半生を投げてつくった翼。
エジプトの空は熱い。しかし多様な風が入り乱れている。国土の大部分を覆う砂漠地帯が風さえ乾かす一方で、ナイル川は地球海性気候の湿り気を発する。どのみち日本とはまったく異なる種類の風が交錯して混じり合っているので、同じ空でもエジプトのそれは飛び心地がまったく違った。
藤堂巧――封印騎士・フェニックスはエジプトの空の真ん中に昇った太陽に到達すると、見上げ、語りかけた。
「大いなる者、ラー。フェニックスを宿した私、藤堂巧より、お願いしたいことがございます」
不干渉を主張するアマテラスに頼ることはできない。ならば、と妖狐に接触の作法を習い、異国の大いなる者に頼ることにした。
妖狐いわく、『向こうの国の作法なんて一切わからないけど、礼を尽くす心の動きは万国共通。だから、日ノ本流の作法で臨んで大丈夫よ』ということらしいが、そうした楽観的に過ぎる民族交流の考え方がやがては宗教上の係争に発展した歴史も、そういえば教科書でみた気がする……一抹の不安も抱きつつ、しかしラーとはすでに一度接触したことがあった。見ず知らずの大いなる者に謁見するわけではないのだ。
最後は何とかなる。そう踏んで、巧はフェニックスに変身して飛翔したのだった。
――その声は異国の魔人……歪められた、我が象徴のなれの果てだ。いまさら何の用か? まさか朕の力欲しさに単騎で仕掛けてきたのか。
幻聴が聞こえると同時に蜃気楼が空を歪めていく。そこは、もうエジプトの空ではなくなっていた。大いなる者が鎮座する世界……記念碑と呼ばれる柱がそこここに建ち、風と光にあふれ、宙に浮かぶ砂漠の真ん中に神殿が浮かんでいる。
幻聴は、オベリスクで飾られた神殿の入り口から聞こえた。
――そなたはもう朕が愛した、あの不死鳥ではなくなっている。陽の落ちる場所の民によって歪められ、悪魔に堕とされた化け物よ。そんなものが朕に直接語りかけるなど不敬だ。撃墜し、乾いた地にたたき落としても何ら問題はないが、その前に話をきいてやらんでもない。そなた自身は、朕も興味をひく陽の昇る場所の民だからな。して、何用なのだ?
フェニックスは息をのんだ。生きた心地がしないとはこのことだった。ウカノミタマの作り出すあの廃神社の空間とは勝手が違う。あそこには柔和さはないが、敵意もなかった。今いるこの場所は違う。生堅さが満ち、自身が招かれざる者であるということを明瞭に伝えてくる。
ラーの御使い――巨大な怪鳥がフェニックスを見下ろし、翼幅は一〇〇メートルほどもあろうその威容が頭上に君臨した。怪鳥が羽ばたいても、しかし風に煽られることはまったくない。地上世界の物理法則とは根本的にかけ離れた異空間にいるのだ。故に、ここで争いになれば人の常識では考えられない方法で撃墜されることになる。徹頭徹尾、穏便に済まさなければならない。
この空間に人間社会の汚さはない。代わりに、自然の厳しさが存在する。まさに大いなる者の居ます場所だ。フェニックスはまず、その頭を垂れた。
「突然の来訪、まずは無礼をお許しください」
――なら最初からくるな。朕が嫌がるとわかっているならな。
言いつつ、ラーは鼻をならした。笑ったのだ。フェニックスが殊勝な態度をみせられる器量の者だと知って、多少の感心を示したか。礼を尽くす心の動きは万国共通――妖狐には、後で感謝しなければならない。
「お許しください。これは日ノ本を代表する大いなる者、アマテラス様の計らいでもあります。わたし、いえ、僕は、あなたの力をお借りしたいのです」
もう“私”という肩肘張った名乗りを使うのもやめた。自然のままの己をありのまま出すために、そして、一切の嘘を吐き出さないように、フェニックスはその口調の変更でこの空間にいるにふさわしい、一個の己でしかないことを伝えた。
ただ信じるしかなかった。妖狐の言葉と、そしてラーのすべてを。信じる者は救われると言われるように。
