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フェニックス・マンVSユニコーン・マン~大いなる者と追跡者~  作者: SAND BATH
エピローグ:日常・再・変身!!
52/53

すべてを蘇らせて始めた半生。

 今日こそは。


 そんなことを思っているうちは永遠に実行できない。やるなら今この瞬間のうちにやってしまわなければならないのだ。


 巧は、盗まれた財布を取り返すために喉から声を絞り出した。




 一時間前にさかのぼる。


 巧にとって月曜日はいつも憂鬱だった。どんな学生、ひいては社会人でもそうなのだろうが、スクールカーストの最底辺にたたき落とされている巧という男子高校生にとって学校生活とはすなわち、軽度ではあるがれっきとした獄中生活の一種に他ならなかった。看守にむち打たれる囚人の如く、不良生徒に殴られるいじめられっ子……死んでもやりたくないその役をありがた迷惑千万にも押しつけられて、半年ほどが経とうとしている。


 高校であるが故に日曜祝日は基本的に休みだが、毎週、月曜日が訪れるたびに、家庭という楽園から学校というブタ箱へ強制連行されるような錯覚に陥る。毎週、毎週、月曜日の朝七時、今日も巧は鏡のなかの自分の顔をみて、ため息を吐き出した。


 着替えて一階に降りて、歯を磨く。両親はともに出勤日で、ちょうど二人揃って玄関で靴を履いているところだった。


「あ、おはよう。朝ご飯つくってあるからね」

「お先に行ってくる。学校、遅れるなよ」


 柔らかな笑顔とゆったりした口調に、優しさを感じられた。巧は両親に手を振り、出社を見送った。


 だがその両親から与えられた小遣いは毎週、この月曜日にパクられる。いじめっ子と世間では呼称されている、日本の法律の実刑判決をすり抜けて堂々と犯罪を重ねる権利を得た連中によって、この両親は巧を介してわずかに搾取されている。


 僕のせいで、ごめん。以前はずっとそう思っていた。巧は息を吐き出すと、母がつくってくれた朝食……スクランブルエッグとウィンナー、ご飯と味噌汁、レタスサラダを綺麗に平らげる。


 家を出て、鍵を閉める。ここまではいつも通りだ。


「ここから、だな」


 巧はアパートのドアに背中をあずけて、呟くように宣誓した。




 通学路をしばらく歩いていると、大和田猛とその取り巻きたちが公園から姿を現わした。親との折り合いが悪い彼らは、どういうわけか早朝から公園にたむろしておしゃべりに興じている。


『俺たちは親に殴られてんのに、お前は可愛がられてやがる、ふざけんじゃねえ』


 そう、はっきり言われたことがあった。その時は胸が痛んで何も言い返すことができなかったが、今思い返してみればとてつもなく馬鹿らしいことだ。


(そっちの事情だろ。知らないよ、僕は)


 そう言い返してもバチは当たらないだろう。少なくとも、親との不仲といういかにもお涙頂戴的な個人の事情を盾にして、親と良好な関係を保つ同級生を好き勝手殴っても構わないという理屈は通らない。そもそも大和田たちが本当に親から殴られているかは確かめようがなく、したがって不明なのだ。親という立派な大人から殴られているという割にはその顔に痣も瘤もなく、故に嘘である可能性さえ考慮に入る。


(流石にこれは、言えないけど)


 ため息を吐き出しつつ、巧はいつも通り大和田たちに絡まれる。


「よう藤堂くん! 通学路を変えても意味がないってこと、わかってくれて良かったぜ」


 巧は以前に一度だけ、公園を通らずに学校へ行ったことがあった。狙い通り大和田たちと会わずに済んだが、今度は遅刻してきた大和田たちに昼休みに呼び出され、校舎裏で殴られた。『テメエのせいで遅刻したじゃねえか。馬鹿なことしやがって』――本当の馬鹿は、誰だっただろう。


