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これが本当の太陽。

 朝から気分が良かった。


 いつも片方だけの靴は、今日は両方とも揃っている。画鋲が入っていることもない。教室に入っても机は綺麗なままだった。嫌がらせをする余裕さえなくなったあいつらを見てしまうと笑いそうになるので、巧は誰とも目を合わせずに机に座り、やり残した課題をホームルーム前に片付けるべく、軽くペンを握った。


 だが、勉強に集中することができない。女子たちの噂話が耳に入ってくるからだ。


「ホント? あの大和田がいなくなったって」

「あのアタマまで筋肉でできてそうなのが? 冗談でしょ」

「でもいつも一緒にいる三木と石田も、どっちも連絡つかないって言ってたし、ホントじゃない?」

「教務室行った子から福原が警察がどうとか、教頭と話し合ってたって聞いたけど、まさかそれと関係あんのかな」

「どうだろね。ま、福原からなんか説明あるでしょ絶対」

「あいつに限って失踪とか自殺とか縁遠そうだし、何かの悪戯かも知んないけど」

「それありそう。今までだって、散々バカしてきたからね」


 クラスメイトは少ない情報を持ち寄って推測するしかない。だがその答えを巧だけは知っていた。世界でただひとり、僕だけが本当のことを知っている……これほど気持ちの良いことはない。


 笑いそうになるのを堪えて、巧は努めて真摯に課題に取り組んだ。




 髪の毛一本すら残さなかった。叫び声を発する暇も与えなかった。完璧な屈服、完全なる抹消。昨夜のあいつの不思議そうな顔と、自分の死さえ認識できなかったまぬけの全身を思い出す度、宿願を果たした喜びに心が満たされていく。


 これほど登校を待ち望んだ朝もなかった。これほど喜びに満ち溢れた朝もなかった。


 間違いない、これが人生の転機というやつだ。


 確信して、予期通り、最高の朝を迎えた。




 たかが一〇分程度の時間で課題は終わらない。だが、そんなことはもうどうだっていい。先生に当てられなければ課題がやってないこともバレない。運が悪くて当てられたとして、かつて大和田猛にされたほどにはバカにされない。常識的な範囲で注意をされるだけで終わるなら、もう痛くも何ともない。全部を甘んじて受けてやる。


 僕が教師に注意されている姿をあげつらって笑ってきた奴は、もう消したのだから。


 ホームルームでは、担任の福原は終始蒼白な顔をしていた。第一声となる挨拶を口にした時から言いにくそうな何かを後回しにしているようなもどかしさを漂わせていた。だが結局、最後には声を落として発表した。


「大和田のことだが、長いこと欠席になりそうだ。ここだけの話、警察に捜索願いを出して貰っている状況だ。詳しいことは何もわからない。この件について知ってることがあったらまず俺に報告してくれ。俺が警察に連絡する。あいつのために、みんなの力を貸してくれ」


 まるで藁にもすがるような、福原の弱々しい態度と懇願。大人の手にもあまる重大な事態に突き落とされて、福原は実に面倒くさそうな顔をしていたものの、生徒たちに懇願する時には額を教壇にこすりあわせるほど、本気で頭を下げていた。実にみっともないが、しかし真摯な態度に見えた。


(クズが)


 巧はそんな福原の頭頂に唾をかけたかった。僕のいじめの件では、こんなに懇願したことはなかった。だが可愛がっていた大和田が失踪すればこんなにも殊勝な態度をとって対応するのだ。


 贔屓だ。これが依怙贔屓でなくて何だろう。贔屓を通り越して差別ですらある


 気分の良い朝が害された気がした。巧は舌打ちも我慢して、ただ拳を握って憎悪に耐えた。




 ホームルームが終わった。福原が丁寧に頭を下げている間にやった、プリント式の小さな課題がちょうど終わった。すると、タイミングよく水戸舞香がやってきた。


「課題終わった? それ回収したいんだけど、いいかな」

「ひょっとして見てたの? ちょっと、みっともなかったかな。先生が真剣に話してたのに」

「ううん。藤堂くんはいつも大変そうだし、仕方ないよ。むしろ福原が頭を下げてる間に終わらせるなんて、手際が良いって思ったな」

「ほんと?」

「うん。でも、さ。こう言うのも何だけど、良かったね、藤堂くん」

「え?」

「大和田、いなくなってさ。バチが当たったんだよ、あいつ」

「え……? いや、びっくりしたよ。水戸さんがそういうこと言うなんて」

「自分でいうのも何だけど、綺麗な花ほどトゲがあるっていうでしょ。隠してるけどさ、腹黒いんだよ、私。真っ黒な私をみせてるの、藤堂くんと彼氏だけ」

「彼氏? へえ」

「うん。他校のセンパイだけどね。これもこの学校の人らには誰も言ってないから。秘密に、ね?」

「当たり前だよ。そもそも、今日はいないあいつのせいで話す友だちもいないから」

「そうだよね。だから私、藤堂くんには見せられるんだよ、ぜんぶ。誰にも言いふらさないってわかるから。そういうことで、元気にしててね藤堂くん。また私の秘密、きいて欲しいな」


