利用されるだけの人生?
そのまままっすぐ帰宅した。やっと手に入れた普通。嬉しかった。
部屋のベッドにダイブした。すこしうたた寝をして、すぐに気がついた。何もすることがない。僕の中には、何もない。
何をしようにもあいつらにからかわれていたせいで何も始められずにいた。次第に何がしたくて生きているのかもわからなくなっていた。やらなければならないはずの学校の課題さえやり残して、胸のうちの怒りを憎しみに腐らせて、ドロドロになった心が死を待ち望んでいた。
けれど、これからは違う。そうと信じて、まずは課題に手をつけた。やりたいことが見つからないなら、まずはやるべきことをやっておくに越したことはない。
鞄から政治・経済の課題プリントを取り出した。内容は日本国憲法。簡単なプリントだった。教科書と資料集にかいてあることを写すだけで終わる。だが、不意にペンが止まった。
「基本的、人権……?」
思わず口に出してみた。まったく現実味のない言葉だった。人は生まれながらにして普遍の権利をもっている。それは何の意味もない、まさしくただの理想でしかない、ただの文字にすぎないものだった。
仮に権利をもっているとしても、それは侵し放題になっているのが現実だ。他人の権利は踏みにじってもいいと考える人間がこの世界には多すぎる。はたして大和田猛の行為は“合憲”だったか、“違憲”だったか。
どうでもいい。
だが、またふつふつと、静かに怒りがわいてくる。
朝がくれば登校しなければならない。今さら登校する意味がわからなかったが、しかしやりたいことがない以上、やらなければならないことをやろうと決めたのは昨晩のことだった。
やめるにしてもせめて三日坊主以下にはなりたくない。なぜだかわからないが、それで自分にも意地くらいはあるのだと気がついて、巧は内心自分にびっくりしていた。僕の中には何もない……それはきっと、違うらしい。
(僕はやっぱり、人間なんだ。人権をもった、ひとりの人間で)
意地があれば、魂がある。人として生きているというのはそういうことではないか。巧はそう信じたくて、それでもクラスのみんなにいきなりそう叫ぶのも違うと思えた。できるなら、いじめが始まった夏の手前の、あの日に戻ってやり直したかった。
教室に入り、席につく。からかってくるバカはもういない。猛が蘇ってくることは、ありえなかった。安心して席についていられる……巧は学校で初めてその椅子が快適なものだと知った。
気配を感じて不意に振り返ると、水戸舞香も席についていた。珍しくひとり。友だちはまだ来ていないのか、あるいはトイレにでも行っているのか。
少しの間をおいて、巧は立ち上がった。プリントをもって舞香の前に立ち、口を開いた。
「あ、あの。これ。課題の」
「ん? おはよ、藤堂くん。回収しにいこうと思ってたけど、来てくれたんだね。珍しい」
「今日は家で終わらせてきたから。提出するなら早い方がいいと思って」
「そう。じゃ、ありがたく受け取っておくね」
「うん。じ、じゃあ」
会話をつづけようにも言葉がつづかなかった。そもそも舞香とはほとんど接点がない。何が好きなのかもわからない。話そうにもどんな話題を振ればいいのかわからないし、そもそもどんな口調で話せば認められるのかもわからなかった。
踵を返そうとして、巧は舞香から袖を掴まれた。
「ちょっと、良いかな?」
「え?」
心臓がぶるんと震えたんじゃないかと思えたほど、驚愕した。指に触れられたわけではないのに、たかが制服の袖を摘ままれただけだというのに、胸が高鳴るとはどういうことか。指ではなく袖を摘ままれているということは汚物扱いされている可能性もあるというのに。
「頼みごとがあるんだけど」
「頼み、ごと? 僕に?」
「うん。藤堂くんにしかお願いできないことなんだ」
「何?」
「私に彼氏がいるって話、覚えてくれてる?」
「うん」
忘れられるわけはなかった。昨日の痛みの種だったのだ。今また直接本人から言われて、巧は無意識のうちに顔を歪めていた。忘れたはずなのに、また抉られる。拷問のようだった。