 それも一ヶ月前の話だ。どうして今日そのことを蒸し返すのか理解に苦しむ。首を傾げそうになって、巧は渾身の力で我が身の仕草をキャンセルさせた。


「おはよう、大和田くんたち」

「おい何が“たち”だ! 俺たちにも名前があんだよくそが」


 二人いる取り巻きのうち、丸刈りの方が脛を蹴って抗議してくる。突然の攻撃に巧は尻餅をついて倒れた。すると、もうひとりの背の小さい方が脇腹を蹴って追撃してきた。


「底辺モブ野郎が、俺たちをモブ扱いすんなよ。なあ!」


 巧は息を吐いて身悶えた。大和田は巧を見下しながら、盛大に笑って取り巻きの背中を叩く。


「まあまあ、それくらいにしとけや。こいつは俺たちのパトロン様なんだからなあ。そうだろ?」


 だらしなくニヤけたその顔は、まるで悪魔のようだった。巧は公園の砂を握りしめて憤怒を抑え込むと、やっと痛みから立ち直った両足を地面につけて、つとめてゆっくり立ち上がる。蹴られたところはまだじんわりと熱いが、かつては追跡者や魔書騎士たちと戦ってきた。奴らに与えられた痛みと比べれば何ともない。所詮はガキの遊びだ。


 こんなものは痛みのうちに入らない。以前ならビビっていたかも知れないが、今の巧は蹴りの一度や二度受けたところで、生きる気力を削がれたりはしない。


 だから、巧は財布を差し出すこともしなかった。ただ気まずい沈黙が流れる。大和田たちは巧がいつも通り自ら財布を差し出すことを期待していたし、確信していたのだ。それが裏切られたと気づくのも遅れ、数秒間の沈黙ののち、大和田は「は?」とようやく首を傾げるリアクションをとった。


「何だよ、なあ。焦らさないでさ。いつも俺たちに渡してるやつ、みかじめ料だよ。それ出せって」

「早く!」

「遅刻してえのかよ、とろいクズ野郎が」


 三者三様の勝手な文句がためらいもなく垂れ流される。巧は呆れを通り越して笑いそうになったが、その肉体の反応もまた意志の力で抑えつけた。


(もう罪は重ねない。追跡者(フェネクス)の力じゃなくて、僕は、僕の力で……!)


 巧は拳を握り込むと、叫ぶ。


 いや、叫ぼうとした。その肉体の動き――上半身がかすかに揺れるのを見た大和田は、先手をとって巧の腹を殴ってきた。その動きは実に素早く、声を発することにすべての意識を集中していた巧には対応することができなかった。


 身長一七〇センチ、野球部期待のルーキーである大和田猛のパンチは重かった。それでいて俊敏だった。巧はたったの一撃で倒され、胃液を逆流させられ、朝食の一部を無様に吐き出す羽目になった。


「何? 何か言おうとした? ふざけんなよ。こんなことに時間かけんなって。それとも何だ? 無理矢理やられる方が好きだってのかよ!」


 巧が叫ぶ前に、大和田が吠えた。それを号令とするかのように、取り巻きたちが左右から組み付いてくる。そうして巧の動きを縛ると、大和田が巧の制服の内ポケットから財布を盗った。


「さっさと渡せば良いのに。没収ね、これ。後で返すわ」


 大和田は巧に唾を吐きかけると、取り巻きは殴る蹴るを二、三度繰り返し、踵を返して去って行った。


 巧は胃液の味のする唾を吐き出すと、涙でにじんだ視界のなかに映る、三人の罪人の背中を睨みつけた。土を握って憤怒と殺人衝動を抑え込むと、また限りなくゆっくり立ち上がる。そうしなければ、今すぐにでも殺してしまいそうだった。


 しかし、財布ごと盗られたのは好都合といえる。中身だけ抜き取られて財布だけを返されてしまっていたら、客観的に追及するのは困難になっていた。紙幣と硬貨に名前を書く奴はいない。だが財布であれば、所有権を主張して戦いの口実にすることができる。


 巧は睨めつけた背中に向かって、駆けた。


「待て」


 喉が詰まって叫びにならなかった。だが巧は大和田の背中を確かに殴っていた。


「何だ?」


 取り巻き二人は何が起こったのか理解していない。だが大和田の反応は素早く、回し蹴りを巧の頭にブチ込んだ。


 避けられず、直撃。巧の視界が揺れ、天地が回転する。倒れたのだと後から気づくが、その時には取り巻きどもに腹と背中を同時に蹴られていた。


 勝手に涙が流れて視界が歪んでいく。そこに大和田のにやけた顔が映り込んだかと思えば、強烈なキックが巧の腹を打ち据えた。みぞおちを直撃していた。全身に電撃が走るような痛みに、巧はまた吐いた。