――アマテラスときたか。朕の耳にも当然入っている。そなたはアマテラスに認められた男のようだな。だが、その身の穢れ故に英雄にはなれなかった。直接支援されることもない。だが、認められている。これは極めて希有な類型であり、しかしながら、混沌を良しとする日ノ本らしいやり方ともいえる。いや、むしろそれ故に、貴様が日ノ本を代表する英雄の在り方を表していると、言えなくもない。
「恐れ多いお言葉です」
――黙れ。今さら何だといっているのだ。朕の威光をその身に感じ、全身のみならず魂までもを焼き尽くしたそなたは、しかし、あの天候神を討ったはいいが、今日まで朕の前に姿をみせることもなく、アマテラスなんぞの贔屓になって……とことん、不敬である。
「申し訳ありません」
――何が望みだ。アマテラスが手を差しのばすことはないのだろう? なら、朕が再びこの手を伸ばしてやっても良い。日ノ本に貸しをつくるのも悪くはない。その貸しによって、そなたの不敬も平らかに処してやる。いま頭をあげ、心して願うが良い。陽を司る者のうち、最高位の頂に立つ朕の威光に頼るが良い。朕が愛した不死鳥のよしみだ。すべてを叶えてやろう。
フェニックスは顔をあげた。笑うしかなかった。信じる者は、まさに救われるのだ。単純すぎるその道理に、フェニックスはこんなことなら早く頼むべきだったと思いながら、ただラーの恩情に感謝した。
「ありがとうございます。ならばもう一度、僕をあなたの火で焼いてください。身も心も、命も罪も、すべてを焼き尽くしてくれる、その大火で、僕の全部を焼いてください。これが、僕の願いのすべてです」
――真の望みは口に出さず、手段だけを供せよと?
フェニックスは思わず息を吐いた。大いなる者にはすべてを見透かされている。事実、ラーの火炎に焼かれて死にたいとは思っていなかった。不死であるが故にラーの火炎を全身に纏い、英雄の如き力を発揮できる状態になること――再び眷属態になることが目的だったのだ。
それさえ願いのすべてではない。眷属態になってからやりたいこともある。だが、ここですべてをうち明けるわけにもいかなかった。自然の法則の一部を崩し、世界の一部を歪める禁じ手を行うつもりなのだ。それを大いなる者の力で行いたいなどと、真正直に白状する愚を犯すつもりはない。
世界の法則を穢すこと。それは追跡者の側の行いなのだ。白状したが最期、処刑されるに決まっている。
「僕のすべてをお見通しなのであれば、どうか見届けてください。信じてください。たとえ一部を塗り替えたとしても、あなたの威光をいっそう輝かすと約束致します。これができなければ、僕は、僕の人生を始めることができません。どうか、お願いします」
再び頭をたれた。もう顔をあげるつもりはなかった。ただ平伏し、良い返事だけを待ち尽くす。その覚悟をもって、フェニックスは笑みを消してひれ伏した。
言葉は、しかし決して与えられなかった。大いなる者は、無駄な口約束などしないのだ。
代わりに、頭上に君臨していた巨大な怪鳥から幻聴が轟いた。
――さっきからオレのことは無視かよ、なあ!
思わず顔をあげた。フェニックスはそして見た。怪鳥の足が変形し、巨人の両足になるのを。
「!」
――ようやくオレが眼中に入ったって顔だな。気にくわねえ、不敬だ不敬!
つづけて怪鳥の両翼が腕に変わり、嘴が冑の角になる。顎の部分から顔が浮かびあがり、それはまさしく巨大な鳥人といった風情だが、その全身が淡い輝きを帯びているのを確認して、フェニックスは言葉を失った。
さきほどまでずっと頭上に君臨していた怪鳥はラーの眷属などではない。また別個の、大いなる者だったのだ。
――今こそ名乗ろう、我が名はホルス! 光の神とはオレのことよ!
大いなる相貌が笑みの形に歪み、フェニックスは迫る拳を視認した。
それはニンゲンの常識からみれば、隕石にも匹敵するほどの巨大な拳だった。
「潰すつもりですか? 僕を?!」
――ああ! 不敬な奴は潰す! 弱い奴は食われる! 当たり前のことだろうが!
天から降ってくる幻聴を受け止めながら、しかしフェニックスは体を回転させて加速し、拳をやり過ごす。
――ホルス。ほどほどにしておけよ。
――わかってるさ。ただの腕試しよ! さあ、手合わせだ! ヒノモトのガキ!
