第32話 蘭華の思惑
大門啓介が先頭に立って上階へと続く階段を行く。山鯨氏もまた大門配下の黒服たちを従えながらその後を共にした。
二人がやって来たのは一〇階のラウンジ、その奥には革張りのソファーセットが置かれた一角があった。それは特別な客にのみ提供されるVIP席だ。接待要員の女性たちを侍らせながら利用する席ではあるがその夜は大門啓介と山鯨氏の二人だけが護衛に囲まれて座っていた。彼らを囲む中には氏の金庫番なる付き人もいた。
「大門君、どこで見つけてきたんだね、あの妙な連中を」
「縛り屋ですか。実は前にも一度使ったことがありまして、それが最近向こうから売り込んできたのです」
「ふん、まったく余計だな、あの破廉恥なショーは。俺の性には合わん」
「承知しました、それではもう二度と……」
「そこまでは言わんよ、そもそもここは大門君、君の城ではないか。好きにして構わんよ」
「お気遣いありがとうございます」
「よせよせ堅苦しい。こっちも君からの支援で助かってるんだ、お互い様だろう、わはは」
形ばかりのそんな和やかさも束の間、すぐに二人は声を潜めて話し始めた。
「ところで大門君、例のプロジェクトはどんな具合だ?」
「概ね順調です。土地の収用もほぼほぼ完了しております」
「君にしてはめずらしくハッキリしない物言いだな。ということは完遂ではないと言うことか?」
「はい、少々厄介な一軒が残っておりまして……」
「何が引っかかってるんだ、金が足りないなら融通してやるぞ」
そう言って山鯨が背後に控える金庫番に目配せすると男は小さく一礼する。
「重ね重ねのお気遣いありがとうございます。しかしながら資金調達は万全です、それに高峰君も尽力してくれておりますし、間もなく問題は解決することでしょう。先生には事後のご支援をお願いしたく存じます」
「この国では地面に絡む話になるとえらくややこしいことになるからな。よっしゃ、君は君のやりたいようにすればいい、後のことは俺にまかせろ。ただな、どんな手を使おうが、とにかく君も身の周りはきれいにしておくことを忘れるなよ」
ちょうどそのときだった、護衛の黒服たちの間を割ってラウンジのバーテンダーが水割りのセットを載せたトレイとともに現れた。
「ほう、女性のバーテンダーとはめずらしいな。どれ、こちらを向いて顔を見せなさい」
楊蘭華は床に片膝をついてテーブルにグラスやアイスペールを並べながらにこやかに微笑んで見せた。
「君は中国人かな? まるで男装の麗人だな。しかし物腰が柔らくてなかなか悪くない、ほら、これは俺からの気持ちだ」
山鯨氏は小さく折りたたんだ一万円札を蘭華が着るべストのポケットに差し入れた。
「謝謝您」
そう言って小さく会釈すると蘭華は水割りの用意を始めた。彼女の仕草を微笑ましく追いながら山鯨氏は大門啓介の肩を引き寄せるとより一層の小声で囁いた。
「ところで君のところの高峰君だがね、どこに消えたんだ、急に姿が見えなくなったが」
「彼は先ほど起きた小さなアクシデントの対処をしています。なに、些末なことです、じきに戻って来るでしょう」
「ならよいが、とにかく彼の手綱はしっかりと握っておくことだ」
「問題ありません、高峰君は私の幼馴染でもあり腹心、信頼のできる男です」
「だからこそだ。君を盲信している彼だからこそ注意が必要なのだ。ダイモングループの裏の仕事を一手に担っている彼がこの先問題になり得ることもある。信頼するばかりでなく注意と監視は怠らないことだ。そしてもし万一のときには君にもそれなりの覚悟が必要になってくる。上に立つとはそういうことだ」
大門啓介は目の前で水割りを用意する蘭華の様子が気になっていた。なにしろ彼女の動き、一挙手一投足が緩慢なのだ、まるでこちらの会話に聞き耳でも立てているように。大門啓介は氏との会話の途中であったが彼女に手を止めるように命じた。
「君、もう下がっていい。あとはこちらでやる」
この女もどこかから送り込まれた草かも知れない、大門啓介は氏との会話を盗み聞きなどされぬよう彼女を牽制した。蘭華はアイストングでつまみ上げた氷をペールに戻すと山鯨氏に最後の笑みを向けてその場を後にした。彼女の背中越しからはまるで時代劇に出て来る悪代官と越後屋の如きセリフが聞こえて来た。
「大門君、身の回りをきれいにする、その意味はわかっているな。悪になるなら徹底的にだ。いざというときには……」
ショーも終わりカジノで遊ぶ客もまばらになって来た深夜のひととき、高峰勇次がラウンジに戻って来た。疲労の色が濃く出た勇次に蘭華がいつものようにシングルモルトをロックで供する。勇次は無言のままそれを一気に飲み干した。
「勇次、その飲み方はよくない」
しかし彼は彼女の気遣いに答えることなく無言でグラスを置くとお代わりを求めるようにそれを前に押し出した。蘭華はまだ溶け切っていない氷が入ったグラスにダブル以上のウイスキーを注いだ。勇次はそれを半分ほど飲んだところでようやっと口を開いた。
「まったく、とんだ汚れ仕事だったぜ」
吐き捨てるようにそう言う勇次の前に蘭華は冷たい水のグラスを置いて言う。
「チェイサーよ、これを飲むとよいね」
「すまない」
勇次は一言そう言ってグラスの水も飲み干した。蘭華は困った笑みを浮かべながら水のグラスのお代わりも置いた。
「ところで蘭華、縛り屋たちはどうした?」
「さっきまで大変だったよ。調子が出ない山鯨がステージに上がってチビッ子ウサギを叩いたね。あれは八つ当たり、ウサギも災難だったね」
「そんなことがあったのか……それでその後は?」
「山鯨がチビッ子を棒で叩こうとしたから大門会長が割って入ったね」
「なんだって、会長が来られたのか!」
「对、对、きっと見るに見かねてのことね。それに負け始めてた山鯨へのご機嫌うかがいもあったと思うよ。会長に言われて縛り屋もすぐに引き上げたし、今は家でぐっすりしてる頃ね」
「そうか、帰っちまったか。まったくうまく逃げやがって……それで山鯨先生と啓ちゃんはどうなんだ?」
「そこのVIP席でしばらく話をしていたけど、ウチは追い払われたね。それからすぐに帰ったね」
「そうか……」
勇次はウイスキーをもう一口あおると深いため息を吐いた。その姿を見かねた蘭華がカウンターに身を乗り出すようにして囁く。
「どうしたね勇次、ウチでよければ話を聞くよ」
勇次は思い詰めた目をしていたが彼女の目を真っすぐに見て言った。
「蘭華、今夜は黙って俺についてきてくれ」
彼女は彼の言葉と表情ですべてを察した。緊縛ショーが始まる前にホスト風の男がやって来て揉めていたのを彼女も知っていた、そして彼らがバックヤードに連れて行かれたことも。そのとき勇次も姿を消した。おそらく彼はあの連中を始末したのだろう。そんなときこの男は決まって女を求めるのだ。
蘭華は小さく頷くと小声で彼の誘いに応えた。
「可以啊」
蘭華はすぐにラウンジの片付けを始める。しかし勇次に背を向けた彼女の顔には今までとは裏腹に不敵な笑みが浮かんでいた。




