゃないんだ、ケガをするからやめておけ」
気だるそうにそう言う勇次を尻目に蘭華は得物を両手に華麗な舞を見せる。それは中国拳法の演舞、勇次は思わず目を見開いてベッドの上で姿勢を正した。
「蘭華、おまえ……」
見えない相手に寸止めして見せるかのように構えていた腕を下ろすと蘭華は得物をそっと元に戻して勇次に向き直って言った。
「この武器は圏と言うね。勇次、あなたはこれをどこで手に入れた?」
「特注で作らせたんだ。ガキの頃に漫画で見てな、これはいいと思って最初は輪投げの輪っかで練習してさ、そうしたら啓ちゃんが金を出してくれたんだ」
「こんなもの、中国でも滅多にお目にかからないよ。演舞で使うことはあるけどそれはお遊戯みたいなもの、実戦で使うヤツなんていないよ」
蘭華はジャケットの上に置いた一対の得物を見ながら呆れたようにそう言った。それにしても見事な舞だった。これまで勇次は刃物としてそれを使って来たがその動きは直線的だ。しかし蘭華の得物さばきは円弧を描くように華麗だった。なるほど、円には円弧、自分もまだまだ修練が足りないな。ベッドの上で一糸纏わぬ姿でありながら妙に感心する勇次だった。
「なあ、蘭華、実は気になることがあるんだ」
ベッドを下りた勇次はゆったりとしたファブリックチェアに身を委ねながら話し始めた。それは今日の仕事、カジノに侵入したホスト崩れの二人を始末したときのことだった。遺体を処理するために呼んだ通称始末屋、その到着を待って件の部屋に戻ったとき彼はドアのカギが開いていることに気付いた。部屋を出るときには確かに施錠した。なのになぜ……。
「俺たちがいない隙を見て誰かが入ったんだ。カギもドアも壊さずになんて、まるでプロの仕事だぜ」
蘭華は黙って勇次の話を聞いている。勇次は手にしたグラスを口にすると再び話を続けた。
「啓ちゃんに血生臭いものを見せちゃいけない、あの人はこれからもっと上を目指すんだ。汚れ役は全部俺が引き受ける、これまでもこれからも俺のその考えは変わらない。なのにコソコソ隠れて余計なことをやってる連中がいる。俺はあの縛り屋とバニーが怪しいと踏んでるんだ。なにしろ九階と一〇階をうろちょろできるのはあの二人くらいだしな。なあ蘭華、おまえ、何か心当たりはないか?」
その問いに蘭華は思わせぶりな笑みを見せながら答えた。
「我知道、あの小さなバニーね。あれは女のフリをした男、间谍みたいなものね」
「なんだって? おまえ、知ってるのか、ヤツらのことを」
「对啊、ウチも前の仕事でしてやられたね。子どものクセに侮れないよ」
「クソッ、ならば俺がこの手で……」
「等一下、ウチに考えがあるよ。しばらくは泳がせておくのがいい」
「なぜだ」
勇次は手にしたグラスをテーブルに置いて蘭華に向き直る。しかし彼女は動じることなく微笑みながら答えた。
「あれがダイモンを嗅ぎまわってるのは知ってる。この前もラウンジで盗み聞きしてたね」
「なんだって、いつのことだ?」
「勇次が山鯨の話をしてたときね。それに今日の奇怪的客人が来たのもタイミングが良すぎたよ」
「ってことは俺が殺った連中は縛り屋の仲間ってことか?」
「そうではないね、あれは別のところの依頼」
すると勇次は蘭華の肩を掴んで詰問するように声を上げた。
「おい、何をどこまで知ってるんだ。まさかお前も……」
すると蘭華は勇次の手を取って自分の胸へと導いた。そしてぐずる子をなだめるように囁きかけた。
「ウチは勇次の味方、あの連中をうまく利用して勇次を護るね」
「言ってる意味がわかんねぇ……」
「勇次が殺ったのは連盟が送り込んだ連中ね。これが能面の大人の耳に入れば大門会長もただでは済まないね」
「能面の、って、まさか連盟の会頭、あの大男か。お、おい、蘭華……」
勇次の言葉を遮るように蘭華は彼に唇を重ねる。そしてその頭を抱き寄せながら続けた。
「今夜に山鯨が来ることは連盟も知ってたね。それはあのチビッ子间谍のおかげ」
「……」
「でも連盟に通じてたのはチビッ子ではない、縛り屋の方ね。あれが会頭に情報を流してる」
「なんてこった、それじゃ啓ちゃんは……」
「その啓ちゃん……大門会長は、勇次、あなたも切るつもりね」
「な、何を言ってるんだ、蘭華。俺は怒るぜ」
「それが連盟の思惑。だから勇次、あなたはウチと組むね。ウチはあなたを護る、そして二人で大門の後を継ぐね。カジノも顧客も引地地区のあのプロジェクトも全部よ」
子どもの頃から一心同体だった大門啓介と高峰勇次、しかし引地地区のプロジェクトが始まってからはどこかよそよそしさを感じていた勇次だったが、それでもその不安な気持ちには目をつぶってきた。しかし今、蘭華の話と周囲の出来事が彼の心を揺さぶっている。
そう、いままで抑え込んでいた疑心暗鬼が彼の心の中を覆い尽くし始めていたのだった。
※本文中に登場する前の事件はこちらです。併せてよろしくです。
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