 激しい痛みだった。だが、命を奪い合った、あの本当の戦いと比べれば何ということはない。巧の意識は正常に保たれたままだ。


「返せ」


 素早く立ち上がり、その勢いのまま頭突きを繰り出した。今度は大和田が倒れた。すかさず追撃するべく馬乗りになろうとするが、取り巻き二人が先制し、巧は背中をコンクリートに打ちつけられた。


 背筋を通して臓器が振動するような、怖気がするほど不気味な痛みを覚えた次には、脇腹と肩と頭を次々に蹴られた。巧は顔を両腕で守ったが、今度は腕が痛んで骨にヒビが入る錯覚を感じた。


(流石に、分が悪いな……)


 相手がニンゲンのガキとはいえ、三対一では勝ち目もない。理解した巧は、方法を変えた。唇が切れて血が滴るのを指で拭いながら、巧は素早く立ち上がると、大和田たちに背を向けた。


 走り出す。


「んだよ!」

「待てや!」

「おい!」


 三人の雄叫びにも近い怒声が聞こえるが、臆することはない。巧はコンクリートに覆われた通学路を駆け抜け、学校の校門前に辿り着く。途中、大和田たちに追いつかれて蹴られたが、その度に立ち上がっては疾走を再開する。


 制服はすでにボロボロだった。土埃のほか、擦り傷が目立っている。両親がこれをみたらなんと言うだろう……悲しい顔をさせてしまうのは確実だった。


 だが、果たさなければならない復讐がある。肉体や制服をボロボロにさせられるのと引き替えに、今日成すべき事を成しとげられるなら安いものだ。


 大和田たちを追い抜き、追い抜かれ、ようやく校門前に辿り着いた巧は、そこで再び大和田たちに勝負を挑む。


「さ……財布を、返せ!」


 できるだけ大きな声で、はっきりと叫んだ。周囲の生徒や教師たちでもわかるような明瞭な発声を心がけた。


「え?」

「財布って、まさか」

「先生呼んだ方がいいのかな」


 周囲の生徒たちがどよめきつつも、その誰もが奇っ怪な視線を巧と大和田たちに向けた。


 狙い通りだ。巧は笑いたくなるのを堪えて、“いじめられっ子”という悲惨な仮面をかぶった必死な顔のまま、大和田たちを睨みつけた。


 対して、大和田はやはり笑っていた。


「何だよ、藤堂君。何だって?」

「財布、返せ!」


 わざとらしく耳を手で拡張するポーズをとる大和田に、以前なら黙り込んで降参していた。だが今の巧は大声で糾弾する。


「それは僕の財布だ。返せ!」

「んなことするわけないだろ。犯人呼ばわりは良くねえよ、なあ?」

「ならポケットを見せてみろ!」


 巧は素早く歩み寄り、有無もいわさず大和田の制服のポケットに手を入れた。瞬間、その手首を掴まれ、捻り上げられる。


「ツッ!」

「生意気こくなよテメエ。今日はやけにしつこいじゃねえか。どうしたん?」


 巧にだけ聞こえるようなかすかな声量で、耳元に囁いてくる。息が耳にかかる嫌悪感に抗うために、巧はその歪んだ顔に唾をはきかけた。


「んだッ、テメエ!」

 

 間髪いれず、大和田の拳が飛んでくる。頬を撲たれ、巧の視覚が揺れた。だが態勢は崩さない。巧は揺れる視界のなかでも大和田のポケットを視野に捉えつづけると、手を伸ばした。


 指先に、慣れ親しんだ生地の感触が触れた。母と一緒に選んで、父に買って貰った大事な財布だ。その中に入ってるのは、毎月、両親から分け与えられる大切なお小遣いだった。誰にも渡す必要はないし、まして奪われるいわれもない。


「返せ!」


 叫び、巧は五指を広げて財布を掴むと素早く身を引いた。


 直後、その手を大和田に捕らえられた。


「おい! これは俺の財布だ! 盗みなんてよくねえよ、藤堂君!」


 今度は大和田が堂々と叫んでいた。先ほど巧がやったことと同じだ。周囲に聞こえるように、ゆっくり大きく明瞭な声で相手の罪状を読み上げる。また周囲の生徒がどよめき、巧か大和田か、どちらの言い分が正しいのか精査する時間が沈黙となって行き過ぎる。


 この沈黙がまともに機能している間に、次の言葉を足さなければならない。主張し、印象を植え付けなければならない……巧は叫ぼうとしたが、不快なほどに甲高い声が割り込んできた。


