これから掴むための人生。
一年の教室はすぐ目の前のある。あと五分でホームルームが始まるし、それが終われば一時限目の授業はすぐに始まる。その準備をするために席につけば、大和田たちはその邪魔をする不良生徒にしか見えなくなるはずだ。そこではじめて、相手を公衆の面前で批判する場ができあがる。
一刻も早く教室に入り、着席しなければならない。だが、廊下には担任の福原が立っていた。まるで巧を待ち構えているかのように。
(ほんと、つまらない奴らだな)
福原と田口の盟友関係はすでに知っている。つまらない奴は決まって徒党を組むのだ。巧は教師に唾を吐きたくなったのをこらえて、ため息を吐くにとどめた。
「おい、藤堂。ちょっと待て」
案の定、戸口のところで福原が立ちふさがる。やはり待ち伏せだった。いつもはホームルームのチャイムが鳴ってからようやく入ってくるというのに、今日は早く来たと思えば理由はこれだ。
馬鹿馬鹿しい。だが、殺さないと決めた以上は、話の相手もしなければならない。巧は口を開いた。
「何ですか」
「職員室にこい。一階で騒ぎが起こったと聞いたら、またお前だ。それに、田口先生にも呼ばれてたそうじゃないか。なんでここにいるんだ? 今から田口先生のところへ行ってこい」
「無理矢理連れて行かれようとしたんです。財布を盗られたのを奪い返したら呼びだされるなんておかしいですよ。呼び出されるとしたら大和田たちの方でしょう? なんで僕なんですか」
「そんなことは知らない。先生が呼んでいるから行くべきだと言っているんだ。それが生徒であるお前の立場だ。わからないほどガキじゃないだろう」
田口ほどの強引さはないが、卑怯者らしい粘着質なところが福原にはある。命令を必ず生徒に呑み込ませるのも教師に必要な資質のひとつなのかも知れないが、いま福原がやっていることは田口の使いっ走りだ。教師の信念はそこにない。
これに屈すれば、永遠に屈し続けることになる。そんな“立場”においやられてしまう。すでに経験したことだった。
そんなふざけた立場なんて壊して、僕の人生を僕の力で切り拓く。そう決意したから、僕はいまここに立っている。
故に、巧はまた口を開いた。黙って従うのはもうやめた。
拳を握って言葉を放った。
「知らないなら、どうして僕を止めるんですか。何も知らないのに、一限目の授業の準備をしてる僕を先生が止めるって、おかしくないですか」
引いてはならない。引けば押し込まれる。無様でも食い下がらなければならない。
「あのなあ、高校生にもなって先生のいうことが聞けない方が、よっぽどおかしいだろ。立場をわきまえろと言ってるんだ。さあ田口先生に謝ってこい。俺も一緒に行って、許してもらえるようにするから」
騙されてはならず、屈してもいけない。この長い人生のなかで、本当に恐怖しなければならないことは非常に少ない。人智を超えた死をもたらす追跡者の力ならいざ知らず、同じニンゲンの言葉に今さら怖じ気づく必要はない。
「なら……僕と警察にも一緒に行って貰えませんか?」
「何だと?」
「大和田から財布を盗られました。取り返しはしましたが、殴られました。この傷ついた制服が証拠です。現行犯として、警察にあいつらを突き出してくれますよね。先生なら」
「その話をきくのも含めて、一度職員室で話をしなきゃならない。まずは来い。大和田たちも呼ぶ。田口先生も呼んで、みんなで話をしよう。それならいいか?」
「なら尚更警察に行って、公平に話ができるところで話す方がいいですよね、先生、お願いします。学校から、警察署に連絡してください」
「口答えするな! 生徒のくせに!」