その御言葉は、きっとホルスの神殿を守護する衛兵からしてみれば身に余る栄誉には違いない。大いなる者から直々に力試しをしてもらえる機会など、常人なら一生に一度とないだろう。
「願いに来たのに、殺されるわけにはいかないんだよ」
フェニックスは不遜を承知で巨人――大いなる者・ホルスの眼前に定位した。フェニックスの身長はホルスの顔の大きさにすら及ばない。体躯のサイズにそれだけの差があれば、純粋な力比べでは勝負にもならないだろう。
――さあどうする?! ま、こっちから行くけどなあ!
はたして、それは大いなる試練。二撃目の拳が振り抜かれる。
フェニックスは、覚悟を決めた。避けることはできるが、そればかりではいずれ撃墜されるだろう。相手は疲れなどもちろん知らない大いなる者だ。長引けばそれだけ不利になるのは、ニンゲンの肉体を依り代にしているフェニックスの方だった。
「そっちがその気なら、僕だって……!」
言葉を吐いて、息を吸い込む。そしてフェニックスは、大いなる者・バアルを討った時の記憶を脳裏に蘇らせた。
「僕も、全部の力を使って、迎え撃ってやる!」
瞬間、バアルを討った際に用いた追跡者の力の一部が、魔人態特有の黒々としたマントとなってフェニックスの肩から生えた。
そのマントを翻し、フェニックスはホルスの拳を、さながら闘牛士のように受け流した。
――おっと! やるな! だが!
拳を受け流されたホルスの態勢は、しかし崩れない。人智を超えた動きで瞬時に立て直し、反対の拳を素早く突き出してくる。物理法則など無視した、それは大いなる御技だった。
――さあさあさあさあ! 潰れろよオ!
だが、その拳はまたも受け流される。小さな赤きフレア――まるで眷属態と似たもので、それをそのまま小型にしたような飛翔体が盾になり、ホルスの拳を真正面から受け止める。
――これは!?
大いなる拳の直撃をうけたそれは瞬時に消滅するが、直後に復活する。消されても蘇る不死の炎。小さな不死鳥だ。
――これは、紛れもなくラーの力? おい、お前まだこいつにパワーを供給してんのか?
――違うな。これは記憶から蘇りしもの。正真正銘、この者はあらゆる力を使おうとしている。どうする、ホルス?
――力の残滓ってわけか。ホンモノじゃねえなら、叩き潰すまでだ!
「僕の人生、誰にも潰させはしない!」
ホルスは、今度は巨大に過ぎる猛禽の爪を繰り出してきた。人智の及ぶ範囲では下から上に流れるハイキックでしかないが、大いなる爪が地から這い上がって天を衝き上げるその御姿は、フェニックスからしてみれば、爆発した火山から噴き上がるマグマが自分めがけて向かってくるようなものだった。
隕石レベル。その規模は拳の時と何も変わらない。むしろそれは拳よりも鋭利な形象を示して、あらゆる存在を木っ端微塵にする威力を直接的に伝えてくるかのようだった。
無論、食らうわけにはいかない。
この素早いキックを避けることができないと悟って、フェニックスはせり上がってくる爪を蹴って流すことにした。普通、それは単なる自殺行為だが、両足を獣人のそれに変化させることで人智を超えた俊敏さと柔軟さ――妖狐態の力を発現させたフェニックスは、大いなるキックの力さえも蹴って受け流す。
大いなる爪が上昇してくる圧倒的なスピードとまったく同じ速度で蹴りを繰りだし、足が爪についたその瞬間、爪の上昇スピードに呑み込まれる前にまた足を離す。
それはニンゲンの立場では妖術にしかみえない。まさに妖狐の力――フェニックスが自らの記憶から借り受けた、妖狐との思い出の力だった。
――何も受け付けないってか? だが、攻めなきゃ勝てねえぜ!