「大和田、どうしたんだ?!」


 田口だった。体育教師であり、本来被害者であるはずの巧をいじめの要因と見なすだけでなく、巧の両親をモンスタークレーマー扱いすることにも注力した、腐敗した教師のひとりである。


「それに藤堂! なんだその制服は! 着替えはもってきているのか?!」


 大和田の背中を撫でるように叩く一方、田口は厳しい視線を巧に向けてくる。大和田は安心したように笑い、「聞いてくださいよぉ、先生」と巧を指さして言葉を継ぎ足しはじめた。


「こいつ、俺を盗っ人呼ばわりした挙げ句、なんか勝手にポケットに手ぇつっこんできて、財布ぬいてきたんすよ。どうなってんすかねコイツ」

「本当か?」

「俺たちもみてました!」

「こいつ狂ってますよマジで」


 ここぞとばかりに取り巻き二人がはやし立て、巧に発言の機会を与えない。もっとも、見事に過ぎる連携プレーを前に、しゃべる気力さえ削がれていた。


 無論、田口はその言葉を鵜呑みにするのだ。呆れてものもいえない


「そうか。おい藤堂?! 財布を返してやれ。あと生徒指導室に来い! みっちりしごいてやるぞ。今日という今日はァ!」


 田口がこっちに向かってくる。巧は思わず笑いそうになるほど馬鹿馬鹿しく思えて、呆れを通り越して哀れみさえ感じ始めた。そして思う。どうしてこんな哀れなほどに愚かなニンゲンどもに、このオレがやりこめられなければならないのか。


「これは僕の財布です。取り返したんです。なのになんで、僕が悪いみたいに!」

「口答えか? おい藤堂、いつの間にかお前、偉くなったんだなあ。お母さんに口答えの方法を教わったのか? おい」

「いま、なんて……?」

「親子そろってうるさい奴だと言ったんだ! まったく、これだからクレーマーの家族は厄介なんだよ」

「なるほど。そうですか……!」


 言葉が通じない。愚かなニンゲンですらない。こいつらは猿だ。


 巧は息を吐き出すと、田口から視線を外した。会話が成立しない以上、相手にするだけ無駄だ。さっさと教室に行き、一時限目の準備をはじめなければならない。


 が、巧はすぐに動けなくなる。田口に肩を掴まれていた。


「どこへ行く藤堂? これだけの騒ぎをおこしておいて、まさかこのまま授業を受けられると思うなよ」

「財布を盗んできたのはこいつらです。僕じゃないですよ」

「大和田はこれから野球部のエースになる部員だぞ。スポーツ推薦を目指して、真面目に取り組んでいるんだ。内申点を自ら下げるような馬鹿なこと、するわけないんだよ。だが藤堂、お前はどうだ? 何も目指すものがない。といってな、特に優秀な成績をおさめているわけでもない。そんな奴と、いったいどっちの進路を応援したいと思うんだ? どっちの言葉を信頼すると思う? お前みたいな社会不適合者予備軍のな、その腐った心根をたたき直すために、俺が指導してやろうって言うんだよ!」


 田口は唾を飛ばして叱責するが、それが失礼なことだとは微塵も思っていないのだろう。どこかその表情は悦に浸っており、あるいは一方的に言葉を投げつけるこの状況に自らの嗜虐心をマスターベーションしているのかも知れない。


 いずれにせよ、田口は教師でありながら大和田と同じ人種なのだ。いじめられっ子役の生徒をいたぶって楽しむあのいじめっ子役を、なんと学校を卒業して大人になっても、いまだにずっと続けているのだ。


 決して屈してはならない。これは大人であって大人ではない。教師の資格を取得できたというだけの、子どもだ。


 巧は顔についた田口の唾を拭いながら、財布から保険証を見せてやった。


「これは僕の財布ですよ。これでもまだ、この財布が僕のものじゃないっていうんですか」


 保険証には巧の父の名前が明確に記されてある。田口はもう反論できないはずだ。


「お前は何もわかっていない。だから根っこが腐っているって言うんだよ。いったいどうしたんだ? 今日のお前はおかしいぞ。おまえたちもそう思わないか、大和田?」

「ほんとそうですよ。やっぱ田口先生もそう思いますよね、今日のこいつ狂ってます」

「どういう意味ですか。本当に狂ってるのは……」

「先週は黙ってくれていただろう、藤堂。お前はそういう役なんだってこと、わかってくれてると思っていたんだがな。どうやらもう少し指導が必要なようだ。来い、藤堂。絶対に指導してやらなきゃいけない理由ができた。担任の先生には連絡しておくから遅刻扱いはされない。安心して着いてこい。いいな?」