 高嶺の花は、どうやら毒を持っていたらしい。


 それでも彼女と話すことができて嬉しかった。しかし同時に、心の根っこが、腹の底が揺れた。聞いた瞬間は驚くあまり痛みを感じなかった。だが彼女の愛らしいウィンクと、確かに離れていく背中を見て、痛みはだんだんと広がり、あの高嶺の花がすでに他人の手によって摘み取られていたのだということ――その事実の重さを認識した。瞬間、大きな納得と、嬉しさが反転して生まれたショックが、同時に胸を黒く塗りつぶしていった。


 あれほどに可憐な花だ。摘まれないはずはない。だがしかし、心が痛いのは確かなことだった。どうやら高嶺の花と思っていながら、僕は彼女にそれなりの感情を抱いていたということだ。僕でもひょっとすれば手に入れることができると、少なからず思っていたということだ。


 また、気分の良い朝が穢されていく。


(君は僕にだけ話せるって言ったけど、じゃあ僕は、僕の気持ちは、いったい誰に……?)


 家庭では両親を信じれば良い。だが、クラスメイトで唯一近づきたいと思っていた水戸舞香が他人の花だと知ったいま、学校の誰に近づけばいいのか。


 今や誰にも興味がなくなったというのが本音だった。


(こんなクズまみれな場所、僕に必要あるのかな)


 先に他人に抱かれた花から信を得たところで、嬉しいだけで本当に掴みたいものはもう永遠に手に入らない。ではその花にいったいどれほどの価値があるというのか。信用という名の利用宣言……大和田の次は、彼女に弄ばれるのか。


 痛みは怒りを呼んでくる。前は違っていた。痛みは無気力だけを呼び寄せた。今はしかし、痛みは怒りを呼んでくる。この仇を討てと囁く。報いを与えろと訴えてくる。


 巧は首を振った。恐ろしい妄想に支配されそうになっていた。いじめられている僕にもきやすく話しかけてくれる、あの気高い水戸さんを殺したいだなんて、明らかにおかしい。恋人になれなくたっていいじゃないか。最初から彼女は高嶺の花だったのだから。


 黒い不死鳥のことは努めて忘れ、教科書を開いて、視界いっぱいに映し込む。そうしなければ、あの黒い力をここで発露してしまいそうになる。




 痛んだ胸も、昼休みを過ぎたころには落ち着いた。母が作ってくれた弁当はいつも絶品で、それが大和田たちに横取りされずに済んだのだから、最高のランチになるのは約束されていた。


 大和田の取り巻きどもは、今日はつまらなそうな顔で一日を過ごしている。そもそも大和田がいじめを始めなければあいつらは少しスポーツが得意なだけの落ちこぼれだ。それがいじめというインパクトのあるイベントを引き起こすことで、担任の福原と体育教師の田口から注目され、同時にクラス内の序列を引きあげることにも成功していた。


 その主格である大和田がいなくなった今、やつらはただの一般生徒に過ぎない。目を合わせるのを避けながら、巧は指導者のいなくなったクズどもを内心嘲笑した。


(バチが当たったんだ。水戸さんの言うとおりだよ、ほんと。ざまあみろ)


 弁当はいつにも増して美味しかった。




 放課後になった時には痛みはまったく忘れられた。大和田のいない自由な日々の始まり。それがもたらす大きな解放感が、心を嬉しさで満たしてくれる。


 つまらない言葉をかけてくる奴はもういない。財布を抜き取ろうとしてくる犯罪者予備軍ももういない。これほど安心して靴箱に自分の靴を預けられる日もなかった。


 ようやく普通が手に入る……僕の本当の学校生活が始まる。巧は輝く夕日を、あふれる解放感の中で眺めた。夕日はかつては憂鬱の象徴だった。輝きを見せてはくれても、僕のいじめを天高くから見下ろすことしかしなかった。


 そんな太陽が、いまはこんなにも綺麗に見える。世界のすべてが輝きはじめた。そんなことさえ思いついてしまう。


 力強い一歩を踏み出して校舎から出た。巧は肥溜めにも等しい校舎に背を向けて歩き始めた。


 誰にも邪魔されることのない、普通の下校。ようやく手に入った当たり前。それは、この手で自ら掴んだものだ。小さい頃にオモチャを買って貰った思い出より、遥かに大きな喜びを感じる。オモチャで現実は変わらなかった。だが、いま手に入れたこの当たり前の自由は現実そのものだ。僕が望む現実を、僕はこの力で勝ち獲ったのだ。


 このまま、現実を己の力で切り拓く。これこそ成功体験だ。僕はこれからも人生を切り拓いていけるだろうか……きっと、できるだろう。


 そのための力がこの身に宿ったのだ。これからは何でもできる。そのはずだ。


 巧は高校に入ってからはじめて、自分自身の人生の明るさをこれから見つけようと思った。迷わずそうしていきたいと思えた。


 沈みゆく金色の太陽がすべてを照らす世界のなかで、やっとその光の中を歩けるような気がした。

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