そして、攻める隙すら与えない。ホルスはキックの直後、どこかからか召喚した杖を投擲してきた。巨大な航空機が突っ込んでくるようなものだ。しかも速度はロケットさえ上回る。人類の文明を圧倒的に凌駕する鳥の彫刻の杖が、フェニックスに激突する。
為す術もなく撃墜されたかに見えたフェニックスだったが、文字通り紙一重の距離でやり過ごしていた。その頭部の角が結合して烏帽子の形になっている。それこそは義族態の力の発現を示す、弓の名手の形象だった。
それは不完全な発現でしかない。ウカノミタマから力を授かっているわけではないのだ。フェニックスが記憶の淵から引き出し、勝手に復元したものに過ぎなかった。その証拠に、万物を一撃で貫く英雄の弓矢を持ってはいない。
だが、それで充分だった。大いなる者の力を注がれた、あの全能の感触……必勝の予感と、不敗の安心感があらゆる感情の必要性を否定する。そんな明澄な心持ちが最後にフェニックスにもたらされることで、そのちぐはぐな最終形態――不完全態へのフォーゼチェンジが完了される。
追跡者の恥を隠す布きれ、地を疾駆する者の脚、認められた者の烏帽子、不死の表明、そしてまだら模様の肌と紫黒の炎翼。お世辞にもスマートな外観とはいえないそれは、相当に不格好でアンバランスで、すべてにおいて不揃いな見た目をしていた。だがそれ故に、世界で唯一無二の姿だった。あらゆる伝記や神話を見渡しても、こんな見た目の英雄なんてどこにもいない。
「僕は、僕だけの人生を!」
宣誓し、フェニックスは吶喊する。巨大な杖をやり過ごし、それ以上に巨大で完全な、大いなる者に向かってまっすぐ飛んでいく。
「僕の力で、切り拓く!」
飛びながら、フェニックス不完全態は溶けていった。その身に宿したあらゆる力が融合し、その全身さえドロドロに融解させながら、しかし変わらず飛翔する。ヒトの形を失い、しかしヒトの魂の波動を言葉として放つそれは、その先端にチビフェニックスを戴くことで最後に矢の形を獲得するに至った。
「邪魔をする者は、全部、排除する!」
変わらない決意を、いま再び宣誓して、藤堂巧が半生で獲得した力のすべてを溶かして作った乾坤一擲の矢が、ホルスに向かって突き進む。それは一世一代の、人生そのものをぶつける行為にほかならない。
天空そのものでもあるホルスは、大いなる空でヒトの極限が生み出されたことに満足して、笑った。
――やればできるじゃねえか。オマエの力だけで、ここまで!
「何?」
――為せば成る。ヒノモトの言葉だろ? その通りだってことさ!
ホルスはそして、藤堂巧の前から消えた。
――そのまま行け! その力で、世界を変えてやれ! さあ!
幻聴だけが聞こえる。藤堂巧は、笑った。
世界を変えろ? 言われるまでもない。そのためにここまで来た。
ホルスという標的がいなくなっても、巧は――フェニックスは歩みを止めない。飛び続けた。
そうして、フェニックスが文字通り全身全霊をなげうって錬成した紫黒の炎矢が、エジプトの空を突き破って世界の理を刺し貫いた。
その矢をラーが燃やし尽くすことで、今、大いなる不死鳥が生み出される。世界そのものを貫いて生まれた不死鳥が、今度こそ世界を焼き尽くす。
大いなる儀式が始まった。
その日、完全な不死鳥が空を渡ったという。だが人の常識に反するものは世界に存続してはならない。一瞬だけの顕現は、人に幻を思わせ、光の錯覚に端を発する見間違いだったと説明された。あるいは奇っ怪な与太話のひとつと数えられ、ひいてはつまらない噂話、都市伝説、誰かがいたずらに作ったコラ画像とまで言われて笑われ、すぐに霧散していった。
空を渡っている間、その不死鳥――藤堂巧は悶え苦しんだ。全身を焼き尽くされる痛みと苦しみに、それでも負けるものかと叫び、そして、その力を行使しつづけた。それはまさに一瞬の出来事だった。直後、巧の肉体は燃え尽き、灰になる。
(怖くなんかない)
死ぬことなんて、怖くない。新しい人生をはじめることだって、きっと。
灰から炎が発し、直後、大いなる翼となって天空を昇った。そのとき、地球を覆い尽くすほどの大翼をもった壮大な不死鳥が衛星軌道上に現われ、自然の法則の一部を焼き払って、消えた。