 自ら財布を取り返した、その腕を教師に掴まれる。巧は思わず顔を苦悶に歪めた。尋常ではない力で掴みあげられていたのだ。指導の域を超えているが、何かいえばまた暴力を振るわれるかも知れない……その思いが、巧に言葉を失わせた。


(何言っても無駄なのか、こいつらは)


 周囲をみた。田口の背の低いが肩幅の広い威容と、笑って巧を嘲笑する大和田とその取り巻きが不快だった。その外側にいる生徒たちは呆れて笑っているか、あるいは何もみなかったことにして粛々と登校している。それは生徒だけではなく騒ぎを知った教師たちも同じで、誰も田口の横暴を止めようともしなければ、巧を助ける素振りもみせない。


 財布を盗ったのは僕じゃない……きっと、田口は最初からわかっていたのだ。そのうえで、巧に“お前は何もわかっていない”と言った。人が発する言葉の重さを、その正しさではなく、発言者の地位や立場でのみ量ろうとする。その頑なさはある種の宗教に属している。どれだけ正しいことを主張しても立場によって聞き入れられないのであれば、はじめから言葉に意味なんてものは必要ない。


 無論、それは間違っている。言葉にはもちろん、ひとつひとつ意味がある。これこそが常識だ。発する者によってその意味が変動するということは、常識的に間違っている。


 正しさではない、立場だ。田口はそれをこれからみっちり伝えるために指導しようというのだろう。もうわかったから、指導なんてやめてください……そう伝えようと口を開こうとして、言葉にして伝える勇気がもてなかった。


 いまも腕を痛いほどに掴まれている、その強い圧力が肉体を萎縮させ、肉体と相関関係にある心もまた抑圧されていく。


 心身相関。体育教師であり保健の教師でもある田口本人が、珍しく教室で教科書片手に教えてくれた言葉だった。田口は科学的に他者を服従させる技術を知っていて、それを生徒に対して使うことを躊躇しない。科学の領域であれば生徒を使って実験しているようなものだが、保健・体育という受験科目ではないという点において生徒と教師双方から軽視されている領域であるが故に、厳しいチェックの目を向けられることもない。


(くそ!)


 結局、力なのか。暴力なのか。人は動物でしかないのか。だが、それでも巧は追跡者に変身しようなどとは思わない。自分の力で切り拓くと決めたのだから。


 だが結局、現実問題として、僕は変身しないと何もできないのか。追跡者の力に頼らなくても己の人生を切り拓きたい……そのために、大いなる者の力を使ってすべてを蘇らせたというのに。自分にとって都合の悪い存在もすべて蘇らせて、正しく乗り越えると誓ったはずなのに。


(結果がこうなら、こいつらなんて蘇らせなくて、よかったのかな)


「どうした?! さっさと来い!」


 また強い力で腕を引っ張られた。巧はため息を吐き出して、踏み出したくなかった一歩を無理矢理、踏み出さなくてはならなくなった、行き詰まりの現実を呪った。


 その時だった。鋭い眼光が視界の隅に映った。


 一角徹也だった。


「フン」


 三年の教室に向かうべく階段を登る直前、徹也は巧の真横を通り過ぎた。その横顔は醜かった。五センチほど高いその身長も相まって、徹也は完全に巧を見下し、鼻で笑い、巧のすべてを嘲笑して通り過ぎていった。


 巧は息をのんだ。頭が真っ白になった。壮絶な怒りと憎しみがあらゆる思考を遮断し、脳内の雑多な思念さえ消失させた。


 ふざけるな。僕に角を折られたお前が、追跡者の力を失ってただのニンゲンに成り下がったお前が、どうして僕を笑えるんだ。


 だが、現実をみる。田口の腕のひとつもふりほどけない自分がいる。それに対して、徹也はひとりで堂々と階段に足をかけ、その背中に同級生なのだろう女子や男子がおしゃべりしながらついてくる。徹也もまたそれに笑顔で応じ、彼を先頭とする“理想の先輩たちご一行”ともいうべき一群が、校内に華を添えながら行進していく。田口と巧の醜悪なやりとりなどまったく無視して。