堪えきれなくなったのだろう、ついに福原が激発した。廊下に怒声が木霊し、場が静まりかえる。そうして巧は、後方に気配を感じた。ちらと振り返れば大和田とその取り巻き、そして田口が廊下にたどりついていた。
前方には福原、後ろには田口と大和田たち。階段に戻る退路は塞がれ、教室に入ることもできない。袋小路に誘われたも同然の状況。
巧は歯がみした。福原はひたすら時間を稼ぐだけで良かったのだ。
「話をきいてりゃ、生意気なガキが」
田口が舌打ちまじりに怒声を放ち、威圧しながら向かってくる。大和田たちは下卑た笑いで顔を歪めながら巧を見下す。福原もまた大人げなく巧を見下ろし、いい気味だと言わんばかりに満ち足りた、穏やかな表情をしている。
どうして人を追い詰めて、こうも笑えるのだろう。
こんな奴らに屈してはならない。巧は、何もできない福原に向き合うのをやめ、こちらに近づいてくる田口に体を向けて、拳を握った。
(言葉が通じないなら、もう……やるしか)
変身はしない。殺すつもりもない。だが話ができないなら、物理的にねじ伏せるしかない。
「なんだその構えは? ガキのケンカで、教師の俺とやりあおうってか? 停学にしてやるぞ、藤堂」
田口が笑いながら近づいてくる。さらに福原も出張って、巧を後ろから捕らえようとゆっくり近づいてくる。大和田たちは「終わったな、藤堂!」と騒ぎ立て、何故か興奮して大喜びだった。
周囲の生徒は当然のように助けてくれない。心配そうにみてくる生徒もいるが、教師が主だって行動しているとなればその立場に圧されてしまう。巧はやはり己の力で現状を打破するしかなかった。
だから巧は一歩を踏み出した。拳を握って、構えた。瞬間、窓から陽の光が差し込んだ。強烈な光だった。それが巧の背中を照らし、田口と大和田たちの視界を遮った。
巧は窓の外を振り返ろうとしたが、その前にこちらに手招きするメガネの大人――数学教師の沢田の姿をみとめて、反射的にそちらへ走った。田口たちは輝きのなかに翻弄され、逃げる巧さえをついに見つけられなかった。
「よくやった。君は正しい……でも、大人を殴ったら終わりだ。今の君は、残念ながら生徒なんだからな」
沢田は巧にそう小声で呟くと、前に進み出た。そうすることで巧を後ろに庇うかのように立ち回った。
直後、窓から降り注いだ陽の光が消えた。確かに今日は晴天だが、雲ひとつない快晴で、太陽が隠れているわけではなかった。にもかかわらず突然陽光が差し込むのは不自然であり、異常気象というより怪奇現象と言った方がいい。
巧はすでに去ったのであろう大いなる者に、窓越しに頭を下げることで敬意を表すると、直後、田口に近づいていこうとする沢田を後ろから呼び止めた。
「待ってください」
「いったい何だ? ここはひとまず俺が止めてみる。その間に、今日は家に帰った方がいい」
「僕は、僕の力で立ち向かいたいんです。先生、協力してくれるなら……田口先生と大和田たちと、僕を一緒に警察に突き出してくれませんか?」
「それはまた、一大事だな」
沢田は流石に逡巡したようだ。教頭先生と仲の良い田口に刃向かうことは、職員室内での評価が底辺に落ちるということであり、ひょっとすれば教員生命を絶たれてしまうことにもつながる。それは当然の迷いだった。
だが巧は沢田がどう答えようと、階段までの道筋を開けてくれたことに感謝していた。田口と大和田たちが道を塞いでいた状況から抜けだしたことで、階段をかけおりて学校から脱出し、最寄りの交番まで駆け寄れば、ひとまずは外部にSOSを伝えられる。
時間は惜しいが、すぐに実行せず沢田の言葉に向き合ったのは、巧なりの感謝と誠意の表明だった。
どう答えても良い。どのみち、僕は僕の力でこの道を切り開くのだから。
はたして、沢田は何も答えないまま、田口の方へと向き直った。余分な時間などないのだ。