そんな巧の気を知ってか知らずか、舞香は変わらず可憐な笑顔を浮かべて、言葉を継いだ。僕にしかできないこと……舞香の可愛らしい声とどこか鼻孔をくすぐる甘い匂いに、巧は思わず生唾を飲み下した。
「藤堂くんは絶対本気にしないってことでさ。彼氏のフリ、してくれないかな」
「え?」
「ほら、私に毒があるってこと知らない男子がさ、よく私に話しかけくれるんだけど。最初は嬉しかったよ。私ってやっぱり可愛い方なんだって確かめられたからね。でも、ちょっと最近、辛くなってきちゃって。藤堂くんが彼氏役になってくれたら、男子諸君も察してくれるんじゃないかなって思うんだ」
絶句した。また生唾を飲み下した。綺麗な花にはトゲがあると言っても、これは刺毒が強すぎる。
利用。頭に浮かんだのはその二文字だった。拳を握ろうとして、しかし、手に力が入らなかった。喉にも力が入らない。同時に、痛みとも悔しさとも嬉しさともつかない雑多な感情が一気に迫ってきた。混ざりすぎて自分の心も想いもわからなくなる。
彼女が次の言葉を繰り出すまでの一瞬間で、とても整理できる混乱ではなかった。
立ちぼうけになって、巧はただ舞香の言葉を聞くだけの人形になった。
「一緒にお昼も食べよ。一緒に登校して、今なら一緒に帰れるし。藤堂くんにとってもまあ悪い話じゃないとは思うけど。もちろん、嫌なら良いんだ。私、最低なこと言ってるなって自覚もあるしね。でも私が真っ黒な女だって言っても否定しなくて、何も言ってこなかったのが嬉しかった。で、そんな藤堂くんになら、って思いついたんだ。この学校で唯一信じられるの、藤堂くんだから。最低な頼みかも知れないけど」
「……考えさせて」
「いいよ。また答えを聞かせて。あと今日、早めの提出ありがとね」
舞香は立ち上がると、教室に入ってきた友だちに可愛らしく駆け寄っていった。
巧も努めて体を動かし、かろうじてなんともないふうを装って着席した。寒かった。体は何ともないはずなのに、背筋だけが冷たかった。これが悪寒か。しかし鼓動はやまない。背筋は寒いのに、体の奥は熱かった。舞香の毒がそうさせたのだと思うと、巧はしかし、そこに嬉しさを感じる自分がいることを、結局否定しきれなかった。
(僕にとっても悪くない話……それは確かに、そうだけど)
恐ろしい女子だ。だが、個性的でもある。世界のどこを探したって彼女と同じ人はいないだろう。そう思ってしまう。
誘惑を即座に断ち切る決意はもてず、巧はしばらく呆然と時を過ごした。
ホームルームで福原が何かを言っていたが、聞き流した。どうでも良かった。ただ舞香にどう返事をしようか迷っていた。
彼氏のふりなんかじゃない。僕が、君の……仮にもそう言った瞬間、舞香は二度と口をきかないだろう。それは予想できた。ただ利用されている身なのだということを意識しつづける必要がある。
だが悪い話でもない。学校の高嶺の花と一緒にご飯をたべて、一緒に帰宅して……たとえ仮初めの関係だとしても、幸福を感じるだろう、舞香の言うとおり、決して悪い話ではないのだ。
一時限目に教室移動はない。そのまま座っていれば良いが、巧は立ち上がり振り返った。席に座っている舞香と目があった。
今後どうせ彼氏のふりをやらされるなら、いま話しかけたっていいだろう。そう思って、一歩を踏み出した。あの甘い香りがたとえ見せかけのものであったとしても、それでも僕の傍にいてくれるというのなら――それは、悪い話どころか最高じゃないか。そのはずだ。
巧は決死の覚悟のつもりで、舞香に近づいた。
その時だった。女子たちの黄色い声とともに、先輩男子がひとり、教室に入ってきた。
「藤堂くん、藤堂巧くん。ちょっといいかな?」
女子が騒ぐのも無理はない、美しい顔立ちの男――一角徹也だった。
(一度僕を殺そうとしたやつが、何の用だ?)
巧は徹也を睨んだ。相手はしかし、外向きの爽やかな笑顔を浮かべるだけだった。