 無視できるだけの力が彼らにはあるということだ。


(角を折ってやったのに、な)


 徹也にはもう一度、力の差を理解させなければならないのかも知れない。だが、それは今ではない。今やるべきことは何か? いみじくも徹也のおかげで、それははっきりした。


「感謝するよ、先輩」


 小声で呟くと、巧は踏み出そうとしていた足をとめ、その場に留まった。引いた腕を寄り戻される形となった田口は、思いも依らぬ抵抗に素早く、そしてヒステリックに振り返る。


「何だ藤堂! ついてこいと言っただろう!」


 唾を飛ばしながらの大声。巧は言葉を返そうとして、喉が凝り固まって何も言えなくなるのを自覚する。腕を掴まれる強い力と痛み、魂さえ揺さぶろうとする大きな声……完全にはね返すには、巧には腕っ節の経験も口論の経験も、どちらも不足していた。


 かといって屈服するのは違う。一歩を踏みとどまった次に、巧は我が腕を思いきり引いた。


「やめてください」

「どういうつもりだ!」


 田口は素早く腕を繰り、巧の腕を再び掴もうとする。その素早さに、巧は憤怒した。


「ふざけないでくださいよ、先生」


 一瞥を向け、後方に一歩、足を進めた。直後、眼前に田口の手が擦過する。間一髪だった。


「ふざけているのはお前だ! こんなことをして済むと思うな!」


 田口はいいつつ、巧の背後に視線をやって口もとを歪めていた。それだけで自分の背後に誰がいるのかわかった。変身しなくても、変身して戦った経験がまるで修行の日々の成果のように、暴力に抗う術を教えてくれる。


 巧は、今度は横に足を進めた。さきほどまで立っていた場所に、大和田たち三人の手が亡者のそれのように伸びた。現実からあの世へ……普通の位置から腐敗の底へ引きずり落とそうという魂胆が丸見えのその手の数々に、巧はもう二度と掴まれる気はなかった。


「一限目の準備がありますから」


 そう言うのが精一杯だった。だが何も言わないよりはマシに思えた。巧は、徹也が足をかけた階段にむかって走った。


「待て!」

「大和田、追え。連れてこい!」

「了解です、センセ!」

「生意気だぞ藤堂!」


 田口、大和田、その取り巻き二人の怒号が学校の一階廊下に木霊する。直後、大和田たち三人がダッシュし、同じく廊下を歩く他の生徒たちを押しのけてまで疾走してくる。


(ふざけるなよ!)


 巧もまた走った。階段を一段飛ばしで駆けあがり、踊り場に到達する。瞬間、去ったはずの徹也が腕組みをして、背を壁に預けてキザっぽく立ってるのがみえた。


「先輩……邪魔をしようと?」


 巧は徹也を睨んだが、徹也は「フッ」と嘲笑するだけで何も言わない。殴ってやりたい気持ちになったが、背後に気配を感じる。大和田たち亡者どもの手が、すぐそこまで迫っている。徹也にかまけている余裕はなく、巧は徹也を睨んでそのまま通り過ぎた。


(舐めやがって。あとで絶対、痛い目にあわせてやる)


 あいつは僕の無様なやりとりを観察して楽しんでいるに違いない。徹也はやはり醜悪なニンゲンだった。


 つづく階段に足をかけ、また一段飛ばしで駆け上がったところで、何故か大和田たちの叫びが木霊した。巧は階段を駆け上がって、思わず振り返った。それほどに大きな声だった。今度は他の生徒たちの悲鳴も聞こえてきた。


「なんだ、テメエ!」


 手すりに身を乗り出してみてみれば、大和田とその取り巻きたちがあの徹也にわめき散らしていた。踊り場には腕組みする徹也と、尻餅をついた大和田たち三人がいた。それだけで何が起こったのか、巧には理解できた。


 徹也が奴らに足をかけて転ばせたのだ。


 徹也は大和田たちには何も言わず、巧を見上げて呟いた。


「これで貸しひとつだ。せいぜい俺を恩人だと思えよ、藤堂くん」


 徹也には巧の殺気が伝わっていたのだろう。助けたから痛めつけるのは勘弁してほしい……巧にはそう言っているように思えた。


「フン」


 巧は徹也がやった嘲笑をやり返して、その場を去った。

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