「おお、沢田か。ちょうどいい、そいつを何とかしろ」
「田口先生、詳しい話は後で聞きますよ。ただ、この生徒は警察にいきたがっているようです。これはひょっとしたら大事になりますよ」
「邪魔をするな。お前は俺のいうことを聞けばいい。いつものようにな」
「田口先生、私はこの生徒から直接相談を受けました。せめて事情を説明してくれませんか。そうでないと判断もできかねますよ、流石に」
「講師の分際でふざけるなよ沢田。担当教室もないくせに、この俺に楯突くな!」
いつも田口は沢田をコケにしている……はっきりわかってしまった。教師であっても、人と人である限り上下の立場が定着してしまうらしい。
教師も生徒も、同じニンゲンなのだ。
巧はまた包囲されてしまう前に、階段に足をむけた。沢田には悪いが時間を稼いでもらっただけでもありがたい。今は学校から出ることが最優先だ。
(沢田先生、ありがとうございました)
足に力をいれる。その瞬間だった。
「説明しろと言ったんだ!」
沢田の大声が響いた。時が止まったかのような空気の変化が廊下に起こり、巧もまた思わず振り返った。
「何ぃ? 沢田、口答えか?!」
「説明しろよ! 俺が講師だからって何だって言うんだ?! 体育教官だって似たようなモンだろうが!」
田口の圧に負けじと沢田が言葉を返している。ついぞ見かけたことのない光景に、生徒の誰もが唖然としてその様子を見守っていた。
「職場の同僚を呼び捨て扱いするのも疑問だったがな、前からアンタの無理矢理なやり方には無理があるって思ってたんだ。いじめを黙認するなんて、教師の風上にもおけないアンタが、なんでこの職場を仕切ってんだよ!」
「ふざけるな! ただ授業だけをしてればいいだけの奴が、生徒指導の大変さの何がわかるというんだ!」
沢田と田口が正面衝突を始めた。
巧は頭をさげて敬意を表すると、踵をかえして階段をかけおりた。
「待ちやがれ!」
気づいた大和田たちが慌てて駆けだし、巧はペースをあげた。階段を一段ずつ降りるのも馬鹿馬鹿しく、思い切ってジャンプで飛び降り、踊り場でふたたび跳躍して一挙に一階廊下に到達する。
「待てって!」
大和田の怒声が後ろから響いてくるが、構いはしない。巧は駆けた。下駄箱を目指してかけ、急いで自分の靴に履き替えると、用務員が校門を閉じようとするのもかまわず、真っ直ぐに駆け抜けた。
「ちょっと、危ないよ!」
「すみません!」
用務員は声こそあげたが、巧の様子をみてうなずきを返すと、すぐに校門を閉ざしてくれた。おかげで大和田たちの進路はふさがれる。
「おっさん、あけてくれよ!」
「サボリはダメだ。校門はあけられない」
「あいつは良いってのかよ!」
「……田口先生から依怙贔屓されてるのに、他人の贔屓は許さないのか。君は本当に自分勝手な生徒だな」
「何だと!」
用務員と大和田の口論は、すぐに聞こえなくなった。
巧は足が痛むのも構わず、道をゆく大人たちにボロボロの制服を怪訝な目で見られるのも構わず、まっすぐに駆けていった。交番に行き、訴えるのだ。もちろん学校近くの交番だ。学校の息がかかっている可能性があり、巧の訴えが聞き入れられるかどうかもわからない。だが、確証はなくともやってみるべきだ。何もせず、いじめを甘んじて受けつづける馬鹿馬鹿しい人生はもう歩まないと決めた以上は。
※
藤堂巧は道路を駆け抜けている間、ずっと背中に陽の光を受けていたが、最後まで気がつかなかった。その姿を見て、大いなる者は穏やかに笑った。
――そのまままっすぐ行きなさい。強く、ひとりで。己の力を高めながら。
その御声が当人に届けられることもない。巧はあくまで己の力で、我が道を切り拓いていかなければならなかった。
☆第一部 完